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2011年11月8日改訂

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01 バッキンガム宮殿

バッキンガム宮殿
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バッキンガム宮殿 Buckingham Palace ロンドンにあるイギリス王室の常住宮殿。元来王宮ではなく、1705年バッキンガム公シェフィールド邸として建設され、61年王室の所有となり、1825年からナッシュにより宮殿に改装され、37年完成。この年以降バッキンガム宮殿と呼ばれ、ビクトリア女王以下歴代国王の常住宮殿となる。池や芝生のある庭をもつ構成には宮殿というより邸宅的要素が残っている。1913年ウェッブ Aston Webb(1849‐1930)により現在の正面部分が作られた。

ロンドン London 
イギリス、イングランド南東部にある同国の首都。ニューヨーク、東京などと並ぶ世界最大の都市の一つで、国際的な政治、経済、文化の中心地である。かつての大英帝国、現在のイギリス連邦の中心でもあり、近代においてはしばしば国際会議、国際条約締結の舞台となった。地名はケルト語で〈荒れた〉を意味するロンド londo に由来し、ローマ時代にはロンディニウム Londinium またはロンディニオン Londinion と呼ばれた。

 日本では〈倫敦〉と表記することもある。行政上の市域にあたるグレーター・ロンドンの面積は1579km
2、人口は700万7000(1995)で、その中心のシティ・オブ・ロンドン(略称シティ)のほか、1888年設定のカウンティ・オブ・ロンドンの範囲を指すインナー・ロンドン(13区)、旧ミドルセックス州全部およびハーフォードシャー、エセックス、ケント、サリー各州の一部から形成されたアウター・ロンドン(19区)の合計32のバラ borough(区)から構成される。

02 ダイアナ王女に捧ぐ

ダイアナ王女に捧ぐ
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 1997年9月17日、バッキンガム宮殿は、花束の山また山だった。ローマの地下道でアパラッチとのトラブルにあい、運転手のミスにより彼女の車がトンネル内でクラッシュし、壮絶な死を遂げた日からまだ数日しかたっていなかった。ロンドン市民は哀悼の意を表するため、バッキンガム宮殿を取り囲むように花束を献花。あとでしおれた花束を除去する作業が大変だと聞いた。私も家内とともに、プリンセス・ダイアナのご冥福を祈った。

アルテミス
 Artemis ギリシア神話の狩猟の女神、また月の女神。ローマ神話のディアナ Diana(英語読みでダイアナ)にあたる。ゼウスとティタン神族のレトの娘で、アポロンの双生の妹。オルテュギア(〈ウズラの里〉の意)と呼ばれていた浮島(のちのデロス島)で、非常な難産の末に生まれた。このためアルテミスは、やがてオリュンポスの十二神の列に加えられたものの、独身を通す許しを父神から得、彼女にならって純潔をまもることを誓わせた一群のニンフたちとともに、もっぱら山野に狩りをして時を過ごした。

 しかしニンフのひとりカリスト Kallist
は、ゼウスに愛されて一子アルカス Arkas を生んだので、女神(またはゼウスの后のヘラ)の怒りにふれて熊に姿を変えられ、のちこの母子は大熊、小熊の星座となった。また高名な猟師アクタイオンAktain は、狩りの最中、水浴中の女神の裸身を目にしたため鹿に変じられ、みずからの犬どもに八つ裂きにされたという。もともとギリシア先住民族の豊穣(ほうじよう)の女神であったと考えられるアルテミスは、産褥(さんじよく)の守護神、人間と野獣に多産をもたらす女神としてもあがめられた。と同時に、女たちに遠矢を射かけて突然の死をもたらす女神でもあり、タンタロスの娘ニオベがレトには2人の子しかないとあざけったときには、アルテミスは母親の名誉のために、アポロンと協力してニオベの6男6女を射殺したという。

 彼女はまた〈青年の養育者〉として共通の職能をもつ女神ヘカテと、さらにはアポロンが太陽神と同一視されるようになったのにともない、月の女神セレネSel
n と、しばしば混同ないし同一視された。崇拝の中心地はアッティカ地方のブラウロンと小アジアのエフェソスで、ブラウロンのアルテミス神殿には、アガメムノンの娘イフィゲネイアがクリミア半島のタウリスから持ち帰ったと伝える神像がまつられていた。一方、エフェソスには古代の七不思議に数えられる大神殿があり、数多くの乳房をもつアルテミス像がその本尊であった。
03
国会議事堂<

国会議事堂
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イギリス国会議事堂 Houses of Parliament ロンドンのテムズ河畔にあるビクトリア朝最初の大規模建築で、ゴシック・リバイバルの代表作。16世紀以来国会の議場に用いられてきたウェストミンスター宮殿が1834年焼失したので、〈ゴシックまたはエリザベス朝様式〉という条件で設計を公募して建設されたもの。当時は〈ウェストミンスター新宮殿〉と呼ばれた。

 設計者はバリー。細部の設計はピュージンによる。40年起工、60年までに主要部分が完成。屋根の小屋組みは鉄骨造、空調設備も設けられた近代的建築であった。時計塔(高さ約100m)内の大時鐘(直径2.8m、重さが13.5t)は、大男の工事責任者ホール BenjaminHall の愛称をとって〈ビッグ・ベン Big Ben〉と名付けられた。議事堂は第2次大戦で破壊されたが、この議場こそ議会精神の体現であるという首相W. チャーチルの演説によって、旧状どおりに復元された。

議会政治
 イギリスにおいて制限選挙制のもとでは、もっぱら〈教養と財産〉をもつものが議員となり、深刻な党派利害が争われることは少なかった。また、1832年の第1次選挙法改正に始まる一連の改革によって、事実上、男子普通選挙制が実現されてゆくが、普通選挙制のもとでも、議会には、根本的な世界観の対立はもちこまれず、政党の組織化もそれほどには進んでいなかったから、自由な討論による議会意思の形成という建前から大きくはずれるような状況とはならなかった。

 こうして、19世紀中葉以降のイギリス下院をモデルとしてえがかれる、議会政治の典型像が成立する。与野党議員が向かいあい、それぞれのリーダーが最前列にいて討論の応酬をするという議場配置は、討論による統治への信頼を具体化するイメージとして、(向かいあった議席の中間に引かれた線が、かつては、剣をぬいて争っても刃先がとどかないだけの距離を示すものだったという言い伝えとともに)世に有名である。

 議長 Speaker の権威が高く、その地位にある議員に対しては、反対党の側でも対立候補を立てないという慣行があったことも、よく知られている。もっとも、イギリスでも、1880年代に、アイルランド問題が紛糾し、アイルランド国民党に属する議員たちのはげしい議事妨害が行われ、それに対抗するものとして、討論終結制が採用され、少数意見の表明に対する一定の制限が導入される、という事情があった。
04 テムズ川

テムズ川
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テムズ川 River Thames イギリス、イングランド南部を東流するイギリス最大の河川。カエサルの《ガリア戦記》ではサンスクリットのタマサー(〈暗黒の川〉の意)と同語源のタメシス川と記されている。

 またオックスフォードより上流はしばしばアイシス川と呼ばれる。総延長338km、流域面積約1万3600
ku。イングランド南西部のグロスターシャーにあるコツウォルド丘陵東麓のテムズ・ヘッドに源を発し、上流部は沖積粘土層の広い盆地を形成して曲流、その後ゴーリングの横谷ではケスタ崖をなすチルターン丘陵とバークシャー丘陵を分断するが、中・下流ではロンドン盆地中央部を貫流し、河口は巨大ならっぱ状のエスチュアリー(三角江)をなしてノアと呼ばれる砂州から北海へ流入する。主要な支流としてはオックスフォードで合流するチャーウェル川のほか、ドーチェスターでのテーム川、レディングでのケネット川、ロンドンのブラックウォールでのリー川があり、また流域には上記の都市のほか、ウィンザー、グレーブゼンド、サウスエンド・オン・シーなどの都市が発達している。

 上・中流は森林や肥沃な混合農業地帯で散村が卓越するが、ロンドンより下流は工業地帯を形成し、沿岸には造船所やドック、機械・食品工場などがたち並ぶ。河川こう配が緩やかなため、古くから河川交通が盛んで、上流のレッチレードまでははしけが、川幅約45mのオックスフォードまでは小型船が、さらに川幅約230mのロンドンまでは外洋船が
航できる。

 また運河によってセバーン、ブリストル・エーボン、トレントの各河川と結合されている。テムズ川の水は各種用水として重要なだけではなく、漁業や観光にも利用され、とくにオックスフォード大学とケンブリッジ大学のボート・レースは年中行事として有名である。ロンドン西郊のテディントンまで感潮し、ロンドン橋での干満差は約7mに達する。
05 ロセッタ・ストーン

ロゼッタ・ストーン
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大英博物館 British Museum ロンドンにある世界最大級の博物館。ブリティッシュ・ミュージアム。世界で最初の公共博物館で、1759年に開館された。エジプト、ギリシア、ローマ、西アジア、東洋の古代美術、ヨーロッパの中世美術、その他コイン、メダル、版画、素描、写本などを収蔵する。

 王立学士院の院長を務めた医学者スローン Hans Sloane(1660‐1753)が自分の大コレクション(歴史的遺品類6万5352点、手写本4100点、印刷本1000万点)を、彼自身が見積もった1000分の1の価格(2万ポンド)で国家に遺贈したことに端を発し、これに、《リンディスファーンの書》、マグナ・カルタなどを含んだ R. コットンの蔵書、第1、2代のオックスフォード伯の蔵書が加えられ、これらを収蔵、公開するために現在地にあったモンタギュー・ハウス Montagu House が購入された。以後収蔵品は増加の一途をたどり、19世紀初めにはアレクサンドリア条約の結果、ナポレオンの兵士が発見したロゼッタ・ストーンをはじめ多くのエジプト彫刻がネルソンによって、パルテノンからの彫刻群(エルギン・マーブルズ)がエルギンによって、それぞれもたらされた。

 また1830‐40年代には各地で盛んな発掘が行われた結果、クニドスのデメテル像、アッシリアの浮彫など、すでにこのころまでに今日この博物館の要をなしている作品が運びこまれている。チューダー朝にさかのぼる王家の蔵書を寄贈したジョージ2世にならい、1823年ジョージ4世が3世のコレクションとともにその蔵書を寄贈したのを機に改築工事が開始された。R. スマークが設計に携わり、47年、今日見られるような新古典様式のファサード(彫刻はウェストマコット R. Westmacott による)をもつ建物が完成した。

 ルイ・ナポレオン、ガリバルディ、マルクス、南方熊楠などが訪れたことで有名な円形の図書館閲覧室は、ロバートの弟シドニーSydney Smirke の設計で、57年に完成している。その後84年、1914年、38年に増築が行われ、現在に近い形となった。収蔵品の拡大と収蔵能力の低下から、自然史部門と、人類学部門は市内の独立した建物に各々1881年、1970年に移っている。また創立以来併設していた図書館は1973年、大英図書館(ブリティッシュ・ライブラリー)BritishLibrary として独立し、別組織になった。同図書館は約1000万点の印刷本と約15万点の写本を収蔵、新しい建物がセント・パンクラス駅のそばに建造中である。

ロゼッタ・ストーン
Rosetta Stone 古代エジプトの象形文字の解読に重要な手がかりとなった玄武岩製石碑。ナポレオンのエジプト遠征のおり、1799年8月、ナイルの一河口の町ロゼッタ(アラビア語ではラシード)の近くで発見されたのでこの名がある。現在大英博物館所蔵。上段、中段、下段にヒエログリフ(聖刻文字)、デモティック(民衆文字。ヒエログリフの略書体)、ギリシア文字で同一の内容の文(プトレマイオス5世をたたえる神官団の布告)が刻まれている。

 ギリシア語文は、発見後ただちに解読された。二つのエジプト語文に関しては、ヒエログリフの部分が破損が著しかったのと、デモティックの名が親しみを感じさせたので、学者たちはまずデモティックの解読に挑戦したが成功せず、結局ヒエログリフ部分のカルトゥーシュ(王名枠)内のプトレマイオスという表記の分析と他の碑銘との比較研究によって、フランスのシャンポリオンがヒエログリフの最初の解読者となった。
06 ロンドン塔
ロンドン塔
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ロンドン塔 Tower of London イングランド王ウィリアム1世が1078年、ロンドンの支配と防衛のため、テムズ川の北岸、ローマ時代の市壁の内側に築いたホワイト・タワーに起源する城塞。全域は18エーカー(約7ha)。その後リチャード1世、ヘンリー3世などにより内郭といくつかの塔が、エドワード1世により外郭と濠が築かれ、近代初頭にも多少の手が加えられて、13の塔と不規則な六角形の二重の城壁をもつ今日のロンドン塔となった。

 中世以来近代初めまでしばしば王宮となり、また長く国事犯の牢獄としても使用され、ロンドン城代と国王護衛兵により守られた。本来の入口はテムズ川に面して水をひいた〈トレーターズ・ゲート(反逆者の門)〉で、ここから小舟で運ばれた囚人は、二度と再び生きて出ることがないと恐れられた。

 ここで処刑または監禁された囚人はトマス・モア(1535処刑)、ヘンリー8世王妃アン・ブーリン(1536処刑)、後の女王エリザベス1世(1554、投獄2ヵ月で釈放)、ウォーター・ローリー(1592、1603‐16投獄、1618処刑)ら多数を数え、彼らにまつわる物語はロンドン塔の歴史に陰惨な影をおとしている。今日は〈ビーフイーターBeefeater〉と俗称されるチューダー時代の服装をした護衛兵の管理のもとで、王室の宝物の保管所として、また武器・甲冑の展示場として、一般に公開されている。
07 タワーブリッジ
タワーブリッジ
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船舶の通行(リフト)
船舶の通行(リフト)

タワーブリッジ Tower Bridge ロンドンではもともとロンドン橋がテムズ川に架かる唯一の橋だった。ロンドンが発展するにつれ、多くの橋が架けられたが、ロンドン橋の東のエリアが港として発展したため、新しい橋は全てロンドン橋の西に架けられた。19世紀に入り、ロンドンの東方、イーストエンドの人口が増加したため、ロンドン橋の東にも橋を架けて欲しいという住民の要望が強くなり、1876年、テムズ川を管理する the Corporation of London が建設を決定した。

 the Corporation of Londonは、デザインを公募、50余りの応募作品の中から選ばれたデザインに建築家が修正して決定。8年間の工期の後、1894年にタワーブリッジが完成した。タワーブリッジは、船が通るときには、橋桁が中央から二つに割れ、両端を軸に最大86度の角度まで揚がる(リフト)。

 建造当初から当直者が24時間勤務し、船からのシグナルでいつでも無料でリフトする仕組みになっている。現在でもこのシステムは変わらないが、通行予定船舶は、24時間前までに連絡することが必要。現在、年間500回のリフトがある。bridge lift information line (24hours) 0171-378-7700 に電話すれば、何時でも向こう7日間のリフト予定が分かる。


 1910年、橋桁が揚がっても通行できるようにと橋の上部に歩道 the high-level walkways が造られた。しかし、使用頻度が低く、閉鎖されてしまった。多くの人々は、橋桁が揚がるのを見物するのを好んだからだった。
  

ロンドン橋 ロンドンばし London Bridge ロンドンにある著名な橋。市内でテムズ川をまたぐ多くの橋のうち、タワー橋(タワーブリッジ)に次いで最も下流にある。いまではロンドン市の東端のように思えるが、かつてはこの橋の北詰めあたりが中心であった。

 歴史は古く、ロンドンがローマ人の手で造られた1世紀、すでに橋の存在を示唆する文献があるが、位置はもう少し東であったようである。その後もテムズ川の北と南を結ぶ橋は長い間一つだけで、そのお陰でロンドンが交通の枢要地点として栄えた。木(1209年以後は石)の橋脚を狭い間隔で多く建て、その上には道路だけではなく家や店もあり、しばしば落ちたことは《ロンドン橋が落ちる》という有名な童謡が示すとおりである。

 1755年の法令で橋上の家は取り除かれ道路専用となり、交通量の増加により部分的改修が加えられたが、1831年に五つのアーチがある橋脚間隔の広い2代目石橋が完成、テムズ川の航行が便利かつ安全になった。このころには上流方面にいくつかの橋(とくに1819年開通したすぐ隣のサザーク橋は当時の最新技術を使った鉄製)が架けられたが、いずれも有料だったため、無料のロンドン橋がいつも混雑した。

 1904年幅を広げる工事をしたが焼け石に水で、73年に新しい橋が架けられ現在に至る。1968年に解体された古い石橋はアメリカの業者が買い取り、アリゾナ州レーク・ハバスー・シティで復元し記念物として現在なお保存されている。

08 オックスフォード

オックスフォード
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オックスフォード Oxford イギリス、イングランド中部、オックスフォードシャーの州都で大学都市。地名は〈牛の渡渉点〉の意。人口13万2000(1993)。石灰岩の丘陵に囲まれた盆地にあり、テムズ川上流部(アイシス川)とチャーウェル川の間の段丘上に位置する。イギリスの学術の中心であると同時に、商業や出版・印刷、自動車、鉄鋼などの工業も発達する。

 テムズ川上流域の交易中心地として、912年に初めて《アングロ・サクソン年代記》に登場するが、その後しばしばデーン人の侵入を受けた。町の本格的な発展はオックスフォード大学の最初の学寮が設置された1249年以降であり、商工業機能が衰退する一方で、大学都市としての整備が進んだ。イギリス革命中は王党派の拠点ともなったが、20世紀に入ってから郊外に学寮・工業地区が形成されて人口が急増した。

 市内には大学の学寮のほか、11世紀のセント・ミカエル教会、ボドレーアン図書館(1602)、C. レン設計のシェルドニアン劇場(1669)、さらに芸術・考古学の収集品が多いアシュモリアン美術館(1683)など、大学と関係した歴史的建築物が多い。
09 ストラトフォード・アポン・エイボン

ストラトフォード・アポン・
エイボン
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ストラトフォード Stratford イギリス、ロンドンの北西160km、ウォリックシャーの田園に囲まれた田舎町。正式にはストラトフォード・オン・エーボン Stratford‐on‐Avon。人口約2万1000(1981)。シェークスピアの生地として名高い。

 エーボン川に面した古い市場町として中世以来の歴史をもつが、近年は観光地として発展してきている。旧市内および近郊には1564年にシェークスピアの生まれた家(現在は博物館)や晩年の彼が1616年に世を去るまで余生を送った邸宅ニュープレースの跡(現在は公園)をはじめ、文豪ゆかりの教会、学校、民家などが残されており、教区教会ホーリー・トリニティの内陣には彼の墓がある。

 河畔にあるローヤル・シェークスピア劇場(1961年以前はシェークスピア記念劇場と呼ばれた)は1879年に建てられたものが焼失したのち1932年に再建されたものである。この劇場はローヤル・シェークスピア劇団の本拠として常時文豪の作品を上演し、また毎年ここでシェークスピア・フェスティバルが開かれ、イギリスの演劇活動の一つのメッカとなっている。

 1964年に文豪の生誕400年を記念してその生家の隣に、研究と教育のための施設としてシェークスピア・センターが創立された。なお、アメリカ合衆国コネティカット州、カナダのオンタリオ州にもストラトフォードという町があり、それぞれシェークスピア劇のフェスティバルが催される。
10 ストラトフォード・アポン・エイボン

ストラトフォード・アポン・
エイボン
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 百科事典には「正式にはストラトフォード・オン・エーボン Stratford‐on‐Avon」と記載されているが、現在、現地では「ストラトフォード・アポン・エイボン Stratford‐upon‐Avon。」と呼ばれている。百科事典の解説を書いた人は、現地には行っていないらしい。

シェークスピア 1564‐1616 William Shakespeare イギリスの詩人、劇作家。 シェークスピアはストラトフォード・オン・エーボンの富裕な皮革商の長男(第3子)として生まれ、町のグラマー・スクールに学んだのち、青年時代の大半をそこで過ごした。1582年に8歳年上のアン・ハサウェーと結婚して翌年1女をもうけ、さらに2年後には男と女の双生児が生まれた。やがて故郷を去ってロンドンに出、演劇人の生活に入った。

11 グリニッジ

グリニッジ
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グリニジ Greenwich イギリス、イングランド南東部、大ロンドン都市圏の東部にある区。人口21万5000(1993)。地名は〈緑の港〉の意。テムズ川南岸に位置するロンドンの住宅・観光地区。1965年にグリニジ村とウリジ村が合併して成立。1884年に経度の基準点に採用された。

 ローマ時代にはドーバーからロンドンへ通じるウォトリング街道の要地であり、また中世にはデーン人の艦隊集結地ともなった。1423年にグロスター公ハンフリーがこの地の荘園を購入し、のちグリニジ公園として整備された。

 公園内には、チューダー朝時代に王宮にも利用された国立海事博物館や1675年創設の天文台、1873年に海軍病院を改装した王立海軍大学などがあり、河岸には帆船カティーサーク号が保存されている。天文台は1958年にサセックス州ハーストモンシューに移転を完了したが、本初子午線(通称グリニジ子午線)の標柱や標準時時計は残っている。
12 カティサーク

カティーサーク
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カティーサーク Cutty Sark 19世紀のイギリスの快速クリッパー。3本マストのシップ型帆船で、1869年クライド川沿いのダンバートンで建造された。登録された総トン数は963トン、全長85m、幅11m。帆の枚数は34枚でその総面積3047u。当時の快速クリッパー、サーモピレー Thermopylae に対抗できるティークリッパーを目ざして建造されたもので、船尾には船主の心意気を示すかのように〈精神一到何事か成らざらん〉という意味の言葉が記されている。

 しかし当時は汽船が帆船にとってかわる時代であり、結局、中国茶をロンドンへ運んだのは8航海のみで、その後はオーストラリアから羊毛を運ぶウールクリッパーとして使用された。95年以後は国籍が変わったが、1922年篤志家により再びイギリス人の手に戻り、38年テムズ航海学校へ寄贈された。その後53年にはカティーサーク保存協会へ寄贈され、現在はグリニジの乾ドック内で博物館として公開されている。なお、船名は R. バーンズの詩《シャンターのタム》の中に出てくる魔女が着ていた短い下着の名からとったものである。

クリッパー
 clipper 貨物積載能力よりも速力に重きをおいてつくられた快速帆船。〈クリッパー〉には元来、速く動く人(物)の意味がある。18世紀ころまでの帆船は、特殊な軍艦や海賊船を除いてさほど速力を必要としなかった。アメリカ植民地に対するイギリス本国政府の圧政に対抗して独立の気運が高まるとともに、植民地人による密輸船が急増した。

 政府監視船に捕まらないような快速船であることが密輸船としての条件だったが、ボルティモアのオランダ系移民がヨットを模してつくった帆船の性能が特に優れていたので、これをボルティモア・クリッパーと呼んだのがクリッパーという名称の起りである。本格的な航洋クリッパーは1833年にボルティモアで建造されたアン・マッキム Ann McKim が最初だという。48年に始まるゴールドラッシュで、東部からの採掘者を南アメリカのホーン岬回りで運んだのがカリフォルニア・クリッパーである。
13 グリニッジ天文台

グリニジ天文台
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グリニジ天文台  1675年チャールズ2世は、当時のイギリスが世界を制するために不可欠であった航海術の発展を重視し、船位確認の基礎になる恒星位置の精密な決定を主要研究テーマとして、ロンドン郊外にグリニジ天文台を建設した。

 初代台長の J. フラムスティードに次いで2代台長をつとめた E. ハリーは、1705年ハリーすい星が周期すい星であることを見つけ、また18年にはシリウス、アークトゥルスなどの位置と T. ブラーエの観測値との差が、恒星の固有運動によるものであることをつきとめた。3代台長 J. ブラッドリーも、光行差や章動の発見者として著名である。

 グリニジ天文台の子午環を通る子午線が経度の基準になっていることからも、ここが位置天文学の大本山であったことがうかがえる。しかし19世紀半ばからは、太陽観測をはじめとする物理的観測も行われるようになった。

 1950年ころからは、ロンドンの南のサセックス州ハーストモンソー城に順次施設を移動し、グリニジは海事博物館として残されている。最近はグリニジ天文台が中心になって、アフリカ沖にあるスペイン領カナリア諸島中のラ・パルマ島にイギリスの光学天文台を建設中で、63年ハーストモンソー城内にいったん据え付けられた2.5mの反射望遠鏡は、83年ここへ移設された。さらに完成後ここに置かれる4.2mの大望遠鏡が現在建造中である。
14 グリニッジ天文台

本初子午線
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グリニジ時 Greenwich time グリニジ平均時 Greenwich mean time が正式名称で、略号は GMT。現在は本初子午線(通称グリニジ子午線)に関する平均太陽時、つまり世界時の同義語として慣用されている。1972年以来新しく協定世界時が実用化され、現在世界の標準時はこの協定世界時を基にしている。

 協定世界時は原理的には世界時と異質のものではあるが、その時刻は世界時に近似するよう運用されている。そこで日常使用のように秒の精度を要しない場合には、これを世界時、またはグリニジ時と呼んでもよいことになっている。

 しかし1925年以前には、グリニジ時は正午を0時として数え始める方式の天文学用の平均太陽時の名称であった。これに対し真夜中を0時として数え始める方式が日常生活に用いられ、これはグリニジ常用時(GCT)と呼ばれた。その後、グリニジ時の内容は入れかわり現在に至っている。

 グリニジ時の名称は運輸、通信、日常生活などで、世界時の代りに、いまなお根強く使われているが、国際天文学連合ではその歴史的な用法からくる混乱を考慮して、早急に別の適当な名称に改めるよう勧告している。


本初子午線 prime meridian
 
旧グリニジ天文台の大子午儀の中心を通る子午線をとくに本初子午線と呼んでいる。本初子午線はここから各子午線までの角度、つまり経度を測る基準子午線であって、経度はこの子午線から東に向かって東経0 から180 に至り、西に向かって西経0 から180 に至る。
15 ウィンザー城

ウィンザー城
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ウィンザー城 Windsor Castle イギリス、バークシャーのウィンザーにある王室の居城。ロンドンの北西約30km、テムズ川沿いの断崖上に建つ。ウィリアム征服王が建設して以来、重要な宮廷として使用された。ヘンリー2世時代に木造から石造になり、ここで出生したエドワード3世の時代からほぼ今日の城の姿をとりはじめた。城内には、中心にそびえるラウンド・タワーをはじめ著名な建築物が多い。

 セント・ジョージ・チャペルは15世紀後半から16世紀前半にかけてガーター騎士団のために建てたもので、イギリス・ゴシック建築の代表例のひとつである。アルバート記念チャペルはヘンリー7世が墓地として建てたものであるが、のちにビクトリア女王はこのチャペルを夫君アルバート(1861没)のための記念館に変えた。

ウィンザー
 Windsor カナダのオンタリオ州にある同国最南端の都市。人口19万1435(1991)。デトロイト川を挟んで対する合衆国のデトロイトとは、橋、河底トンネルで結ばれ、デトロイトへの通勤者も多い。デトロイトの強い影響をうけ、カナダ有数の自動車産業都市として発展した。18世紀初頭にフランス系カナダ人が定住し、第2次英米戦争の際には主戦場となった。ウィンザー大学がある。
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O
P
衛兵交代(ウィンザー城)

衛兵交代(ウィンザー城)
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ウィンザー家 現イギリス王室の名称で、1917年以来用いられるようになった。ハノーファー Hannover 家の直系。1714年アン女王の死去に伴い、王位継承法(1701)に基づき新教徒であったドイツのハノーファー選帝侯が、ジョージ1世としてイギリス王位に迎えられ、スチュアート朝に替わってハノーバー朝が始まる。

 しかし1837年ビクトリア女王が即位すると、女子相続を認めないドイツのハノーファー家との同君統治の関係は消滅し、女王の死後の1901年、エドワード7世は、父アルバートの出身によりサックス・コーバーグ・ゴータ Saxe‐Coburg‐Gotha 家と改称した。

 その後、第1次世界大戦中ジョージ5世(在位1910‐36)は、国民感情を考慮し、敵国であるドイツ風のこの呼称を廃し、王宮所在地にちなみウィンザー Windsor 家と改めた。それ以後、エドワード8世(在位1936)、ジョージ6世(在位1936‐52)を経て、現女王エリザベス2世(在位1952‐ )に至っている。
16 イートン

イートン
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イートン校 Eton College イギリスの有名私立中等学校であるパブリック・スクールの一つ。ロンドンの西方35km、テムズ川をはさんでウィンザー城に面する。国王ヘンリー6世が教会と国家に奉仕する青年の教育機関として1440年に創設したもので、ウィンチェスター校に次いで古い。以後オックスフォード、ケンブリッジ両大学に多くの卒業生を送り込み、この国の指導者を多数輩出させ、今日にいたっている。男子校で、学生の制服とされている燕尾服でも有名である。

  イギリス人の国民性の一つに、古い物を大切にするということがある。ロンドン西方35kmにあるウィンザー城のそばに、オックスフォードやケンブリッジに多数の学生が進学するイートン校 ETON College がある。ここの制服が燕尾服で、それが世界(日本)の礼服になったことで特に有名だが、そのイートンのキャンパスに足を踏み入れたとたん、校舎は廃屋かと思うほどの古い建物だった。

 通路やドアもボロボロだ。落書きのあとも沢山ある。それでも中はリフォームされていて、人が住んでいる。イギリスには台風も地震もないから、建物は何百年ももつ。だからイギリス人は、古い建物を新築ではなくリフォームしながら使い続けているだ。昔から伝わる伝統や古い物を大切にする心、アンティーク好きは、生まれながらの環境の中で親子代々培われてきたものだったのだ。イートンを見てイギリス人のメンタリティを少しだけ理解できたような気がした。
 
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