|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
2006年3月19日(日)東京は絶好の行楽日和となったので、強風が吹き荒れる中をもろともせず、家内と二人でリュックを背負い、神奈川県日野市にある百草園に行った。京王線百草園駅から急坂を歩いて10分程で着く。 |
|
|
|
|
|
|
|
若山牧水生誕百周年歌碑 |
|
拡大写真(1300x1015)480KB
|
|
|
|
|
|
|
|
|
「梅まつり」で賑わう百草園は、現在も豊かな自然を残す多摩丘陵の一角にあり、園内には松連庵(しょうれんあん)をはじめ若山牧水の歌碑や松尾芭蕉の句碑などが四季の草木に彩られる。2月〜3月に咲く800本の梅は見事で、関東の梅の名所として親しまれている。 |
|
|
|
|
|
|
|
若山牧水の歌碑 |
小鳥よりさらに身かろく うつくしく かなしく 春の 木の間ゆく君 |
|
拡大写真(1600x900)406KB |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
江戸時代には句会や茶会が開かれたという百草園。明治には若山牧水が学生時代より武蔵野の自然を愛し、この百草園を訪れて恋人の園田小枝子と楽しい一時を過ごしたという。明治41年(1908)に詠んだ歌が「小鳥よりさらに身かろくうつくしくかなしく春の木の間ゆく君」で、その歌碑が残されている。 |
|
|
しかし、この恋は悲恋に終わり、牧水はここで歌集「独り歌へる」をつくった。牧水の歌は他にも何句か残されている。このほか、北村透谷、徳富蘆花などの文人たちもこの地を訪れたという。 |
|
|
|
|
|
|
|
あま酒売りと松連庵 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
江戸時代の亨保年間(1716年〜)、小田原城主大久保候の室(寿昌院)が出家したのち、徳川家康の長男・岡崎三郎信康の追悼のために、天平の昔に栄えたといわれる黄檗宗(おうばくしゅう)の松連寺(しょうれんじ)を再建し、その敷地が現在の百草園にあたる。 |
|
|
|
|
|
|
|
松連庵と寿昌梅 |
|
パノラマ写真(1600x765)5283KB |
|
|
|
|
|
|
|
樹齢300年を越すといわれ、名木として知られる寿昌梅(じゅしょうばい)は、この時、寿昌院が自ら植樹したという。 |
|
|
|
|
|
|
|
心字池の梅の花 |
|
拡大写真(1015x1200)KB |
|
|
|
|
|
|
松連寺は、明治政府の廃仏毀釈により明治初期に廃寺となったが、昭和32年(1987)に青木角蔵という百草出身の生糸商人が買い取って、敷地全体を百草園と命名。のちに京王電鉄に移管され、現在に至っている。正式名称は京王百草園。 |
|
|
|
|
|
|
|
艶やかな紅梅 |
|
青空と梅 |
|
|
|
拡大写真(1400x1050)132KB
|
|
拡大写真(1400x1050)128KB
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
松連庵は、松連寺跡地に佇む立派な庵(いおり)である。大きな茅葺(かやぶき)屋根が園内の景色に溶け込み、 どこか懐かしい日本の風情を伝えてくれる。清楚な梅に囲まれたこの庵は、どこか嬉しげである。 |
|
|
|
|
|
|
|
梅に囲まれた松連庵 |
|
拡大写真(1400x1050)437KB
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
松連庵の奥に心字池があり、そのほとりにある三檪庵では、お茶会や句会、歌会など風流な催しが開かれる。 |
|
|
|
|
|
|
|
心字池と三檪庵 |
|
|
|
|
|
|
芭蕉の句碑 |
|
|
心字池のほとりに芭蕉の句碑がある。その裏には「明治二十年(1887)亥初冬 神奈川縣下武藏國久良岐郡大岡村平戸清八建立 」とある。パンフレットを見ても、なぜ芭蕉の句碑がここにあるのか、説明はない。 |
|
|
|
|
|
|
|
ひっそりと立つ芭蕉の句碑 |
|
|
|
|
|
|
|
この句碑のほか、明治22年(1889)地元の人が建てた「しはらくは花の上なる月夜かな はせを」の句碑もある。いずれも松連寺が廃寺となった後に建てられたものである。芭蕉のファンが勝手に建てたものなのだろうか。 |
|
|
|
|
|
|
|
百草八幡宮への参道 |
|
拡大写真(1300x975)459KB |
|
|
|
|
|
心字池の奥の山を登ると、展望所があり、晴れた日には東京タワーなど、都心がよく見えるというが、この日は春霞で見えなかった。境内を一周すると、寿昌梅のある広場に戻ってくる。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
パノラマ写真(1400x650)305KB |
|