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 旅紀行日本の祭り

2003年12月14日改訂

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祭囃子

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2003年12月13日制作

武内宿禰(江戸天下祭・日比谷公園)

武内宿禰(江戸天下祭・日比谷公園)

江戸開府400年のシンボル事業

 徳川家康が江戸幕府を開いて丁度400年となる平成15年(2003)の11月22日(土)から24日(祝)まで、東京都千代田区江戸開府400年記念事業実行委員会主催による江戸天下祭(えどてんかまつり)が開かれ、絢爛豪華な江戸時代の祭りが再現された。
 特に11月24日(祝)は、電線が妨げとなり、明治22年(1889)を最後に行われなくなった山車(だし)や神輿(みこし)の順行が披露され、30万人の見物客が豪華な時代絵巻を見守った。 江戸天下祭公式サイト

 11月23日(日)、家内と共に22日(土)から日比谷公園で展示されている山車を見に行った。営団日比谷線・日比谷駅で下車し、北東角の有楽門から日比谷公園に入った。

日比谷ひびや

公園
 日比谷公園は面積約16万m2。元は「外桜田」と呼ばれ、長州藩毛利家等の屋敷地であった。明治4年(1871)頃、陸軍用地と定められたが、明治25年(1982)の練兵場廃止に伴い、翌年公園に指定され、明治36年(1903)に開園した。その後、日比谷図書館(1908)、野外音楽堂(1923)、公会堂(1929)が建った。
 林学者・本多静六博士の設計による日本初の洋式庭園で、クス、シイ、ケヤキ等、緑深い樹木におおわれ、今日ではオフィス街の憩いの場として親しまれている。

心字池(日比谷公園)

拡大写真(1200x730)165KB 【E-1 28mm/28-108mm  F5.6 1/125秒 ISO100】

心字池しんじいけ

 公園に入って間もなく、心字池が見えた。極めて閑静なこの池は晩秋の佇まいで、高層ビルを見なければ都心とは分からないほど、自然が残されている。

 日比谷公園ができる前は濠(ほり)だったそうで、その面影を残すために、公園造成時に池としたもので、上から見ると心の字を崩した形をしている。このような池を心字池といい、禅宗の影響を受けた鎌倉・室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法のひとつであるという。

優雅な白鷺

岩場を歩く白鷺

優雅な白鷺 岩場を歩く白鷺

拡大写真(1200x900)111KB 【E-1 488mm  F5.6 1/250秒 ISO200】

拡大写真(1200x900)149KB 【E-1 566mm  F5.0 1/250秒 ISO200】

 心字池に、一羽のシラサギがいた。超望遠レンズで、シラサギの優美な姿を切り取ってみた。図鑑によるとダイサギかチュウサギだと思われる。

シラサギ(白鷺)

 コウノトリ目サギ科の鳥の総称をサギ(鷺)といい、形はツル(鶴)に似ているがやや小さく、飛翔時に首を縮める。眼の周囲は裸出し、尾羽は短い。樹上に巣を営み、主に魚類を捕食。世界に約60種、日本には約15種が分布する。コサギ・チュウサギ・クロサギ・ゴイサギ・アオサギ・ダイサギ・ミゾゴイなど種類が多い。

 シラサギ(白鷺)は、コウノトリ目サギ科の鳥のうち、全身純白色で背に箕毛(みのげ 飾羽)がある種類の総称で、ダイサギ・チュウサギ・コサギの類をいう。なかでもコサギがいちばん多く、次いでチュウサギが多い。
 繁殖期のシラサギ類の背の箕毛は非常に優美で、かつては婦人の帽子の飾りなどにするためにたくさんの鳥が殺されたが、現在は各国ともシラサギ類を保護している。日本画に描かれているシラサギは、後頭に冠羽のあることからわかるように、ほとんどがコサギである。(出典:世界大百科事典、広辞苑など)

孤高の白鷺

孤高の白鷺

拡大写真(1200x1100)127KB 【E-1 566mm/100-400mm+EC14  F5.6 1/250秒 ISO200】

山車だし

の展示

 心字池の前を通り、公園中央に進むと、日比谷門(正門)の西方にある大噴水の東側と北側に山車8台と人形1体が展示されていた。

 市内の電線が順行の大きな妨げとなったことなどで、明治22年(1889)東京市内の山車百余台が皇居前広場に集結したのを最後に、山車の曳き回しは行われなくなり、山車は地方に買い取られて、姿を消していった。

東側に展示された山車

東側に展示された山車

 現在の神田祭では、神田明神(神田神社)に宮入りする山車は神田松枝町(かんだまつえちょう)の羽衣山車(はごろもだし)だけとなっている。 また、千代田区永田町にある日枝神社(ひえじんじゃ)の山王祭(さんのうまつり)でも3台の山車が順行するのみである。 神田祭 神田明神 日枝神社
 今回の江戸天下祭は、往時の栄華を再現しようとするもので、秋晴れに恵まれたこの日、24日の盛大な順行を翌日に控え、里帰りを果たした地方の山車や人形などが展示され、多くの見物客で賑わっていた。

天下祭てんかまつり

・・・

神田祭かんだまつり

山王祭さんのうまつり

 江戸では、神田明神と日枝神社の両方が将軍の産土神(うぶすながみ 生まれた土地の守護神であり、天下様を氏子にしているというので、この二つの神社の祭を天下祭と呼んだ。
 最初は山王祭のことを天下祭と呼んでいたが、双方の祭が華美になりすぎたため、天和元年(1681)以降、祭が交互に行われるようになると、山王祭と神田祭ともに天下祭と呼ぶようになったという。
 我らまで天下祭や山車ぐるま  其角 
 当時出版された「江戸名所図会(えどめいしょずえ)」では、「六月十五日山王祭」と題して麹町(こうじまち)一丁目の作り物の絵が描かれており、その上部に天下祭を詠んだ其角(きかく)の俳句が載っている。これが最初に文献に現れた天下祭の用例とされる。江戸城内に入れた祭りは天下祭だけであり、さぞかし盛大だったことだろう。

北側に展示された山車

北側に展示された山車

「弁慶と牛若丸」の山車

 地元千代田区の九段四丁目町会の山車は、山王祭に参加するために大正中期に制作された。初代の山車は戦時中に焼失し、昭和27年(1952)に二代目が再建され、現在、日枝神社の山王祭で順行している。

 人形は京の五條大橋で出会った「弁慶と牛若丸」。今回、江戸天下祭に参加する10台の山車のうち4台に弁慶と牛若丸が登場する。庶民の人気が高いことが伺い知れる。表情豊かで、なかなかの力作である。

弁 慶

牛若丸

弁 慶 牛若丸

拡大写真(1024x768)114KB 【E-1 566mm  F5.6 1/250秒 ISO100】

拡大写真(1200x900)135KB 【E-1 348mm  F5.0 1/250秒 ISO100】

 弁慶と染め抜いた手拭いを首にかけた女性たちがいた。同じ弁慶でも埼玉県川越市志多町(したまち)の山車の方で、翌日の順行の殿(しんがり)をつとめるという。地元・九段四町会の弁慶を見に来たようだった。

青梅市「森下町の山車人形」

 江戸時代の天下祭(神田祭)に行列番付31番として参加したもの。当時は神田三河町四丁目町会が所有していたが、明治の初めに青梅市森下町自治会が購入した。現在、青梅市・住吉神社の青梅大祭で活躍中。

 この山車は人形と山車が分かれた構造で、江戸時代を代表する江戸重層型である。人形は大和時代の伝承上の人物・武内宿禰(たけうちのすくね)。かつては山車と人形が一体だったといわれているが、現在、人形は分離され、祭りの際に展示される。

青梅市「森下町の山車人形」

拡大写真(900x1200)240KB 【E-1 28mm/28-108mm  F11.0 1/500秒 ISO200】

武内宿禰たけうちのすくね

 古来より「海神」として崇められ、航海の守り神として知られる住吉明神(住吉神社の祭神)のご加護のもと、三韓へ海を渡った時の神功皇后(じんぐうこうごう)の大臣であった武内宿禰が満珠(まんじゅ 海水につければ潮水を満ちさせる呪力があるという珠)を海に投げ入れようとする躍動感溢れる姿を巧みに表現している。江戸時代の人形師・仲秀英による傑作で、青梅市の文化財に指定されている。

武内宿禰

拡大写真(1200x900)215KB 【E-1 166mm/100-400mm+EC14  F6.3 1/400秒 ISO100】

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