皇位を左右する鎌倉幕府が否定さるべき存在となるのは当然で、1324年(正中1年)腹心の貴族、僧侶、美濃源氏等を無礼講の場に集めて練った討幕計画(正中の変)の失敗後も、後醍醐は討幕を断念しなかった。 |
1326年(嘉暦1年)皇太子邦良の死後、幕府は後伏見天皇の皇子量仁(光厳天皇)を皇太子としたので、後醍醐の地位はさらに危くなり、1330年(元徳2年)以降、後醍醐は再び討幕に向かって動き出す。 |
しかし、南都北嶺に皇子を入れ、みずから行幸して衆徒を味方につけるとともに、関所停止令を発して商工民をひきつけ、悪党を組織して討幕に驀進(ばくしん)する後醍醐に、近臣吉田定房、北畠親房は危惧を抱き、1331年(元弘1年)計画は幕府にもれ、後醍醐は笠置で挙兵したが捕らわれて隠岐に流された(元弘の乱)。 |
この失敗にもめげず、出家を拒否し元弘の元号を使いつづける後醍醐は、護良(もりよし)親王、楠木正成の軍事行動に呼応して1333年(元弘3年)隠岐を脱出、名和長年(なわながとし)に擁せられ、船上山(せんじようさん)から諸国に挙兵を呼びかけ、足利尊氏らの内応を得て、同年5月、ついに幕府を滅ぼし、建武新政(けんむしんせい)(鎌倉幕府を滅ぼしてから足利尊氏に降伏するまでの後醍醐天皇の政治)を開始した。 |
〈朕の新儀は未来の先例〉という言葉のとおり、その政治は著しく専制的で、武将・貴族たちの強い反発を招き、新政は1336年(延元1年/建武3年)10月には瓦解する。 |
しかし後醍醐はなおも吉野に南朝をひらき、北朝を奉ずる足利氏の幕府に対抗、京を回復する夢を抱きつづけたが、相次ぐ南軍の敗報のなかで1339年吉野で死んだ。後醍醐を最後として、天皇は全国的な政治の実権から離れることとなる。 |
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蔵王堂近くの金輪王(きんりんのう)寺を行宮(あんぐう)とした後醍醐天皇の御歌 |
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吉水神社(よしみずじんじゃ) |