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和田義男

 旅紀行ジャパン

2005年8月29日改訂

♪巡礼 KasedaMusicLabo

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2005年8月25日作成

無動寺谷の善住院

無動寺谷の善住院(比叡山延暦寺)

夏の叡山延暦寺

回峰

前作をご覧下さい

比叡山延暦寺
無 動 回 峰 横 川 西 塔 法 灯 東 塔 和田義男
 
 

未開の蓮華

 

鎌倉・鶴岡八幡宮源平池

  未開の蓮華
 

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千日回峰行せんにちかいほうぎょう

   相應和尚(そうおうかしょう)が開創した回峰行は、毎日休みなく比叡の峰を巡り歩く修行だったが、現在の千日回峰行は、「十二年籠山」「回峰一千日」「堂入り九日」の全てを満行する厳しい行となっている。特に「回峰一千日」は、7年間で地球一周の距離を歩くという極めて過酷な行である。 
   回峰行者は、白い麻の浄衣と手甲脚絆の白装束に、蓮華笠(れんげがさ)と呼ばれる未開の蓮華(開く前の蓮の葉)をかたどった桧笠(ひのきがさ)を被り、八葉蓮華*(はちようれんげ)で編んだ草鞋(わらじ)を履き、首吊り用の死出紐(しでひも)を肩から下げ、降魔の剣(ごうまのけん)と自害用の短刀を腰に差す。行半ばで挫折するときは自ら生命を断つという厳しさを示す死装束といわれる。
 

 蓮華笠の紐の付け根には一文銭が6個と死出の旅への通行手形がついている。実際には何処で行き倒れになってもかまわないように十万円の葬式代を懐に入れ、「行き道はいずこの里の土まんじゅう」という句を肌身につけているという。               *八葉蓮華:仏が坐る八枚の花弁をもつ蓮

 

崖の上に立つ僧坊・ 

法曼院ほうまんいん

崖の上に立つ僧坊・法曼院

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雪道を歩く千日回峰行者

  雪道を歩く千日回峰行者
 

資料

   行の起点は無動寺谷の明王堂。ここから東塔、西塔、横川と歩き、更に山麓の日吉大社を経て無動寺坂を歩く1日約30kmの行程で、1年100日を3年繰り返す。4年目と5年目はこれを200日とし、5年間で700回続ける。
   700日を終えると、千日回峰行で最大の難関とされる明王堂での「堂入り」に入る。「堂入り」では、9日間、飲まず、食わず、寝ず、横にならず、ただ座したまま不動明王の真言を十万回誦し続けるという。
 

 密教では真言を唱えることで諸菩薩(ここでは不動明王)と一体となり、やがては自らの五体を宇宙の一部と化すことを求める。

 

千日回峰行者藤波源信さん(42)=延暦寺宝珠院住職=

   堂入りを終えると回峰行が再開される。最初の6年目は30kmに赤山禅院が加わり60kmとなる。これを100回行う。残りの200日は次の7年目で終える。まず60kmに加え、赤山、真如堂、平安神宮、青蓮院、八坂神社、清水寺、六波羅蜜寺、北野天満宮、西方尼寺、下鴨神社を回る84km(京都大廻り)を100日歩き、残りの100日は当初歩いた30kmとし、行を終える。
   ただし、最後の100日は75日をもって満行となる。25日足りないのは、一生かけての行ということで残すという。

法曼院の急な石段

法曼院の急な石段

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大阿闍梨だいあじゃり

   700日の行と難関の「堂入り」を終えると、阿闍梨*(あじゃり)と呼ばれる位が与えられる。千日を満行すると最高位の大阿闍梨 (だいあじゃり)となり、京都御所に土足参内(どそくさんだい)して、国家安泰の加持を行う。
   地元の人は、阿闍梨も大阿闍梨も区別なく、親しみと畏敬の念を持って「阿闍梨さん」と呼んでいる。
   延暦寺の記録に残る千日回峰行者は、平成15年(2003)9月18日に満行した藤波源信師まで47人(うち二千日が3人)、戦後では12人と極めて少ない。
 

大阿闍梨は生き仏として崇められるが、途中で挫折する人もあり、まさに命懸けの行で、これ以上の過酷な修業は存在しないといわれる。 

  *阿闍梨:(あじゃり、あざり、アーチャーリャ、ācārya、阿闍梨耶とも音写)サンスクリット語で「軌範」を意味し、弟子たちの規範となり、法を教授する師匠。

夏の行者道を歩く

夏の行者道を歩く

資料

戦後12人目の千日回峰行を達成  藤波源信阿闍梨

 

祗園放生会(2005.6.5)

祗園放生会(2005.6.5)

資料

   計7年間で約千日をかけ、比叡山中の峰や谷などを歩く苦行・千日回峰行を大津市坂本本町延暦寺宝珠院(ほうしゅいん)住職の藤波源信(ふじなみげんしん)阿闍梨(44)が18日朝、達成した。94年に同寺善住院住職の上原行照大阿闍梨(44)が達成して以来で戦後12人目。
   藤波さんはこの日午前1時ごろ白い麻の浄衣に手甲脚半、わらじ姿で無動寺谷の宝珠院を出発。約30キロの山道を歩き、午前7時40分に宝珠院に戻った。信者ら約20人に迎えられ「振り返ると早かった。厳しい荒行もあり、色々な方に助けて頂かなければ満じなかった。大変感謝しております」と話した。
   藤波さんは84年に最初の100日を終え、98年に「回峰行の伝統を継承したい」と千日を目指して歩き始めた。比叡山中の仏堂など約260カ所を100日間連続で巡る行を繰り返し、01年10月には9日間堂内にこもって断食し、眠らずに勤行を続ける「堂入り」を終えた。
   今年3月からは、清水寺や下鴨神社など京都市内の寺社を巡って比叡山に戻る「京都大廻(まわ)り」を100日連続で勤めた。
 

                            2003年9月18日 朝日新聞

 

藤波さんが「土足参内」  千日回峰行終え京都御所で

 比叡山延暦寺に伝わる荒行「千日回峰行」を終えた藤波源信さん(44)が19日、京都市上京区の京都御所で国家安泰を祈る「土足参内」を行った。行者姿で御所に上がる古くからの儀式で、天台宗の僧侶や信者ら約740人が見守った。
   土足参内は、千日回峰行の始祖・相応和尚(かしょう)が9世紀半ば、草鞋(わらじ)履きのまま御所に入り、皇后の病気平癒を祈願したことにちなむ。
   蓮華(れんげ)笠に浄衣姿の藤波さんは午前11時、きりりとした表情で宜秋門から京都御所に入った。いったん結(ゆい)草鞋という特別な草鞋に履き替えてから諸太夫の間に昇殿。小御所に移り、約10分間、厳かに加持を行った。藤波さんは大津市の宝珠院住職で、先月18日、9年ぶり戦後12人目の千日回峰行の達成者となった。
 

2003年10月19日 京都新聞    藤波源信阿闍梨に聞く  

法曼院の甍の向こうに見える大津市

法曼院の甍の向こうに見える大津市

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大乗院だいじょういん

 明王堂の下に僧坊・法曼院(ほうまんいん)があり、更に急坂を下ると大乗院に至る。愚管抄*(ぐかんしょう)を著した慈円(じえん)が学問興隆に励んだところで、親鸞(しんらん)は出家した後、最初にここで修行を積んだという。

親鸞聖人修業の地・大乗院

親鸞聖人修業の地・大乗院

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  百合の香や親鸞偲ぶ大乗院   北 舟

ゆりのかや しんらんしのぶ だいじょういん

そば喰ひ木像 そばくいもくぞう

 
 大乗院には親鸞の自刻影像である「そば喰ひ木像」が祀られている。  
 親鸞が慈円の下で修行していた頃、薬師如来の霊告により京都の六角堂へ百夜の参詣を続けたことがあった。これがいつとはなく山僧の間に知れ渡り、よからぬ噂が立ちはじめた。  
 ある夜、範宴(はんえん 親鸞の修業時代の名)が京へ下ったあとで、にわかに蕎麦(そば)の振舞いをするとお師匠様から達しがあって沢山の若僧が集まってきた。彼らは例によって範宴のいないことを悪しざまに罵ろうとしたとき、お師匠様は大声で範宴の名を呼んだ。  
 ところが居ないはずの範宴が師の呼び声に応じて現れ、蕎麦の振舞いを受けた。それ以来、誰いうとはなく、身代りの木像を「そば喰ひ木像」と崇(あが)めるようになったという。
そば喰ひ木像

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親鸞が彫った「そば喰ひ木像」

親鸞が彫った「そば喰ひ木像」

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善住院ぜんじゅういん

 大乗院を更に下ると、鬱蒼とした林の中に中国風の山門が現れ、その奥に善住院がある。人影がなく、ひっそりとした佇まいで、出家して俗世界と隔絶した修行の地にふさわしい。

中華風の善住院山門

中華風の善住院山門

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