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お祭りファンの取材要請により、9月9日(土)、始発電車に乗り、新幹線を利用して京都・上賀茂神社(かもがもじんじゃ)の烏相撲を激写してきた。京都駅から地下鉄で北山駅まで行き、バスの便数が少ないため、タクシーを拾って神社には午前9時半に到着。京都に日帰りで行けるのは有り難い。 |
9月9日を重陽(ちょうよう)というのは、九は陽の数で、月と日が重なるためで、午前10時から上賀茂神社本殿で斎王代(さいおうだい)や相撲童子(すもうどうじ)32名ら関係者が出席の上、菊花を献じて無病息災を祈願する重陽神事が斉行された。その後、午前11時頃から細殿(ほそどの)南庭で、相撲童子による烏相撲が奉納され、斎王代(さいおうだい)が上覧した。 |
上賀茂神社本殿の重陽神事に向かう相撲童子(すもうどうじ)たち |
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烏相撲は、平安時代から続く伝統行事で、今も昔のしきたりと寸分たがわぬ衣装を付けて執り行われる。当初は歴代の皇女が齋王(さいおう)として烏相撲を上覧した。その後、齋院制度が途絶えた後も、この神事は続けられてきたが、平成3年(1991)からは葵祭(あおいまつり)で知られる斎王代が斎王に代わって上覧するようになった。千年の古都・京都ならではの重みのある秋祭りである。 |
かつて神武天皇が熊野から大和国へ侵攻する際、深く険しい山越えに迷ったとき、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)の祖父・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が3本足の八咫烏(やたがらす)と化(な)って先導し、無事大和に入ることができた功績により、山城国(やましろのくに)の北部一帯を賜ったが、上賀茂神社が創祀(そうし)されると、この八咫烏伝説と、稲などに不作をもたらす悪霊退治の信仰行事である相撲が習合して烏相撲という神事が生まれたという。 |
重陽神事を終え神職の先導により細殿に向かう齋王代 |
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北に建つ細殿(ほそどの)中央には、第51代「斎王代」藤田菜奈子さん(24歳)が着座し、その前で田中安比呂(たなか・やすひろ)宮司が西側(細殿に向かって左)に、権宮司(ごんぐうじ)が東側(同右)に着座している。主役の相撲童子(すもうどうじ)たちは、祢宜方(ねぎかた)(細殿に向かって左)(西)と祝方(ほうりかた)(同右)(東)の二手に分かれて、細殿の南庭にある二つの立砂(たてずな)の南に横並びで土俵に対座している。 平成の齋王代 第51代「斎王代」 |
相撲童子は、例年、烏相撲保存会重陽社が氏子区域内の小学校3年生から6年生までの児童約20名を選抜するが、今年は学童が多く、2年生も含めて32名の多勢となった。6年生になるまでに数回選ばれる子もいるが、殆どは初めてだという。 |
最初、祢宜方の祢宜代(ねぎだい)と祝方の祝代(ほうりだい)の神職2名が我が方が勝つようにと地取(じとり)(呪まじない)を交互に行う。次に、相撲童子(すもうどうじ)の差符(さしふ)(名簿)を読み上げたあと斎王代に提出し、斎王代が披見する。 |
烏のしぐさで横飛びする刀祢(とね) |
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続いて東西の幄舎(あくしゃ)(テント小屋)から烏帽子(えぼし)・白張(はくちょう)姿の刀祢(とね)が現れ、烏(からす)のピョンピョン跳ねる動作を真似て、横飛び3回で「弓矢」「太刀」「扇・円座」を3回に分けて立砂(たてずな)に運び、立砂に立てかけた弓矢と太刀を前に円座に胡座(あぐら)をかき、扇を持って「カア・カア・カア」(西方)、「コウ・コウ・コウ」(東方)と三々九度烏鳴きをし、終わると、全てを持って三々九躍(さんさんくやく)して元の幄舎に戻る。この烏を真似た動作が何ともユーモラスである。 |
細殿の前にある一対の円錐形の立砂(たてずな)は、降臨山である神山(こうやま)をかたちどったもので、一種の神籬(ひもろぎ)(神が降臨する憑代(よりしろ))である。鬼門、裏鬼門に「清めの砂」を撒(ま)くのは、この立砂の信仰が起源であるという。 |
標高301mの神山(こうやま)は、本殿の北北西約2kmにあるお椀を伏せたような山で、賀茂信仰の原点となる霊峰であり、祭神が太古に降臨した神奈備(かんなび)である。山頂に降臨石があり、山は禁足地となっている。 |
褌に赤布をつけた祢宜方(西方)相撲童子の登場 |
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続いて、相撲童子のお披露目に移り、東西の行司がそれぞれの相撲童子を引率し、土俵中央から斎王代の正面に進み出てお辞儀による挨拶を行い、立砂(たてずな)を三度廻ったあと、土俵下の元の位置に戻る。相撲童子は、重陽神事を含め、白晒木綿の六尺褌一本の裸形(らぎょう)で裸足(はだし)である。褌に赤布がついている方が祢宜(西)方の童子で、ついていないのが祝(東)方の童子である。 |
小麦色に日焼けした相撲童子たち |
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童子たちは、朝方、社務所で烏相撲保存会重陽社のおじさんたちに六尺褌を前袋式に締めてもらった。水着の水褌(すいこん)と同じ締め方であるが、緩まないように幾重にも重ねたり、立褌(たてみつ)に撚り(より)を入れたりしている。マイクで神事を解説していた神職は、「ふんどし」と呼び、「まわし」や「したおび」という言葉は使わなかったので、さすがだと感心してしまった。 |
行司と共に立砂を三度廻る相撲童子たち |
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お披露目のあと、2年生から6年生まで、順に16組の取り組みが行われた。童子たちは、前日夜8時から行われた烏相撲内取式(からすずもううちとりしき)で習礼(練習)を行っており、取組(とりくみ)の番立(ばんだて)(対戦相手)が決まっている。これが終わると、3人勝ち抜くまで勝者が居残る勝抜戦が行われ、数名が勝抜を達成し、大いに盛り上がった。 |
土俵は怪我を防止するために砂が入れられており、三番取る毎に土俵の手入れとなり、砂を均等にする作業が行われた。 |
齋王代の前で烏相撲の開始 |
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細殿の前は、土俵がある広場を囲んで、コの字型にテントが張られ、招待客などが陣取り、相撲を観戦していた。外来席は用意されておらず、一般客はテントの間から立ったまま見るしかない。テントがあるために、人垣のうしろから脚立の上に立って撮影するという手法が取れず、撮影場所に苦慮した。写真上のテントの張られていないエリアは会場の出入口であり、全体を見渡すことが出来ない。多くのカメラマンがカメラを構えているが、土俵上の取り組みしか写せない。 |
相撲童子たちの真剣な立ち会い |
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多くのイベントを撮影するため、場所取りができないので、試行錯誤ののち、斎王代の鎮座する細殿が見える南側のテントの隙間の人垣のうしろから脚立にたち、万歳スタイルで液晶ディスプレーを覗きながら何とか撮影することができた。テントにより左右の視界が制限されているため、パノラマ撮影ができなかったのは残念である。 |
烏相撲を熱心に観戦する齋王代 |
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確保した位置から移動すると、撮影できなくなる可能性があるので、一点からだけの映像になったが、E-330のお陰で、テントよりも高い位置から撮影できたので、子供たちと背景の見物客とが重ならず、深みのある画像が得られたのは幸いである。 |
注目の取り組み |
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この日はとても暑い真夏日となり、燦々と輝く太陽の下で、日焼けした子供たちの熱戦が展開され、勝負のつくたびに笑い声や歓声がわきあがり、同伴の父兄や観光客などが熱心にカメラを向けていた。 |
祝方(ほうりかた)(東方)の大技決まる! |
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約1時間に及ぶ熱戦が終わった後、斎王代を中心に関係者と相撲童子たちとの記念撮影が行われた。子供たちにとっては一生で一度の晴れ舞台であり、終生忘れ得ぬ重陽の良き日となった。 |
斎王代と記念撮影 |
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熱戦を見せてくれた相撲童子たちは、最後に境内を流れる御手洗川(みたらしがわ)に入り、砂と汗で汚れた身体を洗い清めた。このあと、社務所で着替えて、お開きとなる。地元新聞社の協賛により、子供たちには参加賞として学用品が配られるほか、三番勝抜いた子にもノートなどの賞品が渡される。 |
この川は上賀茂神社の境内を流れる小川で、参詣に際して手を清めた川であったので「御手洗川」の名がある。賀茂川から流入し、楼門の南を流れて細殿付近で御物忌川(おものいがわ)と合流する。この下流の奈良社付近から「ならの小川」と呼ばれ、歌人藤原家隆(ふじわらのいえたか)が「風そよぐならの小川の夕ぐれはみそぎぞ夏のしるしなりける」と詠んだ。小倉一首の古歌で有名な「ならの小川」で、平安の昔、神職がここで禊ぎをしていた情景を詠んだもの。 |
御手洗川(このすぐ下流から「ならの小川」)で楽しい水浴 |
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写真を撮り終えたのが12時15分。ペットボトルのお茶で水分補給をしながらの取材だったが、全身汗ビッショリで、私も水あびしたかったほど。二刀流で1300枚2000MBを切り取ってきたので、これからゆっくりと編集し、秋祭りの第一作として発表したい。乞うご期待! |