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月鉾囃子 |
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囃子方の腰には、月と書かれた布がさりげなく垂れている。
横笛を収める袋のようで、如何にも京都らしく、風流で粋だ。 |
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烏丸(からすま)通を渡り、四条通を西に進むと、右手北側に函谷鉾(かんこぼこ)が、少し先の左手南側に月鉾(つきぼこ)がある。(見出し写真の右端が函谷鉾、左端が月鉾) 山鉾マップ
函谷鉾 |
午後6時から四条通や烏丸通が歩行者天国となり、車道は浴衣姿の女性やカップル、家族連れでいっぱいとなった。京都新聞によると、昨年より9万人多い40万人が繰り出したという。 |
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歩道ではテントが張られ、山鉾関係者が粽(ちまき)や扇子などを売っていた。函谷鉾の女の子が大きな声を張り上げて「厄よけのちまき買(こ)うてんか〜」と客を呼び込んでいた。
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月 鉾
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月鉾では祇園囃子が奏でられていた。鉾頭(ほこがしら
鉾先)に新月がついており、夕暮れの空に新月の形が見え特に印象的だった。装飾も見事で、前掛け(まえかけ)はメダリオン絨毯(じゅうたん)といい、17世紀インド製の逸品だという。軒桁(のきけた)、四本柱などの飾り金具も見事なものだ。各山鉾とも前掛けや胴掛けなどに年代物の舶来絨毯を下げていた。 月 鉾
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08 |
新町通の山鉾
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南観音山
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月鉾を過ぎて四条通を西に進むと新町(しんまち)通に至る。予想外に狭い道路だ。右手に折れて北上する。
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通りの中央に山鉾が据えられている。山鉾へは2階の通路から渡る。歩行者は山鉾の脇道を通る。放下鉾(ほうかぼこ)の北に南観音山(みなみかんのんやま)がある。
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南観音山
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下り観音山ともいわれ、江戸時代には北隣りの北観音山と隔年交替で巡行していたが、明治以降毎年出るようになり、山鉾巡行の最後をしめくくる大役を受け持つ。
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曳山には楊柳(ようりゅう)観音と脇侍(きょうじ)の善財童子が祀られ、柳枝が付く。前掛けの異旡須織(いむすおり)と伝える華麗なペルシャ絹緞通(きぬだんつう)の逸品が自慢だ。 財団法人南観音山保存会が管理運営する。
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屏風祭り
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山鉾町の旧家では、14日〜16日に虫干しも兼ねて秘蔵の屏風や書画を飾り、窓や玄関を開放して道行く人や親しい客に見せるならわしがある。屏風祭り(びょうぶまつり)と呼ばれる。
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京都新聞報道
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《 撮影 2002年7月16日 》
オリンパス CAMEDIA E-20 500万画素 370枚
530MB |
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山鉾の模型は、鶏の絵からすると鶏鉾なのだろうか。額に描かれた「奢者不長」は、「奢る者長からず」と読むのだろう。振り子式の柱時計が懐かしい。
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松坂屋と書かれた旧家では、3着の鎧を展示していた。どれも本物のようである。デパートの松坂屋は名古屋が老舗なのだが、関係あるのだろうか。 |
写真左の旧家では、玄関が開け放たれ、守衛が一人座っていた。見物客が玄関に入り土間から中を覗いている。 |
私もつられて中に入ってみた。守衛は何も言わない。暗黙の了解を得たようだ。中では、豪華な屏風や等身大の武者人形の前で、亭主が緋毛氈(ひもうせん)の上で接客中だった。 |
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大勢の見物客の前で、人目を気にする風もなく、酒を酌み交わしている。三者の視線はこちらには向けられない。毎年の行事で慣れているのだろう。
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まだまだ先は長い。しかし、気がつけば辺りは夕闇につつまれ、既に3時間が経過していた。京都市民の祇園祭にかける意気込みをたっぷりと味わうことができた。明日の山鉾巡行のことを考えると、体力を温存する必要がある。後ろ髪を引かれる思いで、駒形提灯と祇園囃子で賑わう京都の宵山を後にした。(了)
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