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仮名手本忠臣蔵 かなでほんちゅうしんぐら 赤穂浪士の討入りがあったのは元禄15年(1702)の12月。この46年後の寛延元年(1748)8月に人形浄瑠璃の作品として初めて大坂竹本座で上演された。2世竹田出雲・三好松洛・並木宗輔(千柳)の作で、「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」と並ぶ人形浄瑠璃全盛期の名作といわれる。 |
その後歌舞伎に移され、以後さまざまな演技・演出が試みられてきた。これにより、赤穂浪士の討入りは庶民の共感を呼び、四十七士は国民的英雄となった。 |
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早春の冷たい空気の中で無念の切腹をとげる塩谷判官(えんやはんがん)。東海道の春景色から夏の雷雨の暗闇へと続く早野勘平の悲劇。秋の夜風で酔いざましの一力茶屋を経て、最後は雪の討入りを決行する大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)。実話は江戸時代だが、芝居の時代設定は室町時代である。これは、当時の徳川幕府は、幕府に逆らうような演劇を禁じていたからである。 |
以後、赤穂事件は「忠臣蔵」と呼ばれ、現在も小説・映画・テレビドラマなどで人気を集めている。 |
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赤穂義士祭 |
赤穂城大手門前の交差点に着いた。第99回赤穂義士祭の忠臣蔵パレードはここから出発する。大手門や隅櫓(すみやぐら)が見える場所を選び、人垣の後に脚立を据え付けた。兵庫県警察音楽隊のパレードが始まった。 |
少年赤穂義士音頭
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続いて竹南子ども会による少年赤穂義士音頭。片袖に赤穂浪士のデザインを取り入れた華やかな衣装を身にまとい、鳴子両手に練習の成果を披露。3歳児まで出演し、可愛いらしさをアピールしていた。
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赤穂おどり
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赤穂市連合婦人会の皆さんによる日本舞踊。年配の方が多かったが、鮮やかな衣装が印象的だった。
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大名行列
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赤穂市大名行列保存会による大名行列が大手門から太鼓橋を渡ってやってきた。古式に則り、足を跳ね上げるなど独特の歩み方で間をおきながらゆっくりと進む。
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毛槍の投げ渡しなど難しい技があり、かなりの練習を積んでいるという。
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往時の赤穂藩主の参勤交代の姿を偲ばせる行列はJR播州赤穂駅前までの1.5kmの道程をゆっくりと進む。大名駕籠には「丸に違い鷹の羽」の淺野家の家紋がある。
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津川雅彦さん |
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東映剣会殺陣
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大手門前交差点で東映剣会(つるぎかい)による殺陣(たて)が演じられた。さすがプロだけあり、迫力があった。
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津川雅彦さんが人力車に乗って登場。沿道の喝采を浴びていた。
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義士娘
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赤穂義士祭奉賛会が毎年募集するもので、赤穂市役所で面接が行われ、3名の義士娘が選ばれる。当選するとハワイ旅行・賞金5万円・副賞等がもらえる。義士娘として赤穂義士祭に出演するほか、1年間観光行事や公的行事に参加するという。なかなかの美女揃いだ。
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