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   旅紀行日本の花
2002年4月23日改訂

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2002年4月20日制作

上千本からのパノラマ(奈良・吉野山)

上千本からのパノラマ(奈良・吉野山)

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近鉄吉野駅

吉野山案内図

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 2002年(平成14年)4月6日(土)、素晴らしい晴天に恵まれたので、奈良県吉野町の修験道(しゅげんどう)の地・吉野山(よしのやま)の桜を撮影すべく、早起きし、トレッキング・シューズを履いて、三宮から天王寺までJRで行き、近鉄阿部野橋駅から快速特急で1時間半余り、10時前に吉野駅に着いた。

 シーズン最後のチャンスとばかりにやって来た花見客でごった返すなか、帰りの切符を購入し、駅前の売店で弁当とお茶を買い、車で上がれる最奥の金峰神社(きんぷじんじゃ)前までタクシーで登った。狭い道路は、すれ違いにバックしなければならず、途中から一方通行となったが、30分弱で到着した。

 歩いて往復するにはとても全てを廻れないし、バスはいつ乗れるか分からないほど混雑していたので、吉野町の15台しかないタクシーに乗れたのは奇跡に近く、4000円の料金は、時間とエネルギーを考えると、十分な値打ちがあったと思う。

 そこから後は4時間余り山を登ったり下ったりして歩き回り、ベスト・ショットを目指してひたすらシャッターを切った。

 吉野熊野国立公園にある吉野山は山岳宗教の中心地として源義経らが身を寄せ、南北朝時代には後醍醐天皇がこの地に南朝を置き、太平記の舞台となったところだ。

 吉野山の桜は、今からおよそ1300年前、修験者的な呪術者として知られる役小角(えんのおづぬ)が桜の木に蔵王権現の像を刻んだことから御神木として参詣の人々により献木が行なわれ、日本一の桜の名所となったという。

 現在吉野山には3万本の白山桜(しろやまざくら)が植えられている。この品種は、花と葉の赤芽が同時に出てくるのが特徴で、そのことを知らないと、満開でも散ってしまったと錯覚してしまうことになる。
02
吉野 大和国南部の地名。狭義には吉野川流域の吉野山など表吉野をさすが、広義には十津川・北山川流域など奥吉野も含まれる。
 日本書紀には神武紀から吉野が登場し、吉野国神(くにつかみ)吉野国栖(樔)(くず)などの伝承が著名。奈良時代には一時期吉野監がおかれ、奈良時代中期まで吉野の国は大和に対し独自の地域をなしていた。
 吉野行幸には多くの万葉歌人が同行して秀歌をとどめ、〈みよしの〉はじめ歌枕も多い。吉野の桜は歌に詠まれ、自然観照の変化とともに桜はしだいに有名となってゆく。889年には後醍醐天皇を祭神とする吉野神宮が創建された。
 一方山上ヶ岳の南方小篠から北西吉野川にいたる一連の峰を金峰山(きんぷせん)、小篠から南熊野までを大峰山(おおみねさん)(現在の山上ヶ岳)といって奈良時代以来修験の霊場となった。
 金峰山には金剛蔵王権現がまつられ、平安時代中期には寺院の形態を整えて蔵王堂以下多くの坊舎が建ち、金峯山寺(きんぷせんじ)と総称し、院政期にかけて貴紳の御嶽詣(みたけもうで)が盛行した。桜は蔵王権現の神木とされる。
 吉野の地が歴史の脚光をあびたのは、1333年(元弘3年)の元弘の乱に際し、後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよししんのう)が金峯山寺の大衆をたよって挙兵し、ついで後醍醐天皇の行宮あんぐう 天皇の宿泊のために設けられる建物がおかれ、南朝(吉野朝)の根拠地となったことである。

金峰神社 金山彦命(かなやまひこのみこと)を祭る吉野山の総地主の神で、奥深い山中にある。金峰(峯)(きんぷ)は、この辺りから大峰山(おおみねさん)へかけての総称で、古来、地下に黄金の鉱脈があると信ぜられた。
 吉野山の桜は、山の下から上に向かって、ケーブル付近の下千本(しもせんぼん)如意輪寺(にょいりんじ)付近の中千本(なかせんぼん)吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)付近の上千本(かみせんぼん)西行庵(さいぎょうあん)付近の奥千本(おくせんぼん)と順に開花していくので、見頃が長い。
 上千本などの言葉は、桜の咲いている地域を指す。今年は暖冬で開花がはやく、下千本と中千本が同時に開花し、吉野を訪れたときには、上千本が満開を迎えていた。
 山麓から吉野山駅までは、地元ではケーブルと呼ぶロープウェイが通じているので、中千本までなら誰でも手軽に登ることができる。

 金峰山

 奈良県中部吉野の金峰山(きんぷせん)は修験道発祥の山として知られ、全国に分布する金峰山やそこに祀られる蔵王権現(ざおうごんげん)はこの吉野の金峰山を模倣し勧請かんじょう 離れた土地より分霊を迎えることしたものだという。
 東京都西部の青梅市にある御岳山(みたけさん)は、別名を金峰山(きんぷせん)といい、江戸西方の蔵王信仰の山として知られるが、吉野金峰山を勧請したものである。

吉野山

 空海や聖宝(しょうぼう 平安前期の僧 天智天皇6世の孫)との関係から修験道当山派の拠点とされてきた吉野山(よしのやま)は、金峰山(きんぷせん)から北西方向に連なる約8kmの山稜部分を指す。
 金峰山修験本宗の総本山金峯山寺(きんぷせんじ)の本堂が蔵王堂で、国宝に指定されている。吉野山には源義経や南朝ゆかりの史跡や伝承地が多い。
 吉野の桜を詠む歌は古今集に始まるが、平安中期まではむしろ山岳信仰と結びついて雪の山として詠まれることが多かったという。

金峰神社

 金峰神社(きんぷじんじゃ)入り口でタクシーを降りる。これ以上の山奥には車道がない。参道を登ると小さな神社がある。鳥居の側の小屋に白装束のおばさん(巫女)が一人、お守り札を並べて座っていた。
03

西行庵

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西行庵

 挨拶をして金峰神社にお詣りをした後、更に500mほど登った山奥に、粗末な方丈の西行庵がひっそりと建っていた。庵の中には、西行の木像が置かれている。名のあるようなものではなく、誰かが奉納したものだろう。
 西行庵は、鎌倉時代の初め、西行が俗界を避けてこの地にわび住まいをしたところと伝えられている。

西 行

西行の木像

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 西行は、佐藤憲清(のりきよ)という北面の武士(皇居を守る武士)だったが、23歳の若さで出家し、月と花とをこよなく愛する放浪の歌人となった。吉野山でも多くの歌を詠んでおり、73歳で生涯を閉じるまで、2,000首を越える歌を残した。

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