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臨時きっぷうりば
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駅前の無料甘酒サービス
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赤穂市 兵庫県の南西端、播磨灘に面する市。1951年赤穂町と坂越町、高雄村が合体、市制。人口52,069(2001)。市街地は千種(ちくさ)川の三角州上に発達し、赤穂浪士と製塩で知られる。江戸初期に浅野氏が建設した城下町で、製塩も赤穂藩の殖産興業政策の成果である。 |
明治時代に塩は専売制になり、塩田(えんでん)は最盛期に400haを超えたが、1950年代に流下式製塩に代わって面積は激減し、さらに72年にイオン交換樹脂膜法による化学製塩に切り替えられて赤穂塩田の歴史を閉じた。しかし、塩を原料とする製薬工業が大正時代に進出し、千種川の清流と播磨地方の伝統産業綿織物にひかれて繊維工業も発達した。また近年は塩田跡地にセメント、タイヤなどの近代工業も立地し、播磨臨海工業地域の一翼をになっている。 赤穂市 |
赤穂市は赤穂浪士の舞台となった歴史ある町で、浅野家三代の面影を伝える史跡と、義士ゆかりの場所が数多く残っている。赤穂城跡はわずかに石垣、堀などが遺構を伝えるのみであるが、近年復元作業が進められている。大石神社や浅野氏の菩提寺である花岳寺(かがくじ)が観光の拠点で、12月14日の義士祭には討入り装束の行列が町を練り歩く。 |
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2002年12月14日(土)、赤穂浪士(あこうろうし)討入り300年祭があるというので、兵庫県赤穂市に行った。 |
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JR三ノ宮駅から姫路駅まで新快速で40分。姫路から赤穂線直通の普通電車で40分。この日播州赤穂駅は列車が到着するたびに大勢の観光客で溢れた。 |
JR播州赤穂駅
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駅2階のコンコースに臨時切符売場が設けられていた。駅員も討入りの法被を着ている。早速帰りの切符を調達した。 |
駅前広場
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ゆったりとした駅前広場には緑地が設けられ、駅の正面に大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)の銅像が建つ。そのそばで、無料の甘酒サービスがあった。
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駅前に立つ大石内蔵助の銅像
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どこを向いても討入りの法被が目につく。どの法被にも「右二つ巴」の大石家の家紋が染め抜かれていて、誇らしげである。
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忠臣蔵で国民的英雄となった大石内蔵助は、現在も郷里のために絶大な貢献を果たしており、その文化的、経済的効果は計り知れない。
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赤穂城への道
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赤穂城下 播磨国赤穂郡の城下町加里屋(かりや)を指す。15世紀、岡豊前守光広が千種川の当時の本流熊見川の河口港中村を掌握するため、その西方、川の対岸に初めて砦を築いた。16世紀には三角州の発達に伴い南の砂州〈城ヶ洲〉に城地が移り、砦のあった地は町家地域(加里屋)に変わった。近世の赤穂もこの城地と町場を引き継いで発展し、浅野氏の時代に城地は拡大され、城の西、上仮屋(かみかりや)に侍屋敷、城の北、加里屋に町場が整備され完成した。 |
三角州に建設された事情から井戸を掘っても塩水となるため、川の上流から取水する上水道の建設が1614年(慶長19)に始められ、各戸給水がなされた。町場は城に最も近い東西の筋を1丁目とし、北へ4丁目までの4筋がある。この4筋を中央に南北に貫いて大手門から北へ姫路街道に通じる道が通り町筋。この筋と4丁目の北、花岳寺の門前を東西に走る備前街道筋が広い目抜き道路である。町方人口は1706年(宝永3)4744人、1829年(文政12)3195人であった。 |
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大吟醸・忠臣蔵
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駅前の道を南に歩いていくと10分ほどで赤穂城大手門に着く。観光客はこの道を歩くので、朝から歩行者天国になっており、両側に露店が並んでいる。忠臣蔵
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義士人形
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大吟醸忠臣蔵や義士人形など郷里のグッズが並ぶ。
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義士太鼓
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暫くして太鼓の音が聞こえてきた。勇壮な播州赤穂義士太鼓である。
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♪義士太鼓♪ クリックすると聞けます(MP3
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息継ぎ井戸
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「主君刃傷」の凶報を持って早水藤左衛門(はやみとうざえもん)と萱野三平(かやのさんぺい)が江戸より4昼夜半、早駕籠を飛ばして赤穂城下に着いたのは、元禄14年(1701)3月19日早朝のことであった。
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彼らはここで水を飲んで一息ついたあと、赤穂城に向かい、大石邸の長屋門をたたいた。
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「息継ぎ井戸」は、江戸時代、江戸・福山と並んで天下の三水道と呼ばれた上水道施設の一つである。
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記念撮影
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息継ぎ井戸のある広場では、赤穂市職員組合の人たちが忠臣蔵の登場人物に扮し、観光客の記念撮影に応じていた。何故か吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に人気があった。彼らは午後のパレードの際、忠臣蔵名場面の山車(だし)に出演するという。
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山 門
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瓦には浅野家の「丸に違い鷹の羽」の紋がある。
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本 堂
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大石なごりの松(二代目) |
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元は元禄4年(1691)大石内蔵助良雄が母の冥福を祈って植えた松であり、元禄14年(1701)大石が赤穂を離れるとき、この木の下で名残を惜しんだため、後に「大石なごりの松」と呼ばれるようになったという。
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残念ながら元禄4年に植えられた初代の松は、昭和2年(1927)に松食い虫により枯れてしまい、現在の松は二代目になる。
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花岳寺
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曹洞宗台雲山花岳寺(かがくじ)は、赤穂浅野家初代藩主の浅野長直(あさのながなお)が常陸国笠間(ひたちのくにかさま)から赤穂へ所替えになった正保2年(1645)、浅野家の菩提寺として建てられ、以後、赤穂歴代藩主浅野家・永井家・森家の菩提寺となった。 花岳寺
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花岳寺の本堂は二重屋根、扇垂木(おうぎたるき)で、間口九間・奥行き七間の堂々とした建物である。本堂左手に宝物館、義士木像堂などがある。
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義士木像堂には高さ約6cmの千手観音(せんじゅかんのん)が祀られ、両側に義士の木像が安置されている。千手観音は大石家の守り本尊で、大石内蔵助が吉良邸討入りの際にも肌身につけていたものだという。
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木像堂のそばに浅野内匠守長矩(あさのたくみのかみながのり)の墓があり、遺髪を葬ったという義士の墓がその周りを取り囲んでいる。
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もう一つの花岳寺
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尾張の三河湾に面する吉良町にも中世東条吉良家の菩提寺である花岳寺がある。奇妙な因縁である。
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鳴らずの鐘
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大石なごりの松の東側に鳴らずの鐘がある。この梵鐘は、元は赤穂二代藩主浅野長友が父長直のために鋳造したものである。
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五代将軍綱吉のとき、三代長矩が殿中にて吉良義央へ刃傷に及び即日切腹、淺野家は三代で断絶した。
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元禄15年(1702)12月14日の夜(今の時間で15日午前4時頃)四十七士は吉良邸へ討ち入り主君の無念をはらした。翌年2月4日四十六士※は切腹を命じられ、お預け先の細川・松平(久松)・毛利・水野の4藩で自刃した。
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この悲報に接した人々は花岳寺に集まり、冥福を祈って鐘を打ち続けた。余りにも撞き過ぎたため、寛政9年(1797)再鋳造されるまで鐘の鳴ることはなかった。爾来、鳴らずの鐘と呼ばれるようになったという。
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この鐘は太平洋戦争中も「義士の由緒深きにより」赤穂市内で唯一供出を免れ、今に伝えられている。
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※討ち入り後大石内蔵助の命令で逃走した寺坂吉右衛門は1747年まで生き延び、目撃証人として一連の出来事を伝えたという。
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