ホームページお知らせお便りコーナー徒然日記俳句・海の風景ホームページ奮闘記作者のプロフィールリンク
  Wa☆Daフォトギャラリー 特集!旅紀行Q

2010年8月25日改訂

今 日

昨 日

♪アイネ・クライネ・ナハトムジーク K.525 第1楽章/モーツアルト

 


 ザルツブルクはオーストリア中部、ザルツブルク州の州都。人口14万4000(1991)。政令指定都市、大司教座所在地。中央をザルツァハ Salzach 川が南東から北西に貫流し、右岸にカプツィーナーベルク、左岸にメンヒスベルク、その背後にラインベルクと三つの丘が囲む。市の中心は往年の君主公館、大聖堂、市庁舎である。その南には大司教宮殿のあるカピテル広場、メンヒスベルクの麓にはザンクト・ペーター修道院教会と付属墓地がある。17世紀以来の乗馬学校は20世紀に3度の改造で祝典会館に衣替えした。夏にはザルツブルク音楽祭、春には復活祭祝典が開かれる。音楽学院(モーツァルテウム)、総合大学(1623創設、1810敗戦で廃校、1962復活)のほか州立劇場、モーツァルトの生家兼記念館、ミラベル庭園などがあり、郊外にヘルブルン、クレスハイム、レオポルツクローンの諸宮殿がある。石材、セメント、繊維、被服、光学器械、醸造など工業都市としての横顔ももっている。

 ラインベルクにはケルト人の住居址がある。1世紀初め、今日の旧市街の部分にローマの植民市ユウァウム Juvavum が建設され、属州ノリクムの固めとなる。696年ごろ、聖ルーペルト Rupert はユウァウムの廃墟にザンクト・ペーター修道院を、小高い丘に残る砦に、ノンベルク女子修道院を建立。この砦を川の名にちなんでザルツァハブルクSalzachburg、縮めてザルツブルクと呼び、これが集落名として文字史料に登場するのは755年である。10世紀末ごろには、最初の商人定住区が成立した。1077年に始まるラインベルク上のホーエンザルツブルク要塞の造営は、15〜17世紀にも拡充された。中世後期には交通上の好位置から中継貿易で栄えた。16世紀以降領邦体制が強まり、市民団の政治的自由は制限された。地理上の発見に伴いイタリアとの交易が低下し、反宗教改革の確立による有力商人の流出など、16、17世紀には経済的衰退が目だつ。他方、バロック期の歴代大司教の建築熱は都市景観に決定的刻印を与え、18世紀に入ってやっと鎮静化した。ナポレオン戦争の結果、1803年以降君主の府であることをやめたが、60年代に鉄道の開通が復興のきっかけとなり、20世紀からは音楽、演劇、観光の中心地として蘇生した

美術

 ホーエンザルツブルク要塞の麓、旧市街の中心には、1596‐1792年ローマ・バロックの様式で造営された大司教宮殿が立つ。内部はスタッコとフレスコ画による豊麗な装飾をもつ。宮殿広場の南にそびえる大聖堂は、1614‐28年ソラーリ S. Solari がイタリア初期バロック様式で造営したもの。ラテン十字形プランをもち、2塔式の正面は明るいザルツブルク大理石で造られている。また、ウィーンの宮廷建築家フィッシャー・フォン・エルラハの造営した教会が四つあり、なかでも三位一体教会は、バロックの建築家ボロミーニのサンタニエーゼ教会(ローマ)に倣ったもので、西正面を内にくぼませ、双塔間から力強い丸屋根を突き出させる。内部のフレスコ画はロットマイアー J.M. Rottmayr による(1700)。このほか、12世紀にロマネスク様式で建てられ、18世紀にバロック様式に改造されたザンクト・ペーター修道院教会や、中世末にシュテットハイマー H. Stettheimer によってハレンキルヘ(等高式)に造営された内陣をもつフランシスコ会教会がある。

ザルツブルク音楽祭 Salzburger Festspiele

 モーツァルトの生地であるオーストリアのザルツブルクで毎年7月末から8月にかけて行われる音楽祭。1877年から行われていた〈モーツァルト祭〉を前身として、1920年に発足。この年には、発起人の一人でもあった劇作家 H. von ホフマンスタールの戯曲《イェダーマン Jedermann》が上演されたのみであったが、翌年からモーツァルトの作品の音楽会を加え、しだいに今日のような音楽を主軸とした催しとして発展した。現行の内容は、オペラ公演、オーケストラ演奏会、モーツァルト・マチネ、歌曲の夕べ、独奏者演奏会(リサイタル)、室内楽演奏会、セレナード、教会コンサート、演劇公演、バレエ公演等からなり、世界のトップ・クラスの出演者が顔をそろえる。なお、ザルツブルクにはこの夏の催しのほかにも、いくつかの音楽祭があり、他のシーズンをにぎわしている。

ザルツブルク州 Salzburg

 オーストリア中部の州。面積7154km2、人口50万8000(1995)。住民の88%がカトリック系。州都はザルツブルク。南西はチロル、南はケルンテン、東はシュタイアーマルク、北東はオーバーエスタライヒ、北西はドイツのバイエルンの諸州に隣接。典型的な山国で、標高400m未満は全面積の0.25%にすぎず、400〜800mの地帯も18%弱にとどまる。南にはザルツァハ川上流の縦谷のかなたに氷河帯を成す東アルプスの北尾根ホーエ・タウエルン山脈がそびえ、主峰ウィースバハホルンWiesbachhorn(3564m)を最高に3000m級の山々がつらなる。その東にニーデレ・タウエルン、西にカルクアルペンの山脈が連なる。中部山岳地帯は白亜質が卓越し、600余りの洞窟が、とくに1500〜1700mの地帯に分布する。中央を南から北へ並行して貫流するザルツァハ、ザーラハ Saalach 両川の谷あいの台地や北部山麓には、やや居住空間がひらけ、とくにザルツブルク盆地は西・南・東の三方を山に囲まれ、北側が厚さ50mの沖積砂礫層で縁取りされ、温和な気候と肥沃な耕土が特色である。全人口の1/3近くは州都ザルツブルクとその周域に集中し、次いで両川の流域に分布する。居住限界は中央山岳部で標高1200m、カルクアルペンで1000m前後である。

[産業]   州の総面積の40%弱が森林で、その80%は1000m以上の高地に分布。林業・製材業が発達する。アルプスの風物詩アルム Alm(夏季だけの高原牧場)も、その経済的意義は低下しつつある。これに代わって観光収入の比重が高まり、諸州の中でチロルに次ぐ多くの観光客を集める。ラジウム温泉のバートガスタイン Badgastein は、ザールバハ Saalbach、カプルーン Kaprun とともに冬季スポーツの中心。ツェル・アム・ゼー、ザルツカンマーグートの湖沼群は夏の保養地として名高い。豊富な天然資源とヨーロッパ有数のカプルーン・ダムなど水力発電にも恵まれてとくに第2次大戦後工業化が進み、アルミニウム製錬、金属加工、セメント、紙、パルプ、木工家具、被服など、中小規模ながら堅実な発展を誇る。鉱産には、先史時代以来の岩塩(ハライン付近のデュルンベルク。ハルシュタット文化)、銅(ビショフスホーフェン、ミッテンベルク)、マグネサイト(グリーセン峠)、大理石(ウンタースベルク、ハライン)などがある。農地は5%内外で、おもにザルツブルク市以北で小麦、ライ麦、エンバクが栽培されている。総じて農・林・畜産の従事者が就業人口に占める比重は漸減し、鉱工業部門の増加が目だつ。

[歴史]   ザルツブルク市一帯は先史時代から交通、交易の中心であった。800年以前の集落は、ほとんどハライン以北のザルツブルク盆地に集中する。ケルト系の先住民は、ローマ人によるユウァウム Juvavum 建設後も平和に共存していたが、6世紀初め以降には、ゲルマン系のバイエルン族が進出。アバール人、スラブ人の西進は、この地方を重要な国境地帯に高めた。696年ごろバイエルン大公の要請で、フランク族出身の司教聖ルーペルト Rupert が旧ユウァウムの廃墟にザンクト・ペーター修道院を建立。732年に司教座が置かれ、798年バイエルンの首都大司教座に昇格した。しかし907年プレスブルクの敗戦で大司教テオトーは戦死、東辺境区も失われ、955年以降ようやく東方への布教、植民を再開した。叙任権闘争期に大司教ゲープハルト、コンラート1世は教皇派の重鎮であった。次いで皇帝派エーバーハルト2世 Eberhard II(在位1200‐40)は、領地の交換・買戻し、森林開拓により密度の高い支配領域を創出し、〈領邦(ラント)ザルツブルクの父〉と称される。東方進出の夢は、1278年オーストリアへのハプスブルク家の転進によって阻まれ、96年ウィーン和約の成立後は一貫してオーストリア大公に荷担し、他方バイエルンとは14世紀を通じて衝突を繰り返した。1278年大司教は帝国諸侯に列せられたが、その領邦はオーストリア、バイエルンの緩衝国の役割を運命づけられた。1327年領邦議会が成立、翌年にはラント法が成文化された。ハンガリー戦争(1479‐90)は、シュタイアーマルクやケルンテンにある大司教の領地を荒廃させた。1525年の農民戦争には市民や鉱夫も参加し、大司教、シュバーベン同盟、バイエルン、オーストリアの連合軍に善戦し、名誉ある和約を結んだが、翌年の蜂起は挫折した。反宗教改革は都市、市場町で奏功したが、ポンガウを中心とする農村部には新教徒の勢力が温存された。1731‐32年にかけて大司教レオポルト・アントンは、新教徒約2万1000人を追放、その大半はプロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム1世が受け入れた。近世以降、近隣の大領邦の重商主義政策に圧迫され、経済的基盤が低下し、建築・大学など文化面に活路を求めた。ナポレオン戦争の結果、1803年に大司教は君主の資格を失い、旧領邦は同年トスカナ公国に、05年オーストリアに、10年バイエルンに、16年には再びオーストリアに帰属。49年帝室直属領となり、1920年以降共和国を構成する州となった。ナチス・ドイツに併合された1938‐45年には〈帝国ガウ、ザルツブルク〉と呼ばれた。

山岳鉄道事故

 2000年11月11日ザルツブルク州のキッツシュタインホルン山にあるトンネルでケーブルカーの火災が発生し、日本人客10名を含む159名のスキー客等が死亡・行方不明になるという前代未聞のいたましい事故があった。ザルツブルクは州都で、その近くである。当時、事故の報道に接しながら、いつの間にかザルツブルクを思い出していた。喪心より犠牲者の方々のご冥福をお祈り申し上げる。

【ウィーン11日時事】 オーストリア・アルプスの本格的スキーシーズン到来を祝福するような快晴の日が一転して「暗黒の日」(シャウスベルガー・ザルツブルク州知事)に変わった。乗客の大半が絶望視されている山岳鉄道火災が起きたキッツシュタインホルン山は、広大な氷河で知られ、夏でもスキーのできる有名な場所。11日は、その氷河上でスノーボード大会が催される予定で、大会に参加する大勢の若者がケーブルでけん引される山岳鉄道に乗り込んだ。

 火災が起きたのは車両がトンネルに入った直後。少なくとも8人は車両の窓ガラスを割り、自力で脱出したが、逃げ遅れた乗客はあっという間に炎と煙に巻かれ、倒れた。車外に飛び出しても、トンネル内のすさまじい煙で死亡した乗客もいた。

 オーストリア当局は200人以上の救助隊を投入して懸命の救出活動を続けた。だが、有毒物質を含む煙の勢いに押され、酸素マスクを装着しなければ動けないため、思うような活動ができないでいる。今回の事故は、改めてトンネル火災の恐ろしさを見せ付けた。トンネルの入り口からは、事故発生後何時間たっても煙が吐き出されている。車両は炎で溶けたようになり、遺体の状態も身元の確認ができないほどだという。ザルツブルク州政府は、現場に駆け付ける遺族の心のケアのため、40人の精神カウンセラーも派遣した。

Wa☆Daフォトギャラリー

今 日

 和田フォトギャラリー

昨 日

 Copyright (C) 2000-2010 Yoshio Wada. All Rights Reserved. 

ホームページお知らせお便りコーナー徒然日記俳句・海の風景ホームページ奮闘記作者のプロフィールリンク