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金堂(国宝)
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薬師三尊像(国宝)
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月光菩薩
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薬師如来
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日光菩薩
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金堂(国宝)
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薬師寺の中心となる金堂は、1976年(昭和51年)に復元された。火災から守るため、仏像の周りの柱だけは鉄筋コンクリート製である。しかし、講話をしてくれたお坊さんによると、はや痛んできているという。指摘を受けて良く見ると、表面がひび割れ、剥離している箇所が見受けられた。
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当時、僧侶や宮大工の棟梁は木材の方が長持ちをすると主張したが、学識経験者や行政側が受け入れず、現在の工法となったという。その後山陽新幹線でセメント剥離が報告されるに及び、鉄筋コンクリートの神話が崩れてしまった。今では天然の素材である木材を全ての箇所に採用すべきであったと悔やんでいるらしい。
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日本最古の木造建築である法隆寺の五重塔が何故地震にも耐え、現在に至るまで持ちこたえてきたのかを考えれば、日本の木造建築の優秀性は誰の目にも明らかである。その反面、木造建築の最大の弱点は、火災に極めて弱いことである。 |
鉄筋か木造かと問われれば、私は躊躇なく木造と答えたい。歴史的建造物の復元である以上、オリジナルに忠実であるべきだと思うからだ。 |
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薬師三尊像(国宝)
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金堂では1300年も昔につくられた金銅仏の国宝・薬師三尊像(中央に薬師如来・向かって右に日光菩薩、左に月光(がっこう)菩薩)が祀られている。建造当初は金箔で覆われていたそうだが、現在はそのままの素材が生かされたブロンズ像となっている。我が国仏教美術の白鳳時代の最高傑作ともいわれている。
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人には生・老・病・死という4つの苦しみがあり、死は阿弥陀如来が救ってくれ、病については薬師如来が救ってくれる。
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仏の世界には、如来と菩薩がいる。目的に到達し、悟りを開いた中央の如来と、悟りをまだ開いていない両脇の菩薩との違いは、着ている衣裳を見れば分かるという。
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薬師如来の薄い衣一枚を纏った姿は、釈迦が出家したときの姿を写したもの。菩薩の姿がきらびやかであるのは、人間の外見や姿・形にこだわる気持ちがまだ残っている左証だという。
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薬師如来は、東方浄瑠璃(じょうるり)浄土(阿弥陀如来の西方極楽浄土に対する東方の仏国土)の教主で、一名を医王如来ともいわれる。
脇侍の日光・月光菩薩はこころもち腰をひねった動きのある美しい姿が印象的である。
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薬師如来台座(国宝)
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金堂と燈籠
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本尊台座には異邦人と思われる人物の姿がいくつも精巧に浮彫りされ、さまざまな異国の文化を集約した感があり、天平文化の国際性を示す貴重な遺品である。
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吉祥天女(国宝)
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吉祥天女(きちじょうてんにょ)は、正月元旦から15日まで、金堂にて国の安泰、世界平和、五穀豊穣を祈願する修正会(しゅしょうえ)の本尊として祀られる。
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光明(こうみょう)皇后の姿を写したと伝えられ、独立した画像としては、日本最古の麻布に描かれた色彩画として有名である。天平時代の貴婦人の姿そのままの天女は、高貴で美しい。
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顔のまわりの円光、左掌の如意宝珠は、吉祥天(きっしょうてん/きちじょうてん 美、幸運、富の女神)の徳を示しており、幸福、学芸、技芸の願いをかなえてくれる。 |
この不思議な神力は、インド、中国を通じて深い信仰を集めている。 |
秘仏特別開扉 1月1日〜1月15日(金堂)、10月8日〜11月10日(大宝蔵殿)。年により春に開扉の場合がある。 |
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薬師寺伽藍
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般若心経(はんにゃしんぎょう) 仏教の基本聖典で、大乗仏典の一つ。詳しくは「摩訶般若波羅蜜多心経」という。サンスクリット原典のほか、チベット語訳と7種の漢訳が現存する。一般に唐の玄奘(げんじよう)の訳する276字の漢訳が知られる。
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内容は、表題のとおり、広大な般若経典の心髄をきわめて簡潔にまとめたもので、観自在菩醍(観音)が般若波羅蜜多(はんにゃはらみた 完全なる智慧)の行を修めて五蘊(ごうん)(存在の五つの構成要素)が空(無実体)であると悟ったことから説き起こし、いっさいの存在が空であることを説き、最後に真言(しんごん
密教において、もろもろの仏・菩醍や諸天に呼びかけて祈請したり儀式に効力を賦与するために唱える呪文)を説いている。
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特に物質的存在は無実体であり、無実体なるものが物質的存在であるという意味の〈色即是空しきそくぜっくう、空即是色くうそくぜっしき〉という文句はよく知られる。
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般若心経は中国と日本を通じて、各派で日課経として誦(よ)まれたため、玄奘門下の慈恩をはじめ、空海の注釈など、多くの注釈が書かれて、その数約300、近代の講義も200種を下らず、今も盛んに作られつつある。
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般若心経は写経もさかんで、日本では、奈良時代から今日まで多くの人々によって行われてきた。
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薬師寺の再興
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薬師寺は、1528年(享禄元年)の兵火により、東塔を除く諸堂が灰燼に帰した。薬師寺の本尊を祀る金堂の復興は、橋本凝胤住職時代からの寺の宿願であった。
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高田好胤 1967年(昭和42年)、高田好胤(たかだこういん)が管主(住職)就任と同時に、白鳳期の代表的建築物である金堂の復興を提唱した。般若心経(はんにゃしんぎょう)を巻紙に写す「百万巻(ひゃくまんがん)写経」を発願し、新しい宗教運動としてブームを巻き起こした。
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この金堂復興計画が世間の注目をあびたのは、昭和時代の世界最大の木造建造物であることと、一般大衆を相手に百万巻の写経を勧進し、管主自らが全国を行脚したことである。この試みは見事に成功し、金堂は1976年(昭和51年)に復興した。 |
その後も西塔や回廊の一部などが次々と復元した。2002年には講堂が完成する。写経は現在でも続いており、鉛筆を使ってもよく、誰でもできるようになっている。奉納した写経は、全て金堂に永久保存される。
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高田好胤管主は、1998年(平成10年)6月、74歳で遷化(せんげ
高僧の死去)され、奈良市西ノ京町の同寺慈恩院で本山葬が営まれた。故人と親交の深かった人ら約4,000人が参列し、故人の遺徳を偲んだ。檀家を持たない薬師寺では、浄土真宗の僧侶により葬儀が執り行われたという。
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西岡常一 薬師寺の伽藍再興を大きく支えたもう一人の人物は、宮大工の西岡常一(にしおかつねかず)である。法隆寺近くの宮大工の家に生まれた西岡は、1934年から始まった法隆寺の「昭和の大修理」で、世界最古の木造建築の金堂や五重塔の解体修理を手がけた。
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金堂の解体では、学者の間で玉虫厨子のような錣葺き(しころぶき)だとされていた屋根が入り母屋造りであることを発見し、定説をくつがえした。
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1971年(昭和46年)、奈良・薬師寺復興の大工棟梁となり、5年後に金堂を復興。続いて西塔、中門、玄奘三蔵院などを完成させ、回廊や講堂の復興にも尽力した。
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西岡常一は、1992年(平成4年)、宮大工としては初めての文化功労者に選ばれた。1995年(平成7年)4月、86歳で他界。飛鳥時代の古代工法で大伽藍を造営することができる「最後の宮大工棟梁」といわれた。
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