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北イタリアの地図 |
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資料:地球の歩き方 |
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▲▼ 約9万人が暮らすピサは、イタリア共和国トスカーナ州ピサ県のコムーネ(地方公共団体の最小単位)で、ピサ県の県都である。市北部にはピサーノ山があり、ヴァルダルノ谷と接する。ピサの斜塔で世界的に知られる。 |
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アルノ川の流れる美しいピサ市街 |
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↓ピサの斜塔 |
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写真:フリー百科事典 Wikipedia |
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▲▼ ピサの斜塔は、世界文化遺産「ピサのドゥオモ広場」に建つピサ大聖堂の鐘楼で、傾いていることからピサの斜塔と呼ばれる。塔高は地上55m、階段は297段あり、重量は14,453tonと見積もられている。一時傾斜の増大と倒壊の恐れがあったため、立入禁止となっていたが、倒壊防止措置が施されたため、現在は鐘楼に登ることができる。現在の傾斜角は約5.5度で、塔頂が中心線から南に約4m(1350年は1.8m)変位しているものの、傾斜の進行は止まっているという。 |
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ピサのドゥオモ広場に立つ洗礼堂、ドゥオモ(大聖堂)、鐘楼(ピサの斜塔) |
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▲▼ 傾斜の原因は、1990年から始まった改修工事の前に行われた地質調査によれば、南側の土質が相対的に軟弱だったため、年月を経るうちに傾き始め、回転モーメントが増大してますます地盤に対する負担が大きくなり、結果的には塔の南側が大きく沈下するという事態に陥ったという。 |
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ドゥオーモとピサの斜塔 |
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▲ 工期は、第1工期1173 - 1178年、第2工期1272 - 1278年、第3工期1360 - 1372年と非常に長い。1173年8月9日の着工時には垂直であったが、第1工期後には既に塔が傾きはじめ、第2工期でややその傾斜を修正しつつ建設が再開されたものの、その傾きはなおも止まらず、最上階層も傾斜を修正して建設されたため、北側に反った塔が生まれ、世界的に注目されるようになった。 |
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ドゥオモの内部 |
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▼ 1935年、地下水が地盤をやわらかくしてしまうのを防ぐため、薬液を注入して地下水の浸入を止めようとする応急処置がとられた。しかし、攪乱によって強度が著しく低下し、沈下は更に進んでしまった。1960年代、現地の地下水汲み上げによって地下水位が下がり、またも傾斜進行という危機を迎え、1964年2月27日、遂にイタリア政府はピサの斜塔を崩壊から回避するための支援を求めた。 |
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今にも倒れそうなピサの斜塔 |
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はるあさき ぴさのしゃとうの ななふしぎ |
Early spring, the seven wonders of the Leaning Tower of Pisa. |
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▲ 1990年1月7日、安全上の問題により斜塔の公開を休止し、傾斜角を是正するために改修工事が行われた。当初は北側に重りを載せることでバランスをとろうとしたが、根本的な解決には至らなかった。 |
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ピサの斜塔の上からの眺望 |
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その後、改修工法には世界各国の建設会社から様々な提案がなされたが、最終的には、北側の地盤を掘削する工法が採られ、2001年6月16日、10年間にわたる作業が終了し、一般公開が再開された。 |
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2008年5月28日、監視担当のエンジニアで地質学者でもあるミケレ・ジャミオルコウスキ教授により、少なくともあと300年は倒れる危険はないとの見解が示された。 |
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ピサの斜塔の鐘 |
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これまで、ピサの斜塔は、世界中で最も傾斜している建物と認識されていたが、2008年になってギネスブックは、15世紀に建造されたドイツ北西部エムデン近くの教会の尖塔の方が傾斜していると判定したという。 |
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16世紀にガリレオ・ガリレイがピサの斜塔で落下実験を行ったとの伝説があるが、その事実はないとされている。 |
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鳴らずの鐘 |
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▼ 昼食後、海洋都市ジェノバに移動、市内見学をして宿泊した。ジェノバは、リグーリア州ジェノバ県に属する人口約60万人のイタリア共和国の都市で、ジェノバ県の県庁所在地であるとともにリグーリア州の州都であり、周辺コムーネを含んだ都会としての人口は約90万人で、イタリア有数の大都会のひとつである。 |
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イタリアの海洋都市ジェノバ |
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写真:フリー百科事典 Wikipedia |
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クリストファー・コロンブス Cristoforo Colombo / Christopher Columbus (英)
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▼ ジェノバには、コロンブスの生家があり、父親は、城壁の門番をしていたという話や、毛織物業者であったなど、諸説があり、良く分かっていない。ジェノバ出身のクリストファー・コロンブス(1451年頃 - 1506年5月20日)は、イタリアの探検家・航海者・商人で、大航海時代において最初にアメリカ海域へ到達したイタリア人として知られる。 |
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クリストファー・コロンブス |
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資料:フリー百科事典 Wikipedia |
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▲ コロンブスが西洋人として初めてアメリカ大陸を発見し、帰ってきた祝典の席で、「誰でも西へ行けば陸地にぶつかる。造作も無いことだ」などとコロンブスの成功を妬む人々に対し、コロンブスは「誰かこの卵を机に立ててみて下さい」と言い、誰も出来なかった後で、彼は軽く卵の先を割ってから机に立てた。 |
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「そんな方法なら誰でも出来る」と言う人々に対し、コロンブスは「人のした後では造作もないことだ」と返した。これが「コロンブスの卵」の逸話であり、「誰でも出来る事でも、最初に実行するのは至難であり、柔軟な発想力が必要」「逆転の発想」という意の故事で、今日でも良く使われているが、逸話自体は、後世の創作であるという。 |
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クリストファー・コロンブスの生家 / ジェノバ |
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■ 5日目:ジェノバ〜モナコ(観光)〜ニース カーニバル前夜祭(ニース泊)■ |
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5日目2月12日(金)は、午前9時頃、ジェノバ・ホテル発。フランス国境を超え、モナコ公国へ。昼食後、大公宮殿、グレースケリー公妃が眠る大聖堂などを観光した。 |
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南フランス(南仏)の地図 |
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資料:地球の歩き方 |
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モナコ公国 Principauté de Monaco
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▲▼ フランスの地中海沿岸地方コート・ダジュールのイタリアとの国境近くに位置するモナコ公国、通称モナコは、西ヨーロッパの都市国家で、首都モナコ市がそのまま全領土となっている。国の総面積は、僅か1.95km2しかなく、バチカン市国に次いで2番目に小さいミニ国家である。国連加盟国の中では世界最小で、カジノやF1モナコグランプリ、WRC・ラリー・モンテカルロが開催されることで知られる。 |
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モナコ俯瞰図 |
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▲▼ 2006年のモナコのGDPは9億7630万ドル(約1000億円)で、日本の人口3万人前後の市町村と変わらない経済規模である。主要な産業は観光。特にカジノは有名で、19世紀の一時期は国家収入の9割を占めていたこともあるが、現在では5%以下であり、経営も半官半民の企業「ソシエテ・デ・バン・ド・メール」(海水浴公社)へ移管されている。モナコはタックス・ヘイヴンのひとつとして知られており、他国からの移住者の多くは億万長者である。 |
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モナコ大聖堂のファサード/モンテ・カルロ |
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▲▼ モンテ・カルロのサン・ニコル大聖堂(モナコ大聖堂)には、夫のモナコ大公レーニエIII世とともにグレース・ケリー妃の墓があり、モナコ観光客の見学コースになっている。 |
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大聖堂の内部 |
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▼ アメリカ合衆国の女優だったグレース・パトリシア・ケリー( Grace Patricia Kelly、1929年11月12日-1982年9月14日)は、ハリウッドのスターからモナコ公国レーニエ大公妃に華麗に転身した。同時代の女優マリリン・モンローの明るさとセクシーさを前面に出した美貌とは対照的に、気品を湛えた美貌は「クールビューティー cool beauty 」と賛美された。 |
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在りし日のグレース・ケリー |
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写真:フリー百科事典 Wikipedia |
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▲▼ カンヌ国際映画祭で知り合ったモナコ大公レーニエIII世(在位1949 - 2005年)と1956年に結婚。モナコ公妃として長女カロリーヌ、長男アルベール、次女ステファニーの一男二女をもうけた。 |
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故グレース・ケリー妃の墓 |
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▲ 52歳のとき、モナコの高速道路をドライブ中、脳梗塞を起こして交通事故となり、意識が回復せずに翌日急死した。実際は次女ステファニー公女が運転していたとも言われているが、真相は不明である。遺体はモンテ・カルロのサン・ニコル大聖堂(モナコ大聖堂)に埋葬されている。 |
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モナコ大公宮殿 |
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▲▼ 旧市街にあるモナコ大公宮殿は、13世紀にジェノバ人が築いた要塞跡に城が建てられ、18世紀に現在見られるルネサンス様式の宮殿になった。歴史博物館を併設するほか、大公家の美術品などが展示されており、定番の観光スポットとなっている。白い旗があがっているので、大公は宮殿におられることが分かる。 |
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衛兵と大砲 |
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直立不動のハンサムな衛兵 |
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前3頁は、古典ともいえる定番のカンツォーネをBGMに流したが、本頁は、1960〜1970年代に日本で流行したイタリアのポップスで、これも日本ではカンツォーネと呼ばれている。中には、日本でヒットした曲もある。 |
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エルキュル港とモナコの街 |
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なんふつの ひかりつきなき はるのうみ |
Spring sea, never ending sunlight at Southern France. |
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エルキュル港の入口 |
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