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京都市 京都府南部の市。府庁所在地。1889年市制。人口146万。府の政治・経済・交通・文化の中心。延暦13年(794)の奠都(てんと
都を定めること)以来1000有余年の都。わが国の歴史と文化を代表する世界都市。1994年には「古都京都の文化財」が世界遺産に登録。
京都市情報館 |
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新町御池の辻廻し
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山鉾は最終コーナーの新町御池に入っている。雨はすっかり上がり、道路は乾いている。この交差点を90度左転し、御池通から新町通に入る。
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船 鉾
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23番・船鉾(ふねほこ)は先祭の殿(しんがり)を務める。船鉾の舳先(へさき)には大きな鷁(げき
想像上の水鳥)が飾られ、船鉾全体が国の重要文化財に指定されている。鉾というものの真木(しんぎ
屋根から天に向かう柱)がないのが特徴。
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船鉾は応仁の乱以前から2基あった。この船鉾は出陣の船鉾。もう1隻は凱旋の船鉾で後祭を固めていたが、元治元年(1864)に焼失し、復元に至っていない。
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船鉾は神功皇后(じんぐうこうごう)の外征の説話を表現したもので、御神体の神功皇后と住吉明神・鹿島明神、水先人の安曇磯良(あずみのいそら
伝承に現れる古代の精霊)が満珠・千珠を捧げて舳先(へさき)に立つ四神像の人形を乗せている。
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神功皇后の神面(文安年間作 1444〜1448 写真上)は古来安産に奇瑞(きずい
めでたい前兆)があるといわれ、明治天皇御降誕の際に宮中へ参内(さんだい)したという。
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神面改め
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神功皇后の御神像は、巡行時岩田帯を多数巻いており、祭の後妊婦に授与され、安産の御守とされる。
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山には曳山(ひきやま)と舁山(かきやま)がある。舁山には車輪がついており、普段は牽引して進む。辻回しの時だけ担いで方向転換する。曳山・舁山双方の利点を取り入れているのが自慢だ。 浄妙山の鎧
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浄妙山 |
27番・浄妙山(じょうみょうやま)は、平家物語から取材したもので、治承4年(1180)宇治川の合戦に三井寺(みいでら)の僧兵・筒井浄妙が橋桁を渡り一番乗りをしようと奮戦していると、後から一来法師がその頭上を飛び越え「悪しゅう候、御免あれ」と前に進み出て先陣をとってしまった。 |
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2体の御神体はその瞬間を表現したもので、黒漆塗の橋桁に数本の矢が刺さり、合戦の最中である。 |
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割竹に前輪を乗り揚げた後、滑りを良くするために水をかける。交差点には消火栓から汲んだ水桶が準備され、適宜ホースで補充される。
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放下鉾
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21番・放下鉾(ほうかほこ)。由来は真木(しんぎ)の天王座に放下僧の像を祀ることによる。鉾頭(ほこがしら
鉾の先端部)は日・月・星の三つの光が下界を照らす形に並んでいるのが洲浜というお菓子に似ていることから「すはま鉾」とも呼ばれる。
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放下鉾は、昭和3年まで生稚児(いきちご)であったが、今は稚児人形に変わっている。稚児人形は三光丸と呼ばれ、巡行中にも生稚児と同様に鉾上で稚児舞ができるよう操りを採用している。 放下鉾
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新町御池では、予想通り路上に報道陣の姿はなく、辻回しの様子をじっくりとカメラに収めることができた。辻回しを見るなら新町御池をお勧めする。
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ビニールシートを外した北観音山
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24番・北観音山がやってきた。よく見ると四条通でつけていた胴まわりのビニールシートが外されている。運行者の細かな気配りが嬉しい。お陰で豪華な懸装品をじかに鑑賞することができ、すっかり魅了されてしまった。
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本来の殿は南観音山だが、新町通には南観音山を先に行かせないといけない。北観音山の南に南観音山が位置するからだ。このため、新町御池では北観音山が殿を務める。
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北観音山は、「上り観音山」とも呼ばれ、現在は後祭の先頭を行く。応仁の乱の時代から隣町の南観音山と1年おきに交代で山を出していたが、明治以降毎年出るようになった。元々かき山だったが後に曳き山となった。
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御神体は楊柳観音座像と合掌して金剛杵(こんごうしょ
密教の法具)を捧げる韋駄天(いだてん)立像を祀っている。文和2年(1353)創建の曳山で、現状のように飾屋根付きになったのは天保4年(1833)からだという。
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真木(しんぎ)の代わりの真松(しんまつ)は赤松で、巡行時には見送(みおくり
後面)の横から楊柳観音の象徴として後方に大きな柳の枝をさし出している。 北観音山
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素晴らしい祇園囃子
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北観音山の祇園囃子は素晴らしい。横笛の囃子方が色とりどりの布を帯から垂らしている。横笛・太鼓の撥(ばち)・鉦すり(撞木)の収納袋だそうだ。如何にも京都ならではの雅を感じる。
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北観音山も無事に辻回しを終え、新町通に入って行った。これで御池通の巡行が終わり、舞台はいよいよ町屋が並ぶ新町通に移る。
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