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   旅紀行日本の花
2003年3月17日改訂
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2002年4月20日制作

上千本からのパノラマ(奈良・吉野山)

上千本からのパノラマ(奈良・吉野山)


さいぎょう 1118年(元永1)〜1190年(建久1)

後生の影響力において歌聖・柿本人麻呂よりもはるかに大きな位置を占めた歌人

西行人形「富士見西行」

 平安時代末、鎌倉時代初頭の歌人。魚名流藤原氏、鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)の9代目の子孫で、曾祖父の代から佐藤氏と称した。父は左衛門尉康清、母は監物源清経の娘。俗名を義清(のりきよ)(憲清、則清、範清とも)といい、出家して円位、また西行、大本房、大宝房、大法房と称した。

西行の木像

西行の木像

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 佐藤氏は代々衛府(えふ 宮城の守衛に当たる軍隊)に仕える武門の家で、故実に明るく、紀伊国那賀郡の荘園・田仲荘(たなかのそう)の預所(あずかりしょ 直轄領の管理を委託した土地)として豊かであった。外祖父の清経(きよつね)は、今様や蹴鞠の達人で、遊里にも通じた数寄者(すきしゃ 風流人のこと)として知られていた。
 西行は16歳のころ徳大寺家に仕え、18歳の年に巨額の任料を納めて左兵衛尉に任官した。また鳥羽院の北面の武士(上皇の側近に仕え、身辺の警衛や御幸に供奉(ぐぶ)した地下(じげ)の廷臣や衛府(えふ)の官人)となり、和歌にすぐれ故実に通じた人物として知られていたが、1140年(保延6年)23歳の若さで出家して人々を驚かせた。出家の理由は、種々推測されているが明らかではない。
 出家後は洛外に草庵を結んで修行につとめ、一品経(いっぽんきょう)を勧進して藤原頼長を訪ねたりしたが、1144年(天養1年)ころ陸奥、出羽に旅して歌枕を訪ね、1149年(久安5年)前後には高野山に隠筒してしばしば吉野山に入った。
 その間和歌に精進し、1151年(仁平1年)には《詞花和歌集》に1首入集、多くの歌人と交わったが、崇徳院、徳大寺実能、同公能、藤原成通らの死によって、しだいに公家社会から遠ざかった。

西行庵

西行庵

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 1168年(仁安3年)には四国へ修行の旅に出、讃岐国の崇徳院の白峰陵にもうでて院の怨霊を鎮め、さらに弘法大師の旧跡を訪ねた。その後、高野山の蓮花乗院を造営するための勧進を行い、同院の長日談義をはじめるなど、高野山の興隆のために活動した。 
 1180年(治承4年)には伊勢国に赴き、二見浦に草庵を結んで、和歌を通じて祀官の荒木田氏などと交わった。
 1186年(文治2年)、伊勢を出て東大寺再建の勧進のために再び陸奥に赴いたが、その途中鎌倉で源頼朝に会い、弓馬のことを談じ和歌についても語った。
 陸奥の旅から帰った西行は、京都の嵯峨に住み、1188年に成立した《千載和歌集》には18首が選ばれて、歌人として重んぜられるようになったが、1189年、河内国の弘川寺に居を定め、翌1190年(建久1年)の2月16日、弘川寺で73歳の生涯を閉じた。

「きさらぎの望月」とは旧暦2月15日の満月の夜のこと。2003年は3月17日である。釈迦が沙羅双樹の下で入滅したのがこの日とされる。

歌人・西行

 彼の死後、1205年(元久2年)に成立した《新古今和歌集》には、94首もの歌が選ばれ、和歌史における位置は不動のものとなった。
 同時代の歌人たちからも天成の歌人と評された西行の歌は、平淡ななかにも詩魂の息づかいを伝える律動をもち、きびしい精進を経て得られた自由放胆な語法、あこがれ躍動する心を静かに見つめる強卑な精神と余裕ある調べ、草庵の生活を背景とした清冽な枯淡の心境など、他の追随を許さない個性をもっている。
 そのため和歌史上、西行は歌聖と仰がれる柿本人麻呂に匹敵する歌人とされるが、後世の和歌、さらに文学全体に与えた影響から考えれば、人麻呂よりもはるかに大きな位置を占めている。また王朝の優雅艶麗な美から転じて、精神的なものを求めるようになった中世の隠者文学の確立を告げる歌人として、文学史上、古代と中世を画する人物とされている。
 西行の歌には、花と月を詠んだ歌が多く、旅と自然の詩人として、後世の文学に影響を与えた。
さびしさにたへたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里
ゆくへなく月に心のすみすみて果てはいかにかならんとすらん
吉野山去年(こぞ)の枝折(しおり)の道かへてまだ見ぬ方の花をたずねむ
吉野山梢(こずゑ)の花を見し日より心は身にもそはずなりにき
 西行の歌は、約1500首を収めた《山家集》、他に《西行法師家集》《山家心中集》《別本山家集》などに収められ、晩年の自斤による《御裳濯河(みもすそがわ)歌合》《宮河歌合》などを合わせて、2000余首が伝えられている。
 西行は若いときに公家社会から出離して、山里に閑居し、聖(ひじり)として各地を旅したために、その動静を記したものは、貴族歌人たちにとって早くから伝説化の芽をもっていた。旅の歌僧、筒世聖、西行に関する説話は《古今著聞集》《古事談》《沙石集》《源平盛衰記》などに記されておびただしい数にのぼり、《吾妻鏡》などにも採録されたが、とくに《斤集抄》は、鎌倉時代の各地の説話を旅する西行の見聞としてまとめたもので、西行の伝説化に大きな役割を果たした。
 他方西行の伝記を書いた《西行物語》《西行物語絵巻》も、中世の人々の間で、無常である現世を捨てて、孤独な旅の生活のなか花や月にあこがれる数寄の心を和歌に託すという、人間の生き方の理想をあらわすものとして読まれ、さまざまな西行伝説の原形となった。
 西行の伝説は、発心出家の動機と決断をめぐるもの、山居のきびしい修行にたえる行者の姿を語るもの、文覚や西住などとの交遊、崇徳院の供養に関するもの、頼朝にもらった銀の猫を門外に遊ぶ子供に与えたというような無欲潔癖な性格を伝えるもの、院の女房や江口の遊女と歌を読みかわしたというような数寄の心の持主として伝えるもの、など多方面にわたっている。
 室町時代に入ると、西行は連歌師の理想像となり、謡曲では幽玄の極致をあらわす人物として《雨月》《江口》《西行桜》《松山天狗》の主人公となり、他の数々の曲にも登場している。また御伽草子の《西行》などによっても、その名は広く知られることになった。
 江戸時代になって、西行を讃仰した人物として知られるのは芭蕉であり、〈わび〉〈さび〉の境地における先駆者と考えられた。西行の遊行伝説は各地に広まったが、蓑笠をつけた西行の後ろ姿に富士山を配した富士見西行の図は、文人画や浮世絵で好まれ、江口や三夕、小夜の中山などの浮世絵の画題も西行と関係のものである。
 西行はいわば日本人の間で、寺院や宗派を超えたものとして受けいれられ、理解された日本的な仏教の祖師であり、日本人の人生観や美意識を具現化した典型として伝説化された。


 
富士見西行

富士見西行


 
銀の猫

 雪の富士山と富士を仰ぎ見る僧形の人物。小さな庵は雪にうずもれ、あたりは音ひとつなく静まりかえっている。西行は旅の途中、東海道を歩くなか次の歌を詠んだといわれる。

風になびく富士のけぶりの空に消えて行方も知らぬわが思ひかな 

銀の猫

 鎌倉の地に西行が誘われるのは、1186年(文治2年)8月15日。八幡宮に参詣した源頼朝が、鳥居のあたりを徘徊する老僧をみつけ、名を尋ねると西行とわかった。
 神事が終わってから頼朝は館に招き、歌道の事、弓馬の事などを詳しく談じたと『吾妻鏡』は伝えている。頼朝は西行を引き留めたかったが、東大寺再建の勧進のため、藤原秀衡に会いに行く西行は、翌日ふりきるように鎌倉をあとにした。
 頼朝は銀の猫を贈ったが、西行は館の門外で遊ぶ子供にその猫を与えてしまったという。漂泊の歌人西行には、旅と歌の世界だけが捨てきれず、そこに彼の人生や歌の真髄を窺うことができる。

写真:資料画像

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