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■■■ 「吉田の火祭り」速報! ■■■ |
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平成21年(2009)8月26日(水)、富士信仰の町・山梨県富士吉田市で開催された「富士山北口鎮火大祭」を密着取材した。 |
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400年余の歴史を有するこの秋祭は、8月26日(水)・27日(木)の両日に催行される北口本宮冨士浅間神社(きたぐちほんぐう・ふじせんげん・じんじゃ)(上文司厚(じょうもんじ・あつし)宮司)と摂社(せっしゃ)諏訪神社(すわ・じんじゃ)の祭礼で、「吉田の火祭り」と呼ばれる。愛知県國府宮(こうのみや)のはだか祭と静岡県島田の帯祭(おびまつり)と共に日本三奇祭の一つとされ、毎年、20万人の観客で賑わう。 |
富士山と富士吉田市 |
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昔から富士山を信仰し、登山しようとする人々は全国にいたが、北口(吉田口)登山道を目指してやってきたのは、江戸を中心とした関東周辺の庶民だった。甲斐国(かいのくに)(山梨県)の年代記として知られる「妙法寺記(みょうほうじき)」の明応9年(1500)の項には「富士への道者(どうじゃ)参ること限りなし」とあり、室町時代には既に修業者以外に信仰の登山をする道者(一般人)が多数いた。江戸時代後期になると、伊勢出身の食行身禄(じきぎょうみろく)(1671-1733)によって江戸八百八講といわれるほど富士講が大流行し、なだらかな登山道が続く北口から登り、下りは南部の急峻な山道を御殿場に下るコースが定着した。 |
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▼ 江戸から吉田までの道筋は新宿を基点とする甲州街道を大月(おおつき)で分かれ、谷村(やむら)から上吉田(かみよしだ)に向かう富士道(ふじみち)(現在は「富士みち」と表記)が一般的で、その入口に立つ金鳥居(かなどりい)が目印となっていた。 |
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富士山と富士道・北口登山道/富士吉田市歴史民俗博物館 |
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▲▼ 江戸時代の最盛期には上吉田宿(かみよしだじゅく)の富士道(ふじみち)(現在の国道139号)の金鳥居(かなどりい)から南方約2kmの両側に100軒もの御師(おし)の家が並び、富士山頂を目指す関東の富士講の先達(せんだつ/「せ」にアクセント)や道者(どうじゃ)(一般人)たちを受け入れていたという。 |
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御師の家は御師坊(おしぼう)と呼ばれ、信仰の中心施設である神殿や宿泊のための大広間、食事を準備する台所、身を清めるための滝などを備え、多人数の道者を迎えることができるように造られていた。 |
宿泊は旧暦の6月と7月に限られ、宿泊者はその御師の檀家(得意客)で、日取りも講社(団体)毎に決まっていたという。 |
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御師旧外川家住宅(山梨県富士吉田市) 2009.8.26 11:40
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▲ 現在、御師団(おしだん)は約40人で、神職の資格を持つ3人の御師が冨士浅間神社の宮司(ぐうじ)・禰宜(ねぎ)・権禰宜(ごんねぎ)を勤めている。宿坊は大黒屋(だいこくや)と筒屋(づづや)の2軒だけとなり、冬場の御師たちの檀家(だんか)(得意先)巡りも行っていないという。 |
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鬱蒼たる巨木の参道/北口本宮冨士浅間神社(山梨県富士吉田市) 14:00
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▲ 火伏・安産・産業の守護神として崇められている木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を主祭神とする冨士浅間神社は、景行天皇40年(110)、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東方遠征の折に、大塚丘より富士山の神霊を遥拝し、「富士の神山は北方より登拝せよ」と勅(みことのり)し、大鳥居(おおとりい)と祠(ほこら)を建てさせたのが始まりとされている。広大な鎮守の杜に鎮座する社殿は、富士登山道の吉田口の起点にあたる。 |
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▲ 拝殿のそばには、江戸期と同じ行衣(ぎょうえ)姿の道者(一般信者)たちが神事の開始を待っていた。宝冠(ほうかん)と呼ばれる独特の頭巾(ずきん)を被っているのが先達(せんだつ)と呼ばれるリーダーである。 |
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富士山は神聖な山なので、道者たちは、江戸時代から登拝時には清浄な白装束を身にまとった。あの世である山頂に向かうところから、死装束としての意味もあったという。 |
冨士講の登山行程は、御師坊(おしぼう)を出発した後、三合目あたりで昼食を取り、六〜八合目の石室(いしむろ)(山小屋)に泊まり、翌朝、頂上を目指すのが一般的だった。山内の夜や早朝は冷え込むため、褞袍(どてら)を着たが、褞袍や弁当は、地元の強力(ごうりき)たちが運んだ。 |
慶長17年(1612)の「富士山内證事」によれば、富士山は、金剛界・胎蔵界の大日如来が支配する山で、山頂には、熊野権現、鹿嶋大明神、春日大神など九神とその本地(ほんじ)である阿弥陀如来、十一面観音菩薩、不動明王など九尊が祀られていたという。 |
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諏訪神社の「おやまさん」( |
御影 |
)と世話人たち 14:30 |
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▲ 冨士浅間神社の境内の西に鎮座する諏訪神社(すわじんじゃ)は、諏訪明神を祀る神社で、かつての火祭りは、諏訪明神の祭りだったが、富士講が盛んになった江戸時代になると、冨士浅間神社が台頭し、火祭りは両社の祭礼となった。明治以後、諏訪神社は冨士浅間神社の摂社(せっしゃ)となり、現在、冨士浅間神社の宮司が諏訪神社の宮司を兼務しており、専属の神職は存在しない。 |
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既に大神輿(明神神輿)と御山神輿(お山さん/おにアクセント)が出発の位置に置かれていた。腰に鈴と草鞋を下げた世話人(せわにん)たちがいたので、撮影させてもらった。「吉田の火祭り」は上吉田地区の夜祭りで、神社に近い南から北にかけて上町(上宿)(かみちょう/かみじゅく)中町(中宿)(なかちょう/なかじゅく)下町(下宿)(しもちょう/しもじゅく)の氏子3町で構成され、上町・中町から各4人、下町から6人の合計14人が世話人となる。その資格者は、42の厄年になる前の既婚の男性で、1年間不幸がなかった家から選出されるという。 |
前年の火祭以降に不幸があった家の者たちは、火を見てはいけないという「手間とり」の掟があり、現在も2基の神輿が神社に還御するまでの2日間は外泊して家を離れているという。 |
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▲▼ 8月26日午後3時から冨士浅間神社拝殿において本殿祭が催行された後、浅間大神(あさまのおおかみ)は長さ10m高さ2mの絹垣(きぬがき)に囲まれて摂社・諏訪神社の本殿に遷御(せんぎょ)された。 |
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浅間の大神が |
絹垣 |
に囲まれて諏訪神社に遷御 15:45 |
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きぬがきの あさまおおかみ ひのまつり |
The fire ritual, Asama great god in the silk curtain. |
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▼ 浅間大神と諏訪大神が大神輿に奉斎(ほうさい)され(祀られ)たあと、本神輿・御山(おやま)神輿の順に諏訪神社を出発。両神輿とも拝殿前の広さ100m2の高天原(たかまがはら)まで渡御し、そこで大神輿の発輿祭(はつようさい)が行われた後、氏子中(うじこちゅう)(氏子町会)に向け出発、中町(中宿)(なかちょう/なかじゅく)にある御旅所の上吉田(かみよしだ)コミュニティーセンターまで勇壮な渡御が始まった。 |
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浅間の大神と諏訪の大神を奉斎して諏訪神社を出発する大神輿 16:30
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▼ 境内の富士山大鳥居は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の故事に従って建立されたもので、高さ58尺5寸(17.7m)柱間(はしらま)35尺(11.55m)の丹(に)塗りの四脚鳥居で、木造では国内第一という。「三國第一山」の扁額があり、60年を式年と定めて造替(ぞうたい)する。現在のものは昭和27年(1952)に再建されたもの。 |
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「三國第一山」という表現は、富士講の開祖・食行身禄(しょくぎょうみろく)の和歌にも登場し、三國とは、日本、朝鮮、中国を指すもので、富士登山のキャッチ・フレーズの一つであった。 |
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▼ 「お山さん」と呼ばれる赤富士を模した珍しい神輿は、正式には御影(みかげ)と称され、寄せ木造り・漆塗りで約1トンの重さがあり、勢子(せこ)と呼ばれる担ぎ手たちに担がれて、大神輿の後に続いた。この神輿には魂入れの儀は行われなかったが、4基の子供神輿と共に、既に神札が納められており、霊峰として崇められている富士山の神霊が宿る神聖な神輿である。御影は、遅くとも江戸後期の宝暦年間には存在していた由緒ある神輿である。 |
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せこしゅうの みかげおとしや ちんかさい |
The fire extinguishing ritual, Carriers drop the Mikage portable shrine. |
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▲▼ 氏子中の渡御の途中、「富士みち」南端の上宿(かみしゅく)交差点で御影(みかげ)を三度地面に打ち下ろす所作が休憩を挟んで二度行われた。これは神威の発揚を願うものだが、このイベントには呼び名がついていなかったので、ここでは「御影落し(みかげおとし)」と命名させて頂く。2日間にわたる渡御の途中で何度も行われるために担ぎ棒が痛むことから、毎年、その表面を削って新しくしているという。御影は、縄で担ぎ棒に固定されている。 |
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御影を持ち上げ・・・ |
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ドスンと落とす! |
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あかふじの みこしちをうつ ひのまつり |
The fire ritual, the red Fuji portable shrine bumping to the earth. |
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▼ 午後6時過ぎ、大神輿は上宿(かみしゅく)交差点から500mほど北に下った西側にある御旅所の上吉田コミュニティーセンターに到着した。写真下は、最後の力を振り絞って富士みちを左折し、御旅所に向かうところ。 |
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▼ 御旅所に2基の神輿を奉安したあと、世話人(せわにん)のサポートにより、大松明(おおたいまつ)の奉納主たちが次々に火を入れ始め、火祭り本番が始まった。大松明は77基あり、1基の奉納料は11万円。奉納主名を墨書した木札が立っているので、広告塔を兼ねる。大松明は、高さ3m、基部の直径90cm、頂部の直径30cmの円錐形で、中に薪(まき)が詰められている。 |
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▼▲ 金鳥居(かなどりい)は、富士山北口一ノ鳥居といわれ、富士吉田市上吉田の下宿(しもしゅく)、国道139号と137号の交差点、通称・金鳥居(かなどりい)交差点の南に立つ。高さ9.7m、柱間7mあり、扁額「富士山」は新田道純(にった・みちづみ)(寛政10年(1798) - 嘉永7年(1854))の書という。 |
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▲ 金鳥居(かなどりい)交差点と金鳥居(かなどりい)の間に立ち、富士の霊峰を背景に南方に延びる「富士みち」に並ぶ大松明(おおたいまつ)を見るのが最良のビューポイントで、この光景が地元のパンフレットに掲載されている。この日は曇天のため富士山を仰ぎ見ることができなかった。 |
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ここに脚立を持ち込み、数時間前から場所取りをしているアマチュア・カメラマンが大勢いて、このあたりで最良の撮影場所を確保するのは、至難の業である。 |
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▲▼ 約2kmに及ぶ「富士みち」に並ぶ大松明と戸別毎に井桁(いげた)に組んだ薪(たきぎ)が燃え上がるにつれて、街に紅蓮(ぐれん)の炎が広がり、街路灯が消されると、暗闇の道路の中央に浮かぶ一筋の炎がメラメラと川のように流れる幻想的な光景が現れた。夏の終わりを告げる炎の祭典にふさわしい壮大なページェント(野外劇)であり、吉田の火祭りの最大の見どころである。 |
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ひばなちる よしだひまつり やまじまい |
The closing of the mountaineering season, the fire sparking in the Yoshida fire ritual. |
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▲▼ この火祭は、富士山の山じまいを告げるイベントでもあり、今年、山梨(富士北口)からの登山者は、7月1日から8月25日までに約22万人を数え、過去最多だった昨年に次ぐ賑わいだったという。 |
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▲▼ 「火祭」は俳句の秋の季語で、単に火祭といえば10月下旬に行われる京都鞍馬・由岐神社(ゆきじんじゃ)の「鞍馬の火祭」を指すが、冨士浅間神社の火祭に因む「吉田火祭」「吉田浅間祭」「火伏祭」「芒祭」も秋の季語となっている。 |
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▲▼ 世話人たちは、大松明の根元に水を掛け、崩落を防いでいたが、松明の全体に火が回って巻き締めていた荒縄が燃える尽きると、束縛から解放された松明は一瞬にして崩落し、写真下のように火が周辺に飛び散る。そばにいると巻きこまれる恐れがあるので、注意が必要である。 |
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たいまつの にわかにくずる ひのまつり |
The fire ritual, the torch collapsed in a flash. |
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▼ 松明の崩落により火の海と化した場所は、輻射熱でとても熱く、手で顔を覆いながら足早に通りすぎる光景が見られた。「富士みち」の両側には、沢山の露店が並び、夜店巡りを楽しむ子供たちの喜々とした姿が印象的だった。 |
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▼ 金鳥居(かなどりい)のそばの松明は、点火時期が最も遅かったので、午後8時半になっても、まだ、立て札が燃えずに残っている状況だった。金鳥居南方の松明は、殆ど崩落してしまった様子を見通すことができる。今宵の取材は、この辺で切り上げることにした。 |
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やましまう ふじのきたざと ひのまつり |
The fire ritual, the northern village of Mt. Fuji closing the mountaineering season. |
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▼ 遅い夕食を取ってホテルに向かう途中、祭の現場では消防団員たちによる消火と後かたづけが行われていた。翌朝までに燃えかすの処理や清掃を終え、車を走らせるようにするには、大変な深夜労働であり、陰で火祭を支える人たちのご苦労に頭が下がる思いだった。 |
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日中の神輿2基による氏子中(うじこちゅう)の渡御が動であるとすれば、夜の火炎のページェントは静のイベントである。氏子たちが松明を持って走ったり、振り回したりすることはなく、夜は静かに大松明の紅蓮の炎を見守るだけである。その間、御旅所では、2基の神輿の参拝が延々と続けられていた。 |
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翌日の8月27日(木)は、2基の神輿が神社に還御(かんぎょ)する「すすき祭り」が行われる。完成版は、26日の鎮火大祭の全容を取りまとめることとしているので、乞うご期待! 2009.8.30 21:40 |