2010年4月8日改訂 |
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1998年11月11日から3日間、ベニスを訪問した。ベニスは、1987年、その潟とともに世界遺産に登録されている。
ベネチアは、北イタリアのベネト州の州都で、アドリア海の最も奥まった所にある潟(ラグーナ Laguna)の上に形成された水の都である。ベネチア(ベネツィア)はイタリア語であり、英語ではベニス Veniceという。人口30万6000(1994)。この潟は、堤防のように延びるリド Lido 島によってアドリア海と隔てられ、その途中3ヵ所にある自然の水門から出入りする海水によって絶えず浄化されている。ベネチアはこのような生きた潟のデリケートな自然環境のうえに誕生し、水辺の困難な条件を克服しながら独特の都市を築き上げた。潟の中には、ほかにもトルチェロ島、ブラノ島、ムラノ島など多くの島が散在する。 ベニスの玄関口 ベニスの表玄関は、もともと潟の水面に開かれ、2本の大円柱を構えたサン・マルコの小広場(ピアツェッタ)であったが、近代に本土のテラフェルマとの間に鉄道橋(1846)と自動車橋(1932)が建設されたために、都市構造が大きく転換し、北西部の終着駅サンタ・ルチアと自動車のターミナルのあるローマ広場が町の新たな玄関となった。 |
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我々日本人ツアー客は、ミラノからバスでベニスに移動。自動車橋を渡り、ベニスの玄関口・ローマ広場に到着した後、水上バスか、水上タクシー(モーターボート)に乗り、目指すホテルに向かうことになった。 キャサリー・ヘップバーン主演の映画「旅情 Summertime 」では、主人公ミス・ジェーン・ハドソンは汽車でサンタ・ルチア駅に到着。ポーターから水上バスが安いと聞いて、水上バスに乗り込み、宿泊先のペンションに向かった。我々一行はホテルがサン・マルコ広場の近くで、かなり距離があるので、水上タクシーに乗り込んだ(写真)。 映画「旅情」は熟年のアメリカ人女性が一人でベニスを観光し、ハンサムな骨董屋の主人とのアバンチュールを描いた名作だが、数十年前の古い映画にもかかわらず、現在も大筋において環境は何ら変わることろはない。まるでタイムカプセルに入ったような気がする。 |
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かってのベニスの玄関口だったところ。現在でも観光の中心地となっている。 有翼ライオン像(右)とベニスの初代守護聖人テオドルス像(左)を載せる2本の大円柱が、当時の繁栄を偲ばせる。手前に見えるのが小広場で、鐘楼の向こうを左に曲がるとサン・マルコ広場となる。鐘楼の手前がドゥカーレ宮殿《パラッツォ・ドゥカーレ(総督宮)》。 ショーン・コネりー主演の007シリーズ「ロシアより愛を込めて From Russia With Love 」では、オリエント急行のダイニング・カーで敵方スパイがイタリアワイン・キャンティに混入した睡眠薬を飲んでフラフラになったジェームス・ボンドが、危機一髪で列車から脱出し、モーターボートに乗ってアドリア海を航走し、ベニスに到着する。007シリーズの最高傑作だったこの映画では、スクリーンに映し出されたベニスの玄関口『サン・マルコ小広場』が特に印象的だった記憶がある。 ドゥカーレ宮殿 Palazzo Ducale ベネツィア共和国総督の政庁として9世紀に建てられたが、何度かの火災にあい、現在の建物は15世紀のもの。いくつもの評議員部屋があり、素晴らしい絵画も飾られている。中でも2階大評議員会議室にあるティントレットの「天国 Paradiso」は7mX22mもあり、世界最大の油絵だといわれている。 ここから階段を下りると溜息の橋 Ponte dei Sospiri へ出る。この橋を渡った囚人は二度とこの世に戻ってこられないといわれ、橋の小窓からこの世に別れを惜しみ、溜息をついたといわれる。 |
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当初ベネチアは、ビザンティン帝国の支配下にあったが、823年、アレクサンドリアから盗み出されたマルコの遺体が運ばれてきたのを機に、従来のギリシア系のテオドルスに替えてマルコをこの町の新しい守護聖人とし、宗教的な独立を成し遂げた。 大円柱の先端には、ベニス初代守護聖人のテオドルスの勇姿が見える。二代目守護聖人のサン・マルコは、サン・マルコ大聖堂に安置されている。 守護聖人 patron saints キリスト教世界において、特定の団体、教会、都市、国などを保護すると考えられた聖人のこと。多神教世界が一神教としてのキリスト教と接触する過程で生じたのが守護聖人崇拝である。 ヨーロッパでは、ゲルマン地域はもとよりすでにローマ化されていた地域も含めて異教的伝統をのこす世界では、子どもの誕生、結婚、葬儀などの人生の節目や、農耕における播種と収穫、その他病気や災難にみまわれたときなどにさまざまな儀礼があり、それぞれの生活領域に固有の神々がいた。このような世界に生きていた人々にとって新しく入ってきたキリスト教の神は抽象的で普遍的であり、具体性を欠いていたから、キリスト教を受容したのちも日常生活の具体的局面において共同体と個人を守護する独自な存在が求められた。ここにおいて成立したのが守護聖人であり、それはかつては異教の神々が担っていた人間生活の多様な面における守護の機能を備えていた。家族、教会、都市などもそれぞれの守護聖人をもつことになった。 |
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旅 情 映画「旅情」でキャサリー・ヘップバーン扮する主人公ミス・ジェーン・ハドソンが赤いゴブレットを買った店の主人レナート・デ・ロッシとデートを重ねたサン・マルコ広場は、今も変わらない。広場に並べられた白いテーブルと椅子は観光客を魅了して止まない。映画のストーリーよりも有名になったテーマ曲「旅情(Summertime in Venice)」の、あのあまく切ない調べが、今も聞こえてくるようだ。 映画「旅情」のjジェーンは、サン・マルコ広場の一角にあるテーブルに座り、8ミリカメラを回していたところ、近くのテーブルのハンサムな男性の視線を感じ、ビックリして席を立ってしまう。これがロマンスの始まりだった。その後、ジェーンは、骨董屋のショーウィンドウにあった赤いゴブレットが気に入り、店に入ったところ、偶然にもその店の主人がサン・マルコ広場で彼女に視線を送っていたレナートだった。彼女は慌てて店を飛び出した...。 レナートがジェーンを口説く言葉が印象的だ。「二人は出会い、愛を感じた。素敵なことだ。どこが悪い。」ミス・ジェーンと妻帯者レナートとのつかの間の情事。イタリア人の人生哲学が見える。ジェーンが言ったように、ここは「おとぎの国」なのだ。
ヨーロッパで初めて珈琲を飲ませた店だと言われているカフェ・フロリアンに入り、そこで飲んだ珈琲の味は、また格別だった。 サン・マルコ広場 Piazza San Marco ベネチアの中心広場。市政と祝祭行事の舞台としてベネチアの歴史を刻む。現在は同市第一の観光名所として世界的に有名。ピアッツァ(広場の意。170m×70m)とピアッツェッタ(小広場の意。83m×47m)の、L 字形に連なる2部分に分かれ、前者の東辺にサン・マルコ大聖堂が、有翼ライオン像とテオドルス像を載せる2本の大円柱を介して海に開く後者の東辺にパラッツォ・ドゥカーレ(総督宮)が位置する。 |
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広場の結節点に立つ鐘楼(高さ99m。ガリレイはこの塔から天体観測を行った)は10世紀の監視灯台(16世紀再建)を転用したもので、1902年の倒壊後、復元された。ナポレオンは、連続するアーケードで囲まれた広場を、〈ただ天空のみがその屋根としてふさわしいヨーロッパ最美のサロン〉と表現した。広場南辺のカフェ〈フロリアン〉は、1645年、ヨーロッパで最初にコーヒーを飲ませた店といわれる。
かってのベニスの玄関口で、観光客の乗る黒塗りのゴンドラが出入りする。夕闇が迫り、そろそろセレナーデを奏でるゴンドラ・ツアーが始まる。今、その準備が始まった。 ゴンドラ gondola ベネチアの運河で使われている小型の遊覧船。船首、船尾が反り上がり、船首材には、ローマ神話の海神ネプトゥヌスが持つ三叉のほこをかたどったといわれる飾りがついている。現在は1人こぎだが、2人、4人こぎもあった。その起源は明らかでないが、11世紀末の文献にその名が見える。15世紀末の絵画では船首飾がなく、16世紀末にはアムステルダム、18世紀にはロンドンのテムズ川でも使われていた絵画が残っている。 |
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鐘楼 Campanile の上まで、エレベータで登ってみた。風が強く、寒かったが、360度のパノラマは素晴らしい眺めだった。どちらを向いても一幅の絵になる。水上都市をますます実感するアングルだ。遠くアドリア海が望める。 アドリア海 Adriatic Sea イタリア、バルカンの両半島に挟まれた地中海の内海。オトラント海峡によって南のイオニア海と隔てられている。北部は比較的浅い(100〜200m)が、南部では1000mを超える所がある。バルカン半島側は、海岸線が複雑で、沿岸に無数の島が見られるのに対し、イタリア側は概して単調で自然の良港に乏しい。また広大なデルタ地帯を形成しているポー河口以北では、ベネチア周辺のように、河川が運ぶ土砂の堆積によるラグーンが発達している。 メッシナ海峡が激しい潮流を伴うため、この海域は古来ローマと東地中海地域とを結ぶルートとして重要視された。とくに11世紀以降はベネチア共和国が制海権を獲得し、東方貿易の舞台としてにぎわい、ベネチア湾と呼ばれたこともあったが、インド航路発見とともに重要性が薄れた。 ベネチア没落以後は、トリエステを軍港とするオーストリア帝国が主導権を握り、トルコ帝国とにらみ合った。その後、局地的沿岸交易の場に甘んじてきたが、近年、沿岸の工業化、観光地化によって再び活況を呈しつつある。 |
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イタリアのベネチアを代表するビザンティン・ロマネスク様式の大聖堂。ベネチア商人によってアレクサンドリアから盗み出されたマルコ(以後ベネチアの守護聖人となる)の遺骸を納めるために830年ころ創建され、976年に内乱による火災で倒壊、978年に再建、さらに、11世紀に時の総督コンタリーニ Domenico Contarini(在任1043‐70)により現聖堂が建立された(1063‐73)。1807年司教座が置かれる。 当初の建物は大部分木造であったが、現聖堂は鮭瓦造りで、床に大理石、斑岩、メノウを敷き、壁面を大理石の装飾柱と金地モザイクで内装する。コンスタンティノポリス(現、イスタンブール)の聖使徒教会堂(アポストレイオン)を模して計画され、5個の円蓋によってギリシア十字形平面を覆う〈5ドーム式〉である。内径12.8mの中央円蓋は砕石と鮭瓦で造られた4本の大きな角柱で支持され、他の4円蓋との間を階上席および歩廊とする。 主祭壇背後を飾るパラ・ドーロ Pala d’oro(黄金の障壁の意)は、細工を施した金板に約2000の宝石と137のエマイユ(象嵌色ガラス細工)をはめ込んだけんらんたる装飾パネル(高さ2.12m、幅3.34m)で、光と色彩の効果を聖画像のなかに追求したビザンティン荘厳美術工芸の至宝である。 |