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畑が残る西ノ京
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古い土塀
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西ノ京(にしのきょう) 奈良県奈良市西部、往古の平城京右京、すなわち平城京を東西に二分する朱雀大路の西側の地域一帯をいう。秋篠川に沿い、薬師寺、唐招提寺、喜光寺、西大寺などがある。 |
西方の西ノ京丘陵は、京都盆地西部から奈良盆地西部に南北につらなる丘陵で、五条山では江戸時代以来の赤膚(あかはだ)焼の陶器製作が行われている。西ノ京付近は古くより土器や瓦の生産地であり、興福寺大乗院に属した火鉢造座などがあり、近世、奈良風炉(ふろ
茶の湯で釜の湯を沸かすための火鉢状の道具)の産地として知られた。 |
古都の面影を残すこの地域には、近鉄西大寺駅、西ノ京駅を中心に多くの観光客が訪れる。また近鉄奈良線によって大阪市への交通至便の地であり、住宅地区として発展、東部の奈良旧市街地とは好対照をなす。
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2001年(平成13年)12月1日(土)、穏やかな小春日和に、古都・奈良の西ノ京を訪ねた。
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JR三宮駅から新快速で大阪駅まで行き、環状線外回りで15分ほどで鶴橋駅に着く。近鉄奈良線に乗り換え、快速急行で約30分の西大寺駅で下車。近鉄橿原(かしはら)線普通に乗り換え約5分で二つ目の西ノ京駅に着く。トータル約1時間半の旅だった。
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西ノ京
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名前の通り、平城京の西部に開けた西ノ京。ここには薬師寺と唐招提寺という二つの世界遺産があり、国内だけでなく海外からの観光客にも人気が高い。静寂な都の郊外、のどかな田園風景が残っている。大和路を巡る多くの散策コースがあり、古都奈良本来の魅力が堪能できるところだ。
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土塀の民家
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近鉄・西ノ京駅を降りると、直ぐ駅前(東)に南北に走る細い道路がある。風雪に晒されて崩れかけた土塀が長い歴史をものがたる。
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土塀のある細い道路を渡ると薬師寺に至る。この道路を左折して北に10分ほど歩けば唐招提寺に着く。
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薬師寺
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奈良市西ノ京町にある法相宗(ほっそうしゅう)の大本山。南都七大寺・十五大寺の一つ。680年(天武9年)、天武天皇(てんむてんのう 第40代の天皇。在位673‐686年。白鳳時代に律令国家の形成を推進)が菟野皇后(うののひめみこ)(のちの持統(じとう)天皇)の病全快を祈って建立を発願し、18年後に飛鳥の地・藤原京において七堂伽藍の完成を見た。
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慈恩大師画像 (国宝)
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慈恩大師 (じおんたいし)
632‐682 中国、唐代初期の僧。名は窺基(きき)。長安の人、そ
の先祖は中央アジアの出。玄奘について、成唯識論(じょうゆいしきろん)の翻訳に参加、これを大成させ、事実上の法相宗(ほっそうしゅう)の開山となる。高宗の勅によって、長安の大慈恩寺に住した。
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出家のはじめ、師の玄奘に誓って、女色と飲酒を断たぬことを条件とし、その出遊には、生涯酒と女と経典をのせる三車を連ねたことから、三車法師の名を得たという。
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写真 〈資料〉をクリックすると拡大します。
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横長の中門
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当時は東大寺や興福寺・元興寺などとともに南都七大寺の一つで官寺であった。その大伽藍は我が国随一の荘美を誇り、中でも裳階(もこし 庇の外側に建物を囲むように造られた一段低い屋根)を施した金堂や塔のたたずまいの美しさは「龍宮造り」と呼ばれて、人々の目を奪った。
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710年(和銅3年)の平城遷都に伴い、718年(養老2年)、平城右京六条二坊(現在の場所)に移転。旧地(現・奈良県橿原市かしはらし)を本(もと)薬師寺という。移転後の伽藍地は東西3町、南北4町にわたり、中門と奥の講堂を結ぶ回廊の中に東西両塔と金堂を配置する様式は、薬師寺式配置伽藍と呼ばれる。
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その後数度の災害や1528年(享禄元年)の兵火により、当時の建造物は東塔を残して壊滅した。
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全国の人々を対象にした般若心経(はんにゃしんぎょう)の写経勧進により、金堂は1976年(昭和51年)に、西塔は1981年(昭和56年)に復元。実に453年ぶりに東西の両塔が新旧の対比を見せながら西ノ京の空にそびえることになった。
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その後も中門や回廊の一部が復元され、法相宗の始祖玄奘三蔵を祀る玄奘三蔵院伽藍も落慶した。現在2002年の落慶を目指し、大講堂の復興工事が行われている。
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法相宗
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「西遊記」で三蔵法師として親しまれている玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は、インドで16年間勉強して多くの経典を持ち帰り、中国に帰国後、教義の面は慈恩大師(じおんたいし)に譲り、経論の翻訳(漢文)に献身した。後にこの師弟は、法相宗(ほっそうしゅう)の根本教典となる成唯識論(じょうゆいしきろん)という書物を完成させる。法相宗は、慈恩大師がまとめた唯識(ゆいしき)という教えをもとに開かれた。
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カラフルな薬師寺
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新しく再建された建物は、緑と朱の彩りも鮮やかで、「あをによし・・・」と詠われた天平の昔が偲ばれる。
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中門の仁王像も鮮やかな衣装に身を包んでいる。こんなにごてごてと色を重ねた仁王像を見たのは初めてだ。私は、風雪に耐えてきた枯淡の伽藍や仏像の方が趣があって好きなのだが・・・。
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この歌は、筑紫にいた小野老(おののおゆ)が望京の念をこめて都の栄華を歌ったもので、「あをに」とは青丹(青黒い土)のことで、「あをによし」は奈良にかかる枕詞。奈良は青丹(あおに)という顔料を産出する。丹青(たんせい)という場合は、丹(明るいオレンジ色)と青(緑)を指す。奈良の都の絶頂期を象徴する歌として知られる。
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小野老は、大伴旅人(おおとものたびと)・山上憶良(やまのうえのおくら)らとともにいわゆる筑紫歌壇の一員として万葉史上の新風をつくり出した歌人である。
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