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▼ カザンラクにあるバラ博物館では、共産主義の時代から変わらない製油方法が紹介されており、カザンラクの名の由来となった巨大な銅の蒸留釜が展示されていた。 |
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カザンラクの名の由来となった巨大な銅の蒸留釜/バラ博物館 |
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トラキア人の墳墓/カザンラク |
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▼ カザンラク近郊にあるトラキア人の墳墓は、レンガ造りの丸天井型地下墳墓(カタコンベ)である。古代には、トラキア人の首都セウトポリス近郊にも存在した。 この墓地は、大規模なトラキア人共同墓地の一部をなしており、狭い回廊と丸い埋葬室とから成っている。この墓地は紀元前4世紀にまで遡るもので、1979年にユネスコの世界遺産に登録された。 |
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トラキア人の墳墓(世界遺産) |
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▼ 回廊や埋葬室は、ともに慣例的な葬儀の宴におけるトラキア人夫婦を描いた壁画で飾られている。その壁画には素晴らしい馬が描かれていて目を惹くが、写真下は、座っている夫婦が互いの手首をつかみ、告別の身振りをしていることが印象的である。この壁画は、ヘレニズム時代のブルガリア美術のなかで、最も保存状態の良い傑作だという。 |
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トラキア人(王と王妃?)を描いた壁画 |
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▼ ここがレプリカの墓で、中に入れるが撮影は禁止。教会や修道院もそうだったが、ブルガリアは、内部の撮影禁止が多く、遠路はるばるやってきたツアー客としては、物足りなく、残念に思う。共産主義時代の秘密主義が続いているのだろうか。入口に立つ女性は、地元世話役のヴィクトリアさん。通称ヴィッキー。 |
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レプリカの墓の入口 |
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▼ カザンラクの昼食レストラン兼フォルクローレ・ダンスショー会場に到着。通路一杯に香り高いバラの花びらが敷きつめられていた。 |
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カザンラクの昼食レストラン&フォルクローレ・ダンスショー会場 |
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▼ ここでも中に入ると、民族衣装に身を包んだ美女がパンをちぎって振る舞ってくれた。昔は、食糧事情が悪く、歓迎の気持ちを表すのがパンの施しということになったのだろうか。 |
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美女によるパンの歓迎 |
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▼ レストランの広場では、奇妙な仮面を被った民族衣装クケリを纏った人々による地元の祭りを再現してくれた。 |
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クケリをまとって地元の祭りの再現 |
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▼ 年代物の大砲が広場に引き出され、空砲が発射された。結構大きな音と硝煙が広がり、我々を驚かせた。 |
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ありしひの たいほうほゆる ばらのたに |
The valley of roses, roaring of the old day's cannon. |
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古い大砲の実演 |
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沖縄のエイサーに似た男性の勇壮な踊り |
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若い娘たちのラインダンス |
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■ 五日目/6月8日(月):プロヴディフ見学(プロヴディフ泊)/ブルガリア |
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人口約38万人を擁するプロヴディフは、プロヴディフ州の州都。古代トラキア人の集落に起源を持ち、トラキアの重要都市フィリッポポリスとして長い歴史を持つブルガリア第二の都市である。終日、市内見学を楽しんだ。 |
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メイン・ストリートのアレキサンダル・バテンベルグ通り/プロヴディフ |
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▼ ローマの競技場跡は、旧市街(トリモンティウム)のビルの下に埋もれている。崩れかけた遺跡が痛々しい。 |
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ローマの競技場跡 |
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▼ ローマの円形劇場跡は、旧市街(トリモンティウム)の断崖にある。ロドビ山脈が遠望でき、3000人を収容できる大劇場で、保存状態も良い。ローマの道はアテネに通じるといわれた当時のローマ帝国の繁栄が想像される。 |
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ローマの円形劇場跡 |
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▼ ヒンドリヤン・ハウスは、1835〜1840年に建てられた西欧様式と民族復興様式がミックスしたアラフランガという独特の建築様式を持つ建物で、アルメニア商人のヒンドリヤンの屋敷だった。 |
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ヒンドリヤン・ハウス |
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▲▼ 壁の窪みにアレクサンドリア、コンスタンティノープル(現イスタンブール)、ヴェネツィアなどの美しい風景画が描いてあるのが特徴。1974年に修復され、ブルガリア復興期の家具が並べられている。 |
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ヒンドリヤン・ハウスの内部 |
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▼ 旧市街の中でも一際美しい豪邸といえば、コンスタンチノーブル出身の豪商ハジ・ゲオルギが1847年に建てた館で、バロック様式と民族復興様式がミックスされた建物。外壁には白と黒を基調とした花模様が描かれていて、美しい。現在は9月6日通りにある歴史博物館の分館で、1階がギャラリー、2階が民族復興期の資料館となっている。 |
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民俗博物館(ゲオルギアディ・ハウス) |
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▼ 民俗博物館の下、ゲオルギアディ・ハウスへと続く道にある門は、ヒサル・カピヤ(要塞門)といい、紀元前4世紀にマケドニアのフィリップ2世によって建てられた。ネペット・テぺの要塞を中心とした旧市街を防衛するための要(かなめ)となるゲートで、ローマ、オスマン帝国と、支配者が変わる毎に破壊と修復が繰り返されたという。 |
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ヒサル・カピヤ(要塞門) |
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▼ バラバノフ・ハウスは19世紀のはじめにプロヴディフ出身のブルガリア人、ハジ・パナヨット・ラムプシャにより建てられた。裕福な商人で、高利貸しであり、民族衣装カフタンの職人だった。20世紀の初めに最後の家主となる商人ルカ・バラバノフが居住し、その姓名から今日でも広く知られているバラバノフという名前が付いた。 |
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バラバノフ・ハウス |
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▼ 聖コンスタンティン・エレナ教会は337年に創設されたが、何回も崩壊を繰り返したので、現在あるのは1832年の建物。回廊にはフレスコ画が飾られているのが見える。 |
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聖コンスタンティン・エレナ教会 |
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▲▼ 教会の回廊に描かれたフレスコ画は、外に晒されているのでくすんでいる。内部はここも撮影禁止。普通、ヨーロッパ各国のキリスト教会は、宣伝になるので観光客に開放され、フラッシュを禁じることがあっても、内部の撮影を禁止するところはない。 |
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ブルガリアでは、殆どの教会が内部の撮影を禁止している。日本から毎年1万人を受け入れたいのなら、観光資源の公開なくして、その実現は難しいだろう。 |
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回廊の壁に書かれたフレスコ画 |
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▼ 一旦ホテルに帰ってから再度市内を散策。プロヴディフの素晴らしい夕景を切り取ることができた。夕日は夜8時頃、ブナルジク(解放者の丘)とサハトテペの二つ丘の間に沈んだ。 |
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プロヴディフの夕景 |
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