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 感動写真集

2005年1月15日改訂
祭囃子メドレー

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2004年11月26日作成

十一番曳山・酒呑童子と源頼光の兜

米屋町十一番曳山・酒呑童子と源頼光の兜(唐津くんち/唐津市)

唐津くんち

町廻り

深見重利

 

宵曳山

御神幸

町廻り

町廻りまちまわり

 翌11月4日(木)は、有終の美を飾る町廻りである。 前日の御旅所神幸を終えて各町内に持ち帰られた曳山が再び唐津神社前に集合し、午前10時30分、花火を合図に1番曳山から順番に出発。2日の宵山と同じ市内東廻りのコースをゆっくりと進み、午後零時頃にJR唐津駅前に並べられる。
 午後2時半に駅前通りを出発して市内西廻りのコースを巡行し、フィナーレの曳山展示場に曳山が納められ、唐津くんちの幕が閉じる。この最後のフィナーレでは、感極まって涙ぐむ若者の姿も見受けられる。

唐津神社前に集合した曳山

唐津神社前に集合した曳山

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一番 曳山やま

赤獅子あかじし

 刀町(かたなまち)の木彫師・石崎嘉兵衛がお伊勢参りの帰りに京都の祇園山笠を見て感動し、帰郷の後、大木小助らと計画し、塗師・川添武右衛門らと共に曳山を造り、文政2年(1819)唐津神社に奉納した。
 一番曳山・赤獅子は、御幣曳山(ごへいやま)であり、御幣の作り方の記録も残っている。 総高5.2m、総幅2.9m、総奥行き4.4mの巨大な漆塗りの芸術品で、江戸時代から本格的な修理が6回なされている。

一番曳山・赤獅子

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十一番 曳山やま

酒呑童子しゅてんどうじ

源頼光みなもとらいこう

の兜
 米屋町(こめやまち)は唐津城築城時の総町12ヵ町の一つで町人の町だった。「酒呑童子と源頼光の兜」は明治2年(1869)、細工人・吉村藤右衛門、塗師・須賀(管)仲三郎、大工・高嵜作右衛門らによって製作された。明治から昭和にかけて2回の塗替えがなされている。
   米屋町がこの兜を選んだのは、「切られた首が宙を飛び、頼光の兜の鉢に噛みついた」と言い伝えられる酒呑童子と源頼光の兜を具象化したものを、九番、十番に引き続いて兜曳山に選定したものといわれる。  
   総高4.9m、幅3.0m、奥行2.5m、重さ1.6〜1.8ton。血走った眼球と兜をかんだ白い歯が特徴的で、子供に一番怖がられている。兜の頭髪にはヒマラヤ原産の白いヤクの毛、眉には黒馬毛、幕には大麻が用いられている。  

十一番曳山・酒呑童子と源頼光の兜

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二番 曳山やま

青獅子あおじし

 中町(なかまち)の青獅子は、一番曳山・赤獅子に遅れること5年、文政7年(1824)に獅子細工人・辻利吉、塗師・儀七らによって製作された。青獅子の原形については享和2年(1802)の刻銘をもつ神田地区のカブカブ獅子が考えられ、特に雄獅子と比べると色・耳・頭髪・角をはじめ全体の格好がそっくりだという。
   青獅子も製作されてからは江戸時代に1回、明治時代になって2回、昭和に入って3回本格修理を重ねている。総高4.8m、総幅2.5m、総奥行2.5m、重さ1.6〜1.8ton。巨大な漆塗り一閑張りの芸術品である。  

二番曳山・青獅子

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五番 曳山やま

たい

 三たび魚屋町(うおやまち)の鯛に出会った。いろいろな角度から見ると、そのたびに表情が変わる実に不思議な曳山である。唐津くんちを代表する曳山は、何度見ても飽きることはない。

五番曳山・鯛

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四番 曳山やま

源義経の兜

 本町(ほんまち)の「源義経の兜」の写真も三度目の登場。城下町の風情を残す狭い道を巡行する光景は、氏子たちの散切り頭(ざんぎりあたま)が丁髷(ちょんまげ)でないだけで江戸時代を彷彿とさせ、タイムスリップしたかのようである。

四番曳山・源義経の兜

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十三番 曳山やま

しゃち

 水主町(かこまち)は、唐津初代藩主寺沢志摩守広高が築城時に水軍の基地として船宮を設け、その周辺に水主(かこ)(船員)を住ませたのが町の始まり。後に城下17ヵ町と同格扱いとなり、他の町民も住むようになった。
 「鯱」は、明治9年(1876)細工人・富野淇園、大工・木村與兵衛、塗師・川崎峯次晴房らによって製作された。
 当初龍王山を造る予定であったが、江川町(えがわまち)で蛇宝丸(七宝丸)を造ることになったので、急きょ富野淇園に相談して海と水に関わる鯱を造ることになった。鯱が火災よけの魔力があり、町名の水と関係があるので決まったともいわれる。
 水主町(かこまち)の鯱が古い民家の前を進む。この曳山は総高3.8m、幅2.5m、高さ5.7m、重さ1.5ton。昔子供たちがオコゼと愛称していた赤と金がきらびやかな威勢の良い魚曳山である。

十三番曳山・鯱

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七番 曳山やま

飛龍ひりゅう

  「飛龍」の総高は6.8m、総幅2.2m、重さ1.75tonの最も可動性に富んだ曳山である。飛龍は龍なので雨を呼ぶところから、他町内の曳き山が出終わるまで出さないようにとよく言われたという。

七番曳山・飛龍

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プロフィール
   
 
 
撮影・原作 :
 
深見重利 ふかみ しげとし
     
 

私のホームページ

自然讃歌
 
 
 住居:東京都青梅市   お便り大歓迎! お便り大歓迎!
 
1939年8月生まれ、佐賀県多久市出身。
日本大学理工学部機械工学科卒。
某電機メーカーに技術者として勤務の後1994年9月退職。
フォトグラファーとして現在に至る。

   
【写真展】

1994年4月 「富士の旅人」 ルミネ立川ウイルギャラリー(立川市)
1994年5〜6月 「富士の旅人」 サン・ギャラリー(河口湖町)
1994年10月 「富士の旅人」 青梅市立美術館(青梅市)
1997年1月 「素晴らしき富士」 朝日ギャラリー(立川市)
1997年9月 「素晴らしき富士」 百貨店玉屋ローズルーム(佐賀市)
1998年1月 「素晴らしき富士」 ワキタギャラリー(名古屋市)
2000年3月 「富士山の四季」 ティー・スリーギャラリー(立川市)
2002年1月 「富士輝きの瞬間(とき)」 アサヒギャラリー(立川市)
2002年4〜5月 「富士輝きの瞬間(とき)」 ギャラリー富士(河口湖町)
2002年10月 「富士山の四季」 ギャラリーレストラン・山鳩(奥多摩町)
2003年3月 「富士輝きの瞬間(とき)」 西友河辺支店・ボッパルトホール(青梅市)

【写真集】
1996年4月 「素晴らしき富士」 けやき出版
2001年10月 「富士 輝きの瞬間(とき)」 けやき出版

【カレンダー】
1998年  「四季の富士」 6点 富士火災
1998年  「自然の名画」 1点 フコク生命

 

源義経の兜

 
   10月中旬、急に私は「唐津くんち」の撮影を思い立った。熱心に取材を続けてきた多摩川源流域に伝承されている郷土芸能が、9月末をもって全て終わった寂しさと同時に、私が9歳まで住んでいた唐津でのくんちの思い出が、突然脳裏に浮かんできたからだった。  
   11月2日、「唐津くんち」初日の「宵曳山」、宵闇の中から囃子の音を響かせながら忽然と現れた一番曳山の「赤獅子」を見たとき、56年前の「唐津くんち」が私の中に鮮やかに甦ってきた。そして、私が曳いた四番曳山の「源義経の兜」を眼前にしたとき、感動はクライマックスに達してカメラを持つ手が震えた。  
   11月4日までの三日間、「御旅所神幸」「町廻り」と現地の方からお借りした脚立を担いで曳山を追っかけながら、万感の思いを込めてシャッターを切りまくったのだった。〈 完 〉       2004年11月24日 深見重利  

 

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