平安末期〜鎌倉初期の武将。源義朝の末子、頼朝の異母弟。母は九条院の雑仕女(ぞうしめ)常盤(ときわ)。幼名牛若、九郎と称す。平治の乱(1159)で父義朝が敗死したのち母と2人の兄今若(のちの阿野全成(ぜんじよう))、乙若(のちの円成(えんじよう))と共に平氏に捕らえられたが、幼児であったため助けられて鞍馬寺に入れられた。この時期の義経の行動についてはまったく不明で、ほとんどが伝説・創作の域を出ない。 |
源九郎義経の行動が史実として確認されるのは、1180年(治承4)兄頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉より駿河国黄瀬川に参陣してから以後のことである。 |
頼朝の麾下に加わった義経は吾妻鏡にも九郎主と表現されるように、源家一門の御曹司として処遇され、頼朝の代官として、異母兄の範頼とともに平氏追討の大将軍として活躍した。 |
1184年(元暦1)1月まず京都にいた木曾義仲を討ってこれを近江に倒し、都の覇権をにぎった。ついで2月には平氏軍を一ノ谷に破ってその入京の勢いをとめた。この合戦における鵯越(ひよどりごえ)の奇襲は有名である。さらに翌1185年(文治1)2月には讃岐国屋島の平氏軍を襲って大勝し、海上にのがれた平氏軍を追って関門海峡の壇ノ浦に戦い、これを全滅させた。3月24日のことである。 |
その機知に富んだ戦術で平氏を討滅した義経は一躍英雄として都の内外の人々にもてはやされた。そして当然その功を賞せられるべきであったが、平氏追討戦の間に梶原景時以下の関東御家人と対立したばかりでなく、後白河上皇の頼朝・義経離間策にのせられて頼朝の認可をまたずに検非違使・左衛門少尉になったため、鎌倉御家人体制の組織を破る独断行為として頼朝の不興を買い、疎外されるに至った。 |
義経は腰越状(こしごえじよう)を送って弁解したが、ついに鎌倉に帰ることを許されず、追放の身となった。追いつめられた義経は、叔父行家と結んで反逆を企て、1185年10月18日、後白河上皇に強要して頼朝追討の院宣を得た。 |
しかし、義経自身乗り気でなかったことから、結集しえた軍勢は少なく、この計画は失敗した。西海にのがれようとして摂津の大物浦に船出したが難破し、そののちは畿内一帯に潜伏して行方をくらまし、やがて奥州にのがれて藤原秀衡(ひでひら)の庇護を求めた。しかし秀衡の死後、その子泰衡は頼朝の圧迫に抗しえず、1189年閏4月30日、義経を衣川の館に襲撃し、義経は自害した。享年31歳。 |
数奇な運命にもてあそばれた悲劇的な義経の生涯は、多くの人々の同情を集め、のちに彼を英雄視する伝説・文学を生む結果となり、世に判官びいきの風潮を作った。 |
源義経物語 |