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「きさらぎの望月」とは旧暦2月15日の満月の夜のこと。2003年は3月17日である。釈迦が沙羅双樹の下で入滅したのがこの日とされる。
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歌人・西行 |
彼の死後、1205年(元久2年)に成立した《新古今和歌集》には、94首もの歌が選ばれ、和歌史における位置は不動のものとなった。 |
同時代の歌人たちからも天成の歌人と評された西行の歌は、平淡ななかにも詩魂の息づかいを伝える律動をもち、きびしい精進を経て得られた自由放胆な語法、あこがれ躍動する心を静かに見つめる強卑な精神と余裕ある調べ、草庵の生活を背景とした清冽な枯淡の心境など、他の追随を許さない個性をもっている。 |
そのため和歌史上、西行は歌聖と仰がれる柿本人麻呂に匹敵する歌人とされるが、後世の和歌、さらに文学全体に与えた影響から考えれば、人麻呂よりもはるかに大きな位置を占めている。また王朝の優雅艶麗な美から転じて、精神的なものを求めるようになった中世の隠者文学の確立を告げる歌人として、文学史上、古代と中世を画する人物とされている。 |
西行の歌には、花と月を詠んだ歌が多く、旅と自然の詩人として、後世の文学に影響を与えた。 |
さびしさにたへたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里 |
ゆくへなく月に心のすみすみて果てはいかにかならんとすらん |
吉野山去年(こぞ)の枝折(しおり)の道かへてまだ見ぬ方の花をたずねむ |
吉野山梢(こずゑ)の花を見し日より心は身にもそはずなりにき |
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西行の歌は、約1500首を収めた《山家集》、他に《西行法師家集》《山家心中集》《別本山家集》などに収められ、晩年の自斤による《御裳濯河(みもすそがわ)歌合》《宮河歌合》などを合わせて、2000余首が伝えられている。 |
西行は若いときに公家社会から出離して、山里に閑居し、聖(ひじり)として各地を旅したために、その動静を記したものは、貴族歌人たちにとって早くから伝説化の芽をもっていた。旅の歌僧、筒世聖、西行に関する説話は《古今著聞集》《古事談》《沙石集》《源平盛衰記》などに記されておびただしい数にのぼり、《吾妻鏡》などにも採録されたが、とくに《斤集抄》は、鎌倉時代の各地の説話を旅する西行の見聞としてまとめたもので、西行の伝説化に大きな役割を果たした。 |
他方西行の伝記を書いた《西行物語》《西行物語絵巻》も、中世の人々の間で、無常である現世を捨てて、孤独な旅の生活のなか花や月にあこがれる数寄の心を和歌に託すという、人間の生き方の理想をあらわすものとして読まれ、さまざまな西行伝説の原形となった。 |
西行の伝説は、発心出家の動機と決断をめぐるもの、山居のきびしい修行にたえる行者の姿を語るもの、文覚や西住などとの交遊、崇徳院の供養に関するもの、頼朝にもらった銀の猫を門外に遊ぶ子供に与えたというような無欲潔癖な性格を伝えるもの、院の女房や江口の遊女と歌を読みかわしたというような数寄の心の持主として伝えるもの、など多方面にわたっている。 |
室町時代に入ると、西行は連歌師の理想像となり、謡曲では幽玄の極致をあらわす人物として《雨月》《江口》《西行桜》《松山天狗》の主人公となり、他の数々の曲にも登場している。また御伽草子の《西行》などによっても、その名は広く知られることになった。 |
江戸時代になって、西行を讃仰した人物として知られるのは芭蕉であり、〈わび〉〈さび〉の境地における先駆者と考えられた。西行の遊行伝説は各地に広まったが、蓑笠をつけた西行の後ろ姿に富士山を配した富士見西行の図は、文人画や浮世絵で好まれ、江口や三夕、小夜の中山などの浮世絵の画題も西行と関係のものである。 |
西行はいわば日本人の間で、寺院や宗派を超えたものとして受けいれられ、理解された日本的な仏教の祖師であり、日本人の人生観や美意識を具現化した典型として伝説化された。 |
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