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■ 七日目/6月29日(木):サンクトペテルブルク
観光(泊) ■ |
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★☆★彡 |
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▼ ツアー
七日目は、朝8時過ぎに専用のツアーバスにてホテルを出発し、終日、サンクトペテルブルクの観光を楽しんだ。 |
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サンクトペテルブルクの衛星画像 |
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ツァールスコエ・セロー Царское
Село |
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▲ ツァールスコエ・セロー(ツアールスカヤ・スィロー)は、サンクトペテルブルク中心区の南方25kmほどの位置にあるロシア皇帝の離宮やエカテリーナ宮殿などが集まる避暑地である。かつてはプーシキン市だったが、現在はサンクトペテルブルク市プーシキン区となっている。サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群の一つとして、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。 |
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「皇帝の村」を意味するツァールスコエ・セローは、200年もの間、皇族たちの夏の住まいとして使用されていた。豪華な宮殿を中心に、緑豊かな庭園が広がり、四季折々の自然を満喫できる名所である。 |
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エカテリーナ宮殿・中央門 |
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エカテリーナ宮殿 Екатерининский
дворец |
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▲▼
エカテリーナ宮殿(イカチリーニンスキー・ドヴァリェーツ)は、サンクトペテルブルク郊外の避暑地ツァールスコエ・セローに建てられたロシア帝国時代のロココ建築の宮殿である。 |
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ラストレッリが建造したエカテリーナ宮殿(世界文化遺産) |
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▲▼
第二次世界大戦では、ここを占領したドイツ軍による破壊と略奪の被害に遭ったが、現在は修復され、かつての皇族たちが接した風景に触れることができる。特に、近年、ドイツ軍に持ち去られていたエカテリーナ宮殿の「琥珀の間(こはくのま)」が修復されて一般公開されるに至り、訪れる人が絶えない人気スポットになっている。 |
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バロック様式の絢爛豪華な宮殿ファサード
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▲▼ 宮殿の名前は、ピョートル大帝の后でもあったロマノフ朝第2代ロシア皇帝エカテリーナ I
世(在位:1725-1727)に由来する。彼女がドイツの建築家を雇って夏の避暑用の離宮として1717年に造らせたのが最初で、その後、第6代ロシア皇帝エリザヴェータ(在位:1741-1762)の命により、1752年から建築家ラストレッリによりバロック様式への大規模な改修が行われた。更に、第8代皇帝エカテリーナ
II 世(在位:1762-1796)がスコットランド建築家に命じてクラシック様式による改装が行われ、現在に至っている。 |
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王冠のような黄金のクーポル(天蓋)
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▲ 世界文化遺産に輝くエカテリーナ宮殿の外壁の長さは、約300mあり、青いパステルカラーの塗装が涼やかなロシア・バロック様式の名建築である。特に、北棟の礼拝堂の屋根に
立てられた王冠のような5つの黄金ドームが当時の華やかな時代を偲ばせる。 |
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宮殿では靴の上にビニールのカバーをつけて
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▲▼ 見学者は、建物中央の入口で靴の上にビニールカバーを付け、正面階段から2階に上がって内部に入る。 |
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正面階段から入る |
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▼ 最初に迎えてくれるのが、ふたつのアモルの彫像である。「地球の歩き方」には天使と説明されているが、そうではない。多くの宗教画、ルネサンスやロココなどの絵画に登場
する子供の裸像を一律に「天使」と呼ぶことが多いが、実は様々な種類がある。 |
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羽のある童子や幼児の多くは、天使ではなく「アモル
Amor
」と呼ばれ、ギリシア神話の愛の神エロスに起源を持ち、ローマ神話の恋の神クピド(キューピット)の別名である。 |
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イタリア語の「Amore mio」(アモーレ・ミーオ)は「僕の可愛い人」という意味だが、アモーレはズバリ「愛」である。 |
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大理石の彫像「目覚めるアモル」 / 東側階段踊り場 |
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▲▼ 東側の窓辺に置かれたのが「目覚めるアモル」
、西側にあるのが「眠れるアモル」と呼ばれる。表情がとても愛らしい。ちなみに、エロスやアモル、キューピットは明瞭に男性だが、キリスト教の天使(エンジェル)は性別がないか、両性らしく、分かりにくい格好で描かれている。 |
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大理石の彫像「眠れるアモル」 / 西側階段踊り場 |
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▲
絵画によく登場する天使(エンジェル)は、ミカエル、ガブリエル、ラファエルという聖書に登場する三大天使だが、子供の姿でないことが多い。エンジェルの種類は多いが、最後の語尾が「el エル」であることが多いという。 |
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黄金で飾られた大広間 |
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▲▼ 歴史展示室を抜けると、見事な黄金で飾られた長さ47m、幅17m、面積846m2の大広間(バリショーイ・ザール)に至る。装飾の天才といわれた
イタリア生まれのロシアの建築家ラストレッリ(1700-1777)の傑作で、壮大な天井画は「ロシアの凱旋」の三部構成のもの。床は奇抜な寄木床である。 |
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金箔木彫装飾(菩提樹製) / 大広間 |
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▲▼ 1791年6月、井上靖の小説「おろしや国酔夢譚」で知られる漂流民・大黒屋光太夫(だいこくや・こうだゆう)が帰国を願うため、エカテリーナ
II 世に拝謁(はいえつ)し、帰国の許可を得たのが、この大広間だったという。 |
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立体的に描かれた天井画「ロシアの凱旋」 /
大広間
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▲▼ エカテリーナ宮殿は、一般に皇族たちが夏の間過ごしたことから「夏の宮殿」とも呼ばれる。名称として、エルミタージュの冬宮殿と対になるペテルゴーフ宮殿(レツニイ・ドヴァリェーツ)は、ピョートル大帝時代にサンクト・ペテルブルク中心部から30km離れたペトロドヴォレツの100以上の噴水があることで知られるペテルゴーフに建設されたが、冬宮殿と同じ壮麗なロココ建築のエカテリーナ宮殿が完成すると、実質的にこちらの宮殿が夏の宮殿として用いられた。 |
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両宮殿とその周辺は、現在、「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群」としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。 |
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帯勲者の食堂 |
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▲▼
さらに進むと、趣向を凝らした帯勲者の食堂や白い祝賀用の食堂、客間・寝室などがあり、どの部屋にもオランダ製の豪華なデルフト焼の壁式ペチカ(暖炉)が備えられていた。写真下は、「デルフトブルー Delft blue」が美しい装飾タイル製の逸品である。ペチカといえば寒い冬には欠かせないロシアの必需品であり、壁に埋め込むロシア式ペチカが世界に広がっていった。 |
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装飾タイル製のペチカ / 食堂 |
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ラズベリー色の付け柱の間 |
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▲▼
ラズベリー色の付け柱の間や緑色の付け柱の間は、上品で美しい装飾にうっとりとしてしまう。写真下の黒人の人形は、エカテリーナ宮殿に実際に働いていた人たちを模したものだという。 |
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緑色の付け柱の間 |
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琥珀の間 |
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Янтарная
комната |
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エカテリーナ宮殿の琥珀の間(ヤーンタルナヤ・コームナタ)は、その名のとおり、部屋全体の装飾が琥珀で出来ており、世界で唯一のものである。残念ながらこの部屋だけが撮影禁止となっていた。 |
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第二次世界大戦のレニングラード包囲戦中に琥珀がナチス・ドイツ軍に持ち去られため、長い間、琥珀の間は失われていたが、1979年から始まった復元作業が2003年に完了し、一般に公開されるようになった。細かな職人技を見て、ため息を漏らさない人はいないだろう。 |
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琥珀の間 |
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緑色で統一した緑の食堂(ゼリョーナヤ・スタリーヴァヤ)は、古代ローマ風の浮き彫りと壁画がとても美しい。エカテリーナII世の時代に造られたもので、女帝の女性らしい繊細な感性をうかがい知ることが出来る。 |
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古典様式装飾の「緑の食堂」 / エカテリーナII世の時代 |
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エカテリーナ
II
世 Екатерина
II Алексеевна |
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▼ エカテリーナ II 世( エカチェリーナ II アレクセーエヴナ 1729-1796
)は、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝(在位:1762-1796)である。夫はピョートルIII世、子にパーヴェル
I 世がいる。
純粋のドイツ人で、ロシア人の血は一滴も流れておらず、側近の支持を得てクーデターにより無能な夫を廃位・暗殺させて帝位についた女傑である。 |
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プロイセンのフリードリヒ
II
世(大王)やオーストリアのヨーゼフ
II
世と共に啓蒙専制君主の代表とされる。ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナに拡大し、ロマノフ王朝の最盛期を支えた女帝で、
ピョートル I
世とともに大帝(ヴェリーカヤ)と称される。 |
日本では従来「エカテリーナ」の表記が多かったが、原音により忠実な「エカチェリーナ」の表記が普及してきた。また、ドイツ語や英語由来の「カタリーナ」、「カザリン」、「キャサリン」などの表記も散見する。「エカテリーナ」のロシアでの愛称は「カチューシャ」。愛らしい女性という意味もある。 |
勇名を馳せた女帝だったが、私生活面では生涯に約10人の公認の愛人を持ち、数百ともいわれる男性愛人を抱え、夜ごと人を変えて寝室を共にしたとする伝説もある。孫のニコライ
I 世には「玉座の上の娼婦」とまで酷評された。 |
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45歳の頃、10歳年下のポチョムキン(タヴリチェスキー公爵)と結ばれる。家庭には恵まれなかったエカチェリーナの生涯唯一の真実の夫というべき男性で、私生活のみならず、政治家・軍人としても女帝の不可欠のパートナーになったという。 |
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玉座の女帝・エカテリーナ II 世 |
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「大黒屋光太夫」始末記 |
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1783年、伊勢白子(現鈴鹿市)の船頭である大黒屋光太夫は、江戸への航海途中に漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。その後ロシア人に助けられ、シベリアの首府イルクーツクに滞在した。ここで学者のキリル・ラックスマンの援助で、帰国請願のためサンクトペテルブルクに向かい、1791年、エカチェリーナ
II
世に拝謁して、帰国の儀を聞き届けられている。キリルの次男アダム・ラックスマンが、鎖国状態の日本に対して漂流民を返還する目的での遣日使節として日本に派遣され、1792年、光太夫らは根室に帰着した。 |
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エカテリーナ宮殿と庭園 |
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なつのそら ぱすてるぶるーの ごてんかな |
The palace of pastel blue, under the summer
sky. |
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エカテリーナ宮殿の庭園 |
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幕府の老中・松平定信は、光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周(かつらがわ・ほしゅう)や大槻玄沢(おおつき・げんたく)ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。桂川甫周による聞き取り「北槎聞略(ほくさぶんりゃく)」が資料として残され、波乱に満ちたその人生は、小説や映画などでたびたび取りあげられている。 |
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写真下は、大黒屋光太夫が書いた日本の地図。裏面には墨書で『天明九酋歳七月末日大日本国伊勢国白字大黒屋幸太夫』とある(1789年)。ロシア陸軍の医師をしていたゲオルグ・トーマス・フォン・アッシュ
( Georg Thomas von Asch )
がゲッティンゲン大学に送ったカードには、ドイツ語で「1793年イルクーツクで受け取る」と記してあった。ドイツ・ゲッティンゲン国立大学図書館
( Gottingen State and University Library
)蔵 |
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大黒屋光太夫が書いた日本地図 |
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▼ BGMに流れる曲は、いずれもヴォルガ川ゆかりの歌曲である。全長3,690kmにおよぶヴォルガ(ヴォールガ)は、ロシア西部を流れるヨーロッパ最長の川で、ロシア主要部を水系に含む「ロシアの母なる川」である。モスクワとサンクトペテルブルクの中間にあるヴァルダイ丘陵(225m)を発して東流後、南に転じ、ボルゴグラードから南東流してカスピ海に注ぐ。河口に大デルタを形成する。 |
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帝政ロシア時代にはヴォルガ川海軍艦隊が置かれた。流域は肥沃で麦が大量に生産される。また、石油・天然ガス・岩塩などの鉱物資源も豊富である。ヴォルガ・デルタとカスピ海は漁業が盛んで、アストラハンはキャビア生産の中心地となっている。 |
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カスピ海に注ぐヴォルガ川 |
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ステンカ・ラージン Стенька
Разин
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▼ ステンカ・ラージンは、民俗学者・詩人のザド−ヴニコフ(1847-1883)が晩年に書いた詩に基づくロシア歌曲。歌詞の内容は、実在したコサックの頭領(アタマン)ステンカ・ラージン(ステパン・ラージン)の反乱が題材となっている。(17世紀ロシアの義勇団として名を馳せた実在のステパン・ラージンは、モスクワの赤の広場にあるロブノエ・メストで、生きたまま四つ裂きの刑に処された。) |
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Стенька Разин (抜粋) |
ステンカ・ラージン
(与田準一訳による歌詞) |
Волга, Волга, мать родная,
Волга, русская река,
Не видала ты подарка
От донского казака!
Мощным взмахом поднимает
Он красавицу княжну
И за борт её бросает
В набежавшую волну. |
1.久遠にとどろくヴォルガの流れ
目にこそ映えゆく
ステンカ・ラージンの舟
目にこそ映えゆく
ステンカ・ラージンの舟
3.ドンコサックのむれに今わくそしり
奢れる姫なり
飢うるは我ら
奢れる姫なり
飢うるは我ら |
2.ペルシャの姫なり燃えたる口と
うつつに華やぐ
宴が流る
うつつに華やぐ
宴が流る
4.そのかみ帰らずヴォルガの流れ
さめしやステンカ・ラージン
眉根ぞかなし
さめしやステンカ・ラージン
眉根ぞかなし |
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舞台は17世紀のロシア。他国との度重なる戦争で、ロシア人民の生活は困窮を極めていた。その頃ラージン率いる盗賊団は、ヴォルガ川で強奪を繰り返していた。
1668年になると、ラージンはペルシア(サファヴィー朝)に侵略の手を延ばしていった。7月には差し向けられたペルシア艦隊を撃滅するなど、ステンカ・ラージンはペルシア王子にも手のつけられない存在となった。
ペルシア攻略の際、ラージンは王宮で姫を奪い去った。そしてヴォルガ河口のアストラハン (Astrakhan)近くの船上で、ペルシャの姫と婚礼を挙げた。船上で陽気に酔っ払っていたラージンだったが、「俺たちと女を引き換えやがった」と不満を漏らす部下たち。そこでラージンは、「生みの母ヴォルガ、ロシアの 川よ」と呼びかけ、「贈り物を受け取ってくれ!」と、ペルシャの姫をヴォルガ川に投げ込んだという。
原詩は、11番まである。「久遠にとどろくヴォルガの流れ・・・」は、与田準一の名訳。「コサック」は英語、ロシア語では「カザーク」(自由な民)である。ステンカは、ステパンの愛称。
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ウリャノフスク Ulyanovsk を流れるヴォルガ川 |
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「ヴォルガの舟歌 Стенька
Разин
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▼ ヴォルガの舟歌は、世界的に有名なロシア歌曲。ロシアの音楽家バラキレフ(1837-1910)が1860年代にヴォルガ川の上流にあるニジニ・ノヴゴロド地方で採譜したもの。バラキレフが提示したのは最初の1小節のみで、残りの2小節は後に付け加えられたものだという。ロシア出身のオペラ歌手シャリアピン(1873-1938)によって広められ、世界的に知られるようになった。 |
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Эй, ухнем |
ヴォルガの舟歌
(訳詩) |
Эй, ухнем!Эй, ухнем!Еще разик, еще раз!
Эй, ухнем!Эй, ухнем!Еще разик, еще раз!
Разовьем мы березу,Разовьем мы кудряву!
Ай-да, да ай да, ай-да, да ай-да,
Разовьем мы кудряву.
Разовьем мы кудряву.
Эй, ухнем!Эй, ухнем!Еще разик, еще раз!
Мы по бережку идем,
Песню солнышку поем.
Ай-да, да ай да, ай-да, да ай-да, |
えい、こーら!えい、こーら! もう一回、もう一丁!
えい、こーら!えい、こーら! もう一回、もう一丁!
白樺の枝を編もう 編んだ枝を解こう!
アイダダ、アイダ、アイダダ、アイダ
編んだ枝を解こう 編んだ枝を解こう
えい、こーら!えい、こーら!
もう一回、もう一丁!
おれたちゃ、岸辺に沿って行く
お天道様に向かって唄う
アイダダ、アイダ、アイダダ、アイダ
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Песню солнышку, поем.
Эй, эй, тяни канат сильней!
Песню солнышку поем.
Эй, ухнем!Эй, ухнем!
Еще разик, еще раз!
Эх ты, Волга, мать-река,
Широка и глубока,
Ай-да, да ай да, ай-да, да ай-да,
Широка и глубока.
Эй, что нам всего милей!
Волга, Волга, мать-река,
Эй, ухнем!Эй, ухнем!
Еще разик, еще раз!
Эй, ухнем!Эй, ухнем!
Еще разик, еще раз!
Эй, ухнем!Эй, ухнем… |
お天道様に向かって唄う
そら、そら、綱を曳け、力込めて
お天道様に向かって唄う
えい、こーら!えい、こーら!
もう一回、もう一丁!
ああ、ヴォルガ、母なる河よ
広く深い河よ
アイダダ、アイダ、アイダダ、アイダ
広く深い河よ
えい、われらみなが愛する河!
ヴォルガ、ヴォルガ、母なる河よ
えい、こーら!えい、こーら!
もう一回、もう一丁!
えい、こーら!えい、こーら!
もう一回、もう一丁!
えい、こーら!えい、こーら‥
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▼ 当時、ヴォルガ川沿岸では、物資や旅客の輸送を担う川船の接岸を補助する舟曳き人夫たちが多数働いており、その多くは貧農小作人や放浪者たちだった。ヴォルガの舟歌は、こうした下層民たちが働きながら唄う哀調溢れる労働歌である。
原題は「エイ・ウーフネム」。元来は、「ステンカ・ラージン」などと同じく、農民暴動の歌だったが、政治的な部分が欠落してしまったといわれている。「エイ・ウーフネム」はかけ声で、日本人には「えいこーら」に聞こえる。
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ヴォルガの舟曳き
(1873)/ イリヤ・レーピン(1844-1930)画 国立ロシア美術館(サンクトペテルブルク)蔵 |
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