|
|
|
|
■ 六日目/6月9日(火):プロヴディフ〜ヴェリコ・タルノヴォ(ヴェリコ・タルノヴォ泊)/ブルガリア |
|
|
★☆★彡 |
|
|
▼ 朝、プロヴディフを後にして、ヴェリコ・タルノヴォに向けて北上した。途中、車窓からバルカン山脈が見えた。 |
|
|
|
|
|
|
|
バルカン山脈 |
|
|
|
|
|
|
|
激戦地「シプカ峠」 |
|
|
▼ シプカ峠は、ブルガリアのバルカン山脈(スターラ山脈)を越える景色の良い峠で、ドナウ川に面するルーセからスタラ・ザゴラへ、さらにトルコのエディルネへと至る道の途中にある。峠の最高地点は、1,150m。1877年から1878年までの露土(ろと)戦争(ロシア帝国とオスマン帝国との戦争)において、シプカ峠は、「シプカ峠の戦い」と命名された一連の戦いの舞台だった。 |
|
|
|
|
|
|
|
シプカ峠 |
|
|
|
|
|
|
|
▲▼ 「シプカ峠の戦い」 は、露土戦争最大の激戦地で、ロシア軍は、1877年7月の戦いでシプカ峠を確保した後、二度にわたるオスマン軍の攻撃から峠を死守し、1878年1月にオスマン軍を完全に撃退した。 |
|
|
|
|
|
|
|
シプカ峠の戦勝を描いたロシアの作品 |
|
拡大写真(2200x1100)492KB
|
画像:フリー百科事典 |
|
|
|
|
|
|
▼ シプカは、バラの谷のあるカザンラクから北方約10kmにある小さな村。村から12kmほど山を登ったシプカ峠の頂上には、高さ32mの巨大な「自由の碑」がそびえ立つ。モニュメントの前のライオンはブルガリアの象徴で、碑の内部は、兵士の遺品などが展示された博物館。この戦いで、ロシア・ブルガリア連合軍が勝ち、ブルガリアは遂ににトルコのオスマン帝国の支配から脱することができた。 |
|
|
|
|
|
|
|
シプカ峠に建つ戦勝記念の巨大な「自由の碑」 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
ヴェリコ・タルノヴォ |
|
|
▼ 午後2時前にヴェリコ・タルノヴォに到着。ここは、国土の東西に横たわるブルガリア最大のバルカン山脈の東部にある人口7万弱の地方都市。ブルガリア人にも人気の観光地で、 森に包まれたいくつもの丘と、その周囲を蛇行するヤントラ川の切り立った崖の美しさは、中央ヨーロッパでも際立ったものだという。 |
|
|
|
|
|
|
|
ヴェリコ・タルノヴォの街 |
|
拡大写真(1800x1100)374KB
|
|
|
|
|
|
|
どこを歩いても違う表情を見せ、地図を見ているだけでは想像もできないほど立体的。大自然と中世の町並みが鮮やかに溶け込んでいる。地元では「タルノヴォ」という愛称で呼ばれ、1187〜1393年に第二次ブルガリア帝国の首都として栄えた古都として人気が高い。 |
|
|
|
|
|
|
|
昼食のレストランにいた美人ウエイトレス |
|
拡大写真(1600x1400)239KB
|
|
|
|
|
|
|
イヴァン・アッセン王治下の最盛期にはビザンツ帝国(東ローマ帝国)をも圧倒し、バルカン半島のほぼ全域を支配したこともあった。文化的にもこの時代は周囲をおさえ、タルノヴォで学ぶためにルーマニアや遠くモスクワからも留学生がやってきたという。 |
|
|
|
|
|
|
|
アッセン王のモニュメントとヴェリコ・タルノヴォ美術館 |
|
拡大写真(1800x1400)410KB
|
|
|
|
|
|
|
▲▼ しかし、その帝国もアッセン王の死後に衰退を始め、やがて宿敵ビザンツ帝国に屈服し、1398年にはオスマン帝国との3ヵ月にわたる首都攻防戦の後、遂に滅亡した。 |
|
|
|
|
|
|
|
アッセン王のモニュメントとヴェリコ・タルノヴォの街 |
|
パノラマ写真(2350x900)375KB
|
|
|
|
|
|
|
▼ タルノヴォが再び脚光を浴びるのは、500年にわたるトルコ支配から独立を達成した1879年以降から。新生ブルガリア王国の最初の国会がこの町で開かれた。タルノヴォの美しさは今も昔と変わることはなく、石畳の坂道を歩きながら、町が刻んできた波乱の歴史を味わうことができる。 |
|
|
|
|
|
|
|
ツァレヴェッツの丘 |
|
拡大写真(1800x1350)466KB
|
|
|
|
|
|
|
▲▼ ツァラヴェッツの丘に村落が形成されてからトラキアの村が発展し、4〜7世紀に初期のビザンチン都市が繁栄し、10世紀にはブルガリアの村落が生まれた。12〜14世紀末に城壁、城門、塔のあるタルノフグラッドの要塞が築かれたが、その後、オスマントルコにより破壊された。 |
|
|
|
|
|
|
|
ツァレヴェッツの丘に聳える大主教区教会 |
|
拡大写真(1800x1350)564KB
|
|
|
|
|
|
|
▲▼ 14〜19世紀、丘にはいくつかのムスリム住宅地が存在したが、1877年に破壊され、1908年にこの丘でブルガリアの独立が宣言された。ツァレヴェッツ要塞は、1927年に郷土史跡、1964年に国の重要文化遺産に指定され、城壁、宮殿、教会、その他の建物の修復は現在も行われている。 |
|
|
|
|
|
|
|
復旧されつつある要塞跡/ツァレヴェッツの丘 |
|
パノラマ写真(2170x850)347KB
|
|
|
|
|
|
|
▼ 展望台でふくよかな美人に話しかけられた。「この町はいかが?」・・・「大好き」。 |
|
|
|
|
|
|
|
この町はいかが? |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
▼ 旧市街の一角にサモヴォドスカタ・チャルシャがある。チャルシャは市場を意味し、古くから営業を続ける金銀細工、陶器、織物、革製品、木彫り、絵画などの小さな店が軒を連ねる。どの店も工房を兼ねており、職人たちがその場で作ったものを売っている。彼らの仕事ぶりを見ているだけでも楽しい。 |
|
|
|
|
|
|
|
サモヴォドスカタ・チャルシャ |
|
拡大写真(1800x1000)355KB
|
|
|
|
|
|
|
▼ チャルシャからさほど遠くない住宅街には、町とともに歴史を重ねてきた教会がいくつかある。その中の一つ聖処女降誕教会は、鮮やかな碧色(へきしょく)のキューポラ(丸屋根)を持ち、メインストリートのニコラ・ピコロ通りに面して立っている。 |
|
|
|
|
|
|
|
旧市街に建つ聖処女降誕教会 |
|
拡大写真(1600x1200)382KB
|
|
|
|
|
|
|
▲▼ タルノヴォは、新市街と旧市街と3つの丘に分けられ、どこから眺めても絵になる風景が広がり、旅人を飽きさせることはない。坂の多い街並みは、生活するには不便だが、立体的で美しい眺めは、古都にふさわしい風格を備え、他の町にはない魅力がある。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
なつこだち みおろすことの あかがわら |
The red roof tiles of an ancient capital, looking down the summer grove. |
|
|
ヤントラ川の崖に建つタルノヴォの美しい街並み |
|
拡大写真(2000x1500)761KB
|
|