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2003年10月18日改訂

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2003年10月17日作成

神護寺の紅葉(京都・高雄)

神護寺の紅葉(京都・高雄

高雄山神護寺たかおさんじんごじ

 神護寺は正式には高雄山神護寺といい、平安京造営(794〜)の最高責任者(造営大夫)であった和気清磨わけのきよまろ 733〜799)が今の愛宕(あたご)神社の前身・愛宕山白雲寺などとともに建てた愛宕五坊の一つで、最初は高雄山寺と呼ばれていた。

高雄付近観光案内図

高雄付近観光案内図

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 天長元年(824)、和気清磨が創立した河内(大阪府)の神願寺の地がよごれた所でふさわしくないという理由から神願寺が高雄山寺に合併され、神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と改名した。その略名から神護寺と呼ばれるようになったという。
 神護寺初代の弘法大師は、中国の唐より帰朝後、大同4年(809)から14年間住持し、真言宗立教の基礎を築いた。のちの東寺(とうじ)や高野山金剛峰寺(こうやさんこんごうぶじ)と並ぶ霊刹(れいさつ)として名高い。
 現在の諸堂は、弘法大師の住房であった大師堂(重要文化財)を除き、全て応仁の乱で焼失したため、江戸時代以後に再建されたものである。
 銘文で有名な銅鐘(国宝)は三絶の鐘と呼ばれ、日本三名鐘の一つに数えられる。 梵 鐘

高 雄たかお

 高雄は、古くは高尾と書き、京都市右京区梅ヶ畑(うめがはた)の一地区である。清滝川の右岸(北岸)にあり、紅葉と名刹で全国的に知られている。

高雄付近の紅葉

高雄付近の紅葉

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楼 門

 紅葉の名刹として知られる高雄の神護寺は、清滝川に架けられた朱色の高雄橋を渡り、かなり急な石段を15分ほど登ったところにある。紅葉のシーズンとあって、多くの観光客が列をなし、汗だくで楼門を目指していた。

楼 門

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神護寺境内

 高雄山の山腹にそびえる山岳寺院の境内は予想外に広く、20万u(6万坪)もある。境内のあちこちに植えられたもみじや楓は、鮮やかに色付き、最盛期を迎えていた。

神護寺境内

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紅葉の石段

 真っ赤なもみじの下を金堂目指して急な石段を登る観光客たち。写真左は五大堂(手前)と毘沙門堂(奥)。

紅葉の石段

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大師堂だいしどう

 大師堂は、初代弘法大師が14年間住持した住房である。応仁の乱*で京都は焼け野原となったが、神護寺で唯一消失を免れた建物で、国の重要文化財に指定されている。

* 応仁の乱は、1467年、室町幕府8代将軍足利義政の後継ぎを巡る、義政の弟・義視と子・義尚の争いが発端となってはじまった戦い。細川勝元・山名持豊ら各地の有力守護大名が争い、戦国時代がはじまるきっかけとなった。

大師堂

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金 堂こんどう

 真言宗の金堂は、甍(いらか)が左右に大きく開き、威風堂々とした力強い造りで、圧倒される。境内は広いが、休憩所やベンチがないため、歩き疲れた観光客があちこちで腰を下ろしている。*

* 移動して下さいとも言えず、行儀の悪い写真となったが、これが現実である。この写真に限らず、建物の階段などに腰を下ろしてピクニック気分で弁当を食べている不心得者が散見され、写真を撮れなかった建物もある。寺の人は無頓着である。広い境内なので、休憩所を設けてほしいと思うのは私だけだろうか。

金堂

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本坊の紅葉

 南禅寺などの禅宗の本坊を見慣れている人は、この民家風の本坊を見て、少々落胆するだろう。事実、インターネットを検索すると、そのような記述が見られる。でも紅葉は素晴らしい。

本坊の紅葉

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参道の茶屋

 広大な境内の紅葉を堪能し、元来た道を清滝川まで引き返すことにした。楼門を出ると、参道東側の紅葉の中に茶屋や食堂が建ち並び、茣蓙(ござ)や緋毛氈(ひもうせん)の上で飲食をしながら紅葉を楽しむ行楽客で賑わっていた。

参道の茶屋

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北山杉きたやますぎ

 清滝川の渓谷美を切り取ろうと、清滝川に架かる高雄橋を渡らず、川の北側の遊歩道を南下した。間もなく、北山杉の林が見えてきた。手入れの行き届いた杉の木立は、空に向かってまっすぐに延びていた。

 洛北の鷹峯(たかがみね)から清滝川の上流にかけての周山(しゅうざん)街道沿いの山里は、北山杉の故郷である。室町時代、茶室の用材として使われたのにはじまる。冬のさなか、女性が川砂で丸太を丹念に磨きあげて、ようやく美しい艶(つや)が出るという。川端康成がここを舞台に小説「古都」を書いた。

北山杉

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東海自然歩道

 歩いている山道は、東海自然歩道の一部であった。京都府の案内板によると、この自然歩道は、東京の明治の森「高尾国定公園」から大阪の明治の森「箕面(みのお)国定公園」までの1,350kmを結んでいるという。

錦雲渓きんうんけい

 自然歩道は川を渡ったり岩を上るなど変化に富んでおり、トレッキング・シューズを履いてきて正解だった。途中、紅葉の名所として知られる錦雲渓では、行楽客たちが見事な紅葉と散りもみじの中で弁当を広げ、紅葉を楽しんでいた。

錦雲渓の紅葉

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愛宕山あたごやま

愛宕山登山道

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 間もなく、愛宕山登山口が見えてきた。愛宕山は京都市右京区北西部にあり、京都の最高峰で、標高924mである。古生層からなり、周囲の標高500〜600mの山地の面の上に突出している。 
 山城国(やましろのくに)と丹波国(たんばのくに)との国境に位置し、山頂の愛宕神社は全国的な信仰圏をもつ火難よけの神の総本社である。
 愛宕山は、役行者(えんのぎょうじゃ)が開いた修験道の道場として信仰を集めてきたが、平安時代には比叡山とともに鎮護国家の山とされた。
 麓を流れる清滝川は、京都市北区から右京区の高雄・清滝を通り、保津峡(ほずきょう)で保津川(桂川)に合流する。

清 滝きよたき

 愛宕山の南東麓に位置する清滝(きよたき)は、愛宕神社の鳥居前町として起こり、今は紅葉の名所として名高い。清滝は、愛宕神社への参詣者が清滝川で水垢離(みずごり)をとる場所であった。清滝は地名で、清滝という名の滝*は存在しない。
* 滝の意味は、時代を遡るほどに滝から早瀬、川の流れに近づくという。清滝に決して大きな滝があるわけではなく、滝が清滝川の早瀬や急流を指していたと考えれば、その名に納得が行く。

紅葉の渡猿橋

紅葉の渡猿橋

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渡猿橋とえんきょう

 清滝川の清流を渡る渡猿橋は、愛宕山への参道に架けられた橋である。この地は渓谷美に優れ、古くから歌人達が訪れ、多くの作品を残している。
降り積みし高嶺のみ雪解けにけり清滝川の水の白波   西行
清滝や波に散り込む青松葉 芭蕉
 渡猿橋がいつごろ架けられたのかは明らかではないが、橋名は、平安末期文覚上人(もんがくしょうにん)が修行のため空也滝へ行く途中、この近くで猿が連なって木からぶら下がり、魚を取るのを見たことに由来するという。
 清滝付近の紅葉は、洛西の紅葉の旅を締めくくるにふさわしい、見事な景観であった。(2002年11月16日)
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