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2010年2月8日(月)〜15日(月)の間、家内と共に阪急交通社が主催する「ベネチア・ニースの2大カーニバルとマントンのレモン祭り8日間」のツアーに参加した。以下、この旅のハイライトを紹介したい。 |
■ 旅の概要 ■
1日目 2010年2月08日(月) 関西国際空港〜アムステルダム経由〜ミラノ空港 (ミラノ泊)
2日目 2010年2月09日(火) ミラノ〜ベネチア(以下ツアーバス) カーニバルなど観光 (ベネチア泊)
3日目 2010年2月10日(水) ベネチア〜フィレンツェ フィレンツェ市内見学 (フィレンツェ泊)
4日目 2010年2月11日(木) フィレンツェ〜ピサ(観光)〜ジェノバ (ジェノバ泊)
5日目 2010年2月12日(金) ジェノバ〜モナコ(観光)〜ニース カーニバル前夜祭(ニース泊)
6日目 2010年2月13日(土) 午前:ニース市内自由観光 午後:カーニバル観覧 (ニース泊)
7日目 2010年2月14日(日) ニース〜マントン(レモン祭)〜ニース・コートダジュール空港 (機内泊)
8日目 2010年2月15日(月) アムステルダム経由〜関西国際空港 |
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【凡例】 ▲:上の画像の説明文 ▼:下の画像の説明文 〈画像の左クリック〉:別窓に拡大写真を表示 |
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青い機体のKLMオランダ航空機 / 関西国際空港 |
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■ 1日目:関西国際空港〜アムステルダム経由〜ミラノ空港 (ミラノ泊) ■ |
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初日2月8日(月)は、関西国際空港14:15発KLMオランダ航空機に搭乗して出発。オランダ・アムステルダム・スキポール空港でKLM便に乗り継ぎ、同日22時頃、イタリア・ミラノ・マルペンス空港着。ミラノ・ホテル泊。 |
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北イタリアの地図 |
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資料:地球の歩き方 |
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■ 2日目:ミラノ〜ベネチア(以下ツアーバス) カーニバルなど観光 (ベネチア泊) ■ |
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2日目2月9日(火)は、午前8時頃専用バスでホテルを出発、ベネチアへ。ベネチア大陸側で昼食後、バスでリベルタ橋を通り、ベネチア本島へ。バスを降り、水上バスでサンマルコ広場へ。ゴンドラで遊覧後、カーニバルを観光した。再び水上バス・専用バスを乗り継ぎ、夜遅く大陸側のホテル泊。ベネチアとフィレンツェは16年ぶりの訪問だった。 |
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船着場から水上バスに乗船/サンタ・ルチア駅前(ベネチア) |
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▲▼
イタリアの北東部に位置するベネチアは、ヴェネト州の州都、ベネチア県の県庁所在地である。中世にはベネチア共和国の首都として盛えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」「アドリア海の真珠」ともいわれる。 |
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カナル・グランデ(大運河)を行き交うヴァポレット(水上バス) |
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▲▼ 古来はラテン語でウェネティ人の土地を意味し、ウェネティ人が住んでいたアドリア海の奥に拡がる土地をウェネティア Venetia と呼んだことから来ている。ラテン語ではヴェネツィア。英語でヴェニス Venice、フランス語でヴニーズ Venise 、ドイツ語でヴェネーディヒ Venedig と呼ばれる。 |
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日本語の表記では、イタリア語から来たものでもヴェネツィアを始めとして、ヴェネチア、ベネチア、ベネツィアなど様々。英語由来ではヴェニス、べニスなどと書かれる。阪急交通社ではベネチアと表記している。 |
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陽気な水上バスの船長 |
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▲▼ アドリア海の最深部、ベネチア湾にできた潟 ラグーナ Laguna di Venezia or Laguna Veneta の上に築かれたベネチアは、島の中に運河が縦横に走る水の都である。近年の地球温暖化に伴い、水位が上昇し、度々浸水の被害が発生しており、治水対策が大きな課題となっている。 |
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大運河南端に位置するサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会 |
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▲▼ 本島は大きな魚のような形をしており、その真ん中を全長約3kmに及ぶ逆S字形の大運河 カナル・グランデ
Canal Grande が北西から南東へ、市街を2つに分けながら湾曲して流れている。鉄道路線と土手を走る車道が島々と本土を結び、ラグーナの外側の長い砂州や海岸の防波堤がこの町を海から守っている。150をこえる運河が177の島々を分け、運河には400におよぶ橋がかかる。 |
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サン・マルコ大聖堂の鐘楼 / サン・マルコ運河 |
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▲▼ 地上では、迷路のように狭くて曲がりくねった路地や通りに自動車は入れず、橋も歩行者専用である。何世紀もの間、市内の輸送をになったのは、ゴンドラ gondola と呼ばれる手漕ぎボートだった。現在は水上バスやフェリーが市民や貨物を運んでいるが、ゴンドラも対岸への往復や観光に利用されている。 |
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サン・マルコ広場東方の船着場と対岸・マッジョーレ島のサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会 |
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サン・マルコ広場東方のスキアヴォーニ河岸に上陸 |
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カーニバル/謝肉祭 Carnevale / Carnival (英)
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▼ カーニバルは、「謝肉祭」と訳され、キリスト教で四旬節という断食のような時期の前に行われる羽目の外せるイベントである。現在では、宗教色が薄まり、お祭り的要素が強くなっている。国によって時機や開催期間も異なるが、2月前後に2週間ほど行われることが多い。 |
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ベネチアのカーニバルに必須の仮面を売る店 |
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▲▼ ベネチアのカーニバルは、中世に貴族たちが身分を隠して庶民と交わって遊ぶためにマスクを付けて町に繰り出すようになったのが起源といわれている。その後、「アドリア海の女王」と呼ばれる都市国家に発展するにつれ、カーニバルの時期に限らず、毎日のようにお祭り騒ぎが繰り広げられるようになった。 |
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美しく彩られた数々の仮面 |
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▲▼ 仮面という隠れ蓑を利用して、モラルに反する行為が横行するようになり、ある時期には仮面が禁止されたこともあったが、近代に入ると、かつての栄華を偲ぶ人が増え、現在ではカーニバルの時機に人々が再び仮面で扮装するようになり、世界的に知られるようになった。 |
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赤いドレスで揃えた女性 |
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▼ ゴンドラ gondola は、ベネチアの伝統的な手漕ぎボートをいい、過去何世紀にも渡ってベネチアでの主な交通手段だった。現在も蜘蛛の巣状に張り巡らされた水路の岸と岸をつなぐ渡し船(トラゲット)としての役割を果たしている。現在のゴンドラの数は、200〜300で、その殆どが観光タクシーとして使われている。 |
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ゴンドラに乗って運河を巡るツアーは、ベネチアに行けば誰もが経験するほど人気がある。希望すれば、歌手のカンタンテ Cantante が乗り込み、運河を巡りながらカンツォーネ Canzone を歌ってくれる。 |
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観光ゴンドラ乗り場 |
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▲▼ ベネチア共和国時代に費用削減法が実施され、ゴンドラは黒の塗装を義務づけられることになった。それが習慣となり、法律が無効になってからも現在に至るまでゴンドラは黒に塗装されている。18世紀には、ゴンドラの数は数千を超えたといわれており、19世紀末まで発展し続けたが、それ以降、モーターボートがゴンドラに取って代わりつつある。 |
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日本人観光客を乗せて着桟するゴンドラ |
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▲▼ ゴンドラによっては小さな客室を設けて日射しや雨を避けることができるものもある。ゴンドラは、長くて幅が狭く、船体が非対称で、縦に湾曲して水との接触面を最小にとどめているため、一つの櫂(かい)だけで種々の推進力を得ることができる。 |
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仮面を被ったゴンドラ客 |
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▲▼ 船の前面にある鉄製の装飾は、フェッロ・ディ・プルーア ferro di prua と呼ばれ、 「舳先の鉄」という意味である。フェッロは衝突の衝撃から船首を守ると共に、装飾の役割や船尾近くに立つゴンドリエーレ(船頭)とバランスを取るおもりの役目を果たしているという。 |
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溜息の橋(ポンテ・ディ・ソスピーリ)の下を通過 |
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▼ ゴンドラは、舳先に向かって船尾に立つゴンドリエーレ(船頭)が片方だけの櫂を漕いで舟を操っている。一般に考えられているのとは違い、ゴンドラは海底を棒でつついて進んでいるわけではない。それにはベネチアの海が深すぎる。 |
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櫂 remo は、櫂留め forcola で留められている。櫂留めは複雑な形をしており、櫂を当てる位置と漕ぎ方を変えることによって、ゆっくりした前進、速い前進、回転、減速、後進の推力が生まれるという。 |
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狭い水路を進むゴンドラ |
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ごんどらの かいのしずくや はるきざす |
Signs of spring, drops of the paddles of gondolas. |
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ゴンドラ遊覧を楽しむ旅友たち |
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カンツォーネは、イタリア語では単に歌を指すが、日本国内においては主に19世紀末から20世紀初頭に書かれたイタリアの大衆歌曲、特にナポリのもの(カンツォーネ・ナポレターナ Canzone napoletana)を指すことが多い。 |
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これらはイタリア民謡とよばれることもあるが、古くより伝承された作者不詳の歌ではなく、近代において専門家によって作詞・作曲された流行歌であるため、「民謡」と呼ぶのは適切ではないとする意見もある。この他、1960〜1970年代に日本で流行したイタリアのポップスのこともカンツォーネと呼ばれる。BGMに流れる曲は、前者のカンツォーネである。 |
カンツォーネとして有名な曲は、サンタ・ルチア 、オー・ソーレ・ミオ、帰れソレントへ、フニクリ・フニクラ、わすれな草、あまい囁き、夢みる想い(ジリオラ・チンクェッティ) など多数。 |
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狭い水路に架かる小さな歩道橋 |
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はるあさき うんがにきこゆ かんつぉーね |
Early spring, hearing a canzone at a canal. |
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二人だけのゴンドラ・クルーズ |
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ナポリ民謡として知られるサンタ・ルチアは、3世紀後半から4世紀初頭のイタリアにおける実在の人物で、ナポリの船乗りたちの間で守護聖女として崇められており、港名にもなっている。次のような伝説が残されている。
ルーシー Lucy はイタリアのシチリア島にある町シラカス Syracuse (数学者アルキメデスが生まれ育った町)の裕福な家庭に生まれた。彼女はキリスト教の熱心な信者だったが、それを認めない母親が難病を患い、ルーシーがキリスト教の聖人アガサ St.Agatha に祈り続けた結果、その難病が奇跡的に治癒された。それ以来、母親はルーシーがキリスト教へ生涯を捧げることを許した。 |
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Sul mare luccica, l'astro d'argento
Placida e` l'onda prospero il vento
Venite all'agile barchetta mia
Santa Lucia! Santa Lucia! |
輝く海 輝く星空
波は穏やかに、風は軽やかに
私の小舟よ 軽快に進め
聖ルチア! 聖ルチア!(歌詞抜粋) |
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フニクリ・フニクラ Funiculì funiculà
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フニクリ・フニクラは、1880年にトーマス・クック社によってヴェスヴィオ火山山頂までの登山鉄道「フニコラーレ」(ケーブルカー)が敷設されたが、当初は利用者が少なかった。そこで、同社の依頼を受けたルイージ・デンツァが宣伝用に作曲したもので、世界最古のコマーシャルソングといわれる。歌詞の内容は、男性が登山鉄道に乗りつつ意中の女性に告白するかどうか悩んでおり、なかなか決断できないでいる、というもの。 |
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客を待つゴンドラ |
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