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2004年11月9日改訂

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♪海に帰る KasedaMusicLabo

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             浦祭神前に立つ褌衆  北舟

2004年11月7日作成

裸詣りの男たち

坂越の船祭り(大避神社/兵庫県赤穂市)

国重要無形民俗文化財

国重要無形民俗文化財

坂越の船祭り

裸詣り

大 避おおさけ

 神
大避神社

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 2004年10月10日(日)、兵庫県赤穂市坂越(あこうし・さこし)に鎮座する大避(おおさけ)神社で行われる船渡御祭を見に行った。
 赤穂市を流れる千種川(ちくさがわ)の東、坂越湾に向かって建つ大避神社は、JR播州赤穂駅から東方4kmに鎮座する。

大避おおさけ 神社
 大避神社は秦河勝(はたの・かわかつ) を祀る神社である。河勝は中国より渡来した秦氏(はたし)の子孫で、特に聖徳太子に寵任(ちょうにん)された。
 太子より仏像を賜わり、京都の太秦(うずまさ)に広隆寺を建立したことは有名である。また、神楽(かぐら)を創作制定し、今日、猿楽(さるがく)の祖、能楽(のうがく)の祖として崇められている。
   河勝は、皇極3年(644)、太子亡きあと蘇我入鹿(そがのいるか)の迫害を避け、海路をたよって坂越浦に逃れ、以来、千種川流域の開拓を進め、大化3年(647)、八十余歳で亡くなった。その御霊は神仙化し、村人が朝廷に願い出て祠を築き祀ったのが大避神社の創建と伝えられる。
 

 
坂越浦さこしうら
   天然の良港をもつ坂越浦は、赤穂城下よりも歴史が古く、往時はこの地方の中心であった。赤穂沖で赤穂塩(あこうじお)を積み込んだ塩廻船は坂越に回航され、この港で潮待ち・風待ちして上方や北陸へ船出していった。
   また、千種川流域の幕府領の年貢米の積み出し港として、高瀬舟(たかせぶね)により運ばれた米や産物はこの港で船積みされ、上方へ運ばれた。
 坂越浦廻船の発展と諸国廻船の出入りの増加とともに、坂越は港町として繁栄していった。今も随所に当時の面影がみられ、大避神社の境内には、船絵馬や坂越浦を出入りした塩廻船などが展示されている。

赤穂市坂越の会場

大避大明神の大幟が祭りの雰囲気を盛り上げている。

赤穂市坂越の会場

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坂越さこし の船祭り
 大避神社船渡御祭は、「坂越の船祭り」と呼ばれ、今から300年ほど前の江戸時代、坂越が繁栄を極めた時期に始まったといわれる。「坂越の船祭り」は平成4年(1992)国の無形民俗文化財に選定され、使用する船も兵庫県有形民族文化財に指定されている。
ひょうたん島のような対岸の

生島いきしま

向かって左端に白い幟を立てた御旅所が見える。

ひょうたん島のような対岸の生島

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生 島いきしま
 生島は坂越の沖合100mほどに浮かぶ周囲わずか1.6kmの小島で、古来より大避神社の神地として人の入ることが禁じられていたため、樹相が原始のままの状態を保っており、国の天然記念物に指定されている。
 生島には大避神社の御旅所があり、樹林の奥には祭神・奏河勝の墓と伝えられる円墳があり、本祭の前日には墓参が行われる。生島の名は秦河勝が生きてこの地に着いたので名づけられたと伝えられる。

浜に戻った氏子たち

試運転から戻った氏子たち

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若衆組わかしゅぐみ
 午前11時頃、2隻の和船が砂浜に乗り付け、赤い法被を脱いで褌(ふんどし)一丁の裸形(らぎょう)となった数十人の男たちが大避神社に向かった。彼らは潮見町(しおみちょう)の若衆組で、今年の船祭りの推進役である。

大避神社に向かう男たち

大避神社に向かう男たち 1

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 若衆組は、潮見町、小島町(こじまちょう)、東之町(ひがしのちょう)、西ノ町(にしのちょう)の氏子4町が輪番で務めることになっており、今年は潮見町の番である。

大避神社参道

大避神社参道

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裸詣りはだかまいり
 若衆組は、矢車の神紋の垂れ幕をくぐり、拝殿に立った。男たちは晒木綿の六尺褌を前垂れ式に締め、その上に同じ晒で腹巻をしている。足は黒足袋を履き、滑り止めのためか、藁縄(わらなわ)で縛っている。

裸詣りの男たち

裸詣りの男たち 1

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  浦祭神前に立つ褌衆   北舟    

うらまつり しんぜんにたつ ふどししゅう

 一番船を表す赤と二番船の黄色の鉢巻を締めた男たちは、神前で鉢巻を解き、頭(こうべ)を垂れ、若衆組の大役を無事に果たせるよう神のご加護を祈った。

裸詣りの男たち 2

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 神に対峙(たいじ)するときは裸になるのが掟で、境内では裸厳禁という神田祭や三社祭のような江戸の文化とはまったく逆の作法である。

いざ出陣!

いざ出陣!

   

若衆組の晴れ姿

 男たちは、参拝のあと、神社から木札の御守りを拝領して首にかけ、石段で記念撮影をした。御守りには「大避神社御守」と墨守され、朱印が押されていた。

若衆組の晴れ姿

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浜に向かう男たち

浜に向かう男たち 1

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浜に向かう男たち 2

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