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隠元隆g禅師(1592〜1673) |
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隠元禅師は、中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となった高僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持(じゅうじ 仏法を保ち広める人)であった。 |
日本からの度重なる招請に応じて、1654年(承応3年)、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝。 |
のちに禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇(ごみずのおてんのう 第108代の天皇。 |
在位1611‐29年。)、徳川四代将軍家綱の崇敬を受け、1660年(万治3年)、幕府より後水尾天皇の生母・中和門院の宇治別邸であった宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、1661年(寛文元年)禅寺を創建。古黄檗に模し、黄檗山(おうばくさん)萬福寺(まんぷくじ)(新黄檗)と名付けた。 |
禅師の道風は大いに隆盛を極め、多くの帰依者を得た。禅師は「弘戒法儀」を著し、「黄檗清規」を刊行して叢林(そうりん 禅の修行道場)の規則を一変するなど、停滞していた日本の禅宗の隆興に偉大な功績を残し、日本禅宗中興の祖師といえる。 |
また、禅師の請来した文物は、美術、医術、建築、音楽、史学、文学、印刷、煎茶、普茶料理など広汎にわたり、宗教界だけにとどまらず、広く江戸時代の文化全般に影響を及ぼした。隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹・木魚なども禅師の請来によるものだという。 |
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三 門 |
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萬福寺(まんぷくじ)は、中国の僧隠元(いんげん)隆g禅師が江戸時代の初期1661年(寛文元年)に開山した日本三禅宗(臨済・曹洞・黄檗)のひとつ黄檗宗(おうばくしゅう)の大本山である。本尊は釈迦如来坐像。 |
伽藍(がらん)配置は明朝様式で、竜の姿を表しているといわれる。卍崩しの勾欄など中国禅寺の特徴を持った異国情緒漂う寺である。 |
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萬福寺の建造物は、中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置で、山門から天王殿・大雄宝殿(だいおうほうでん)・法堂(はっとう)などが回廊で結ばれている。寺内ば中国に足を運んだような異国情緒漂う雰囲気がある。
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創建当初の姿そのままを今日に伝える寺院は、日本では他に例がなく、代表的な禅宗伽藍建築群として、主要建物23棟、回廊などが国の重要文化財に指定されている。
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総 門
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JR黄檗駅から東に歩いて5分のところに総門がある。1693年(元禄6年)の再建で、中央の屋根を高くし、左右を一段低くした中国門の牌楼(ぱいろう)式を用い、漢門とも呼ばれる。
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三 門
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総門を潜ると三門に至る。三門は1678年(延宝6年)の建立。重層の楼門作りで、左右に裳階(もこし)、山廊があり、大棟中央に火付宝珠がある。正面 の額「黄檗山」、「萬福寺」は隠元書。背面の額「旃檀林」は千呆(せんがい)書。
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ここを入れば脱俗の清浄域で、「葷酒山門に入るを許さず」の大きな碑が目を引く。円柱を用いた建物は、三門のほか天王殿など僅かである。
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天王殿
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天王殿
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三門を潜ると1668年(寛文8年)に建立された天王殿に至る。寺の玄関にあたる天王殿は、中国では一般 的な建て方で、四天王と弥勒菩薩(布袋)と韋駄天を祀っている。
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弥勒菩薩(布袋)坐像
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中国の仏師・范道生(はんどうせい)作
寛文3年(1663)造立。木造、像高110.3cm。
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大雄宝殿 |
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天王殿正面に大きなお腹の布袋(ほてい)が鎮座している。布袋は弥勒菩薩の化身といわれ、本山では弥勒仏とされている。布袋は名を契此(かいし)といい、南北朝末の後梁の高僧で、定応大師と号する実在の人物である。
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大雄宝殿 |
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1668年(寛文8年)に建立された大雄宝殿(だいおうほうでん)は、萬福寺の本堂であり、最大の伽藍である。日本では唯一最大のチーク材を使った歴史的建造物として貴重なものである。 |
本尊は釈如来坐像。両脇侍は葉、阿難の二尊者。両端に十八羅漢像が安置されている。大棟中央に火付、二重の宝珠。正面入口は魔除けとされる桃の実の彫刻を施した「桃戸」、左右に円窓。上層の額「大雄寶殿」は隠元書。下層の額「萬徳尊」は木庵書。本堂内部須弥壇の上の額「真空」は明治天皇の御宸筆。 |
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松が植えられた境内 |
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十八羅漢像 |
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釈梼が涅槃のとき、正法を付嘱され、この世にとどまって正法を護持することを命じられたという羅漢は、サンスクリットのアルハット arhat の主格アルハン arhan の音訳〈阿羅漢〉の略称だという。十八羅漢は、十六羅漢に新しい尊者が2人加わったものだ。
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羅漢信仰は、中国では宋以後、日本では平安時代以降盛んとなり、十六、十八、五百羅漢などのおびただしい作品が描かれ、現存遺品も数多い。
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萬福寺の十八羅漢像は、表情豊かで親しみ深い。布袋像、十八羅漢像などの仏像は、写実的で迫真性に富んだ面相を特徴とする中国の仏師・范道生の作品として有名である。
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巡照板と匂欄
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黄檗山の一日は、朝の巡照板(じゅんしょうばん)によって始まり、夜の巡照板によって終わる。ここで修行する雲水(修行僧)が正覚をめざして精進を誓い、自覚を促すために巡照板を打ち鳴らして各寮舎を回る。山内には禅堂を始め5ヵ所の巡照板が設置されており、長い回廊を巡るため巡廊板とも呼ばれる。
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法堂正面の勾欄(こうらん 欄干)は、卍及び卍くずしの文様になっている。日本のお寺ではあまり見かけないものだ。
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これらは既に奈良時代の法隆寺などの南都寺院に使われているが、江戸時代初期に改めて黄檗を通じてもたらされたものだという。
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法 堂
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法 堂
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大雄宝殿の奥に662年(寛文2年)に建立された法堂(はっとう)がある。法堂は、禅寺における重要伽藍のひとつで、説法を行う場所。内部には須弥壇(しゅみだん)のみが置かれている。須弥壇上の額「法堂」は隠元の書であり、黄檗山では唯一の楷書による大書である。外の額「獅子吼」は費隠書。
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元祖・木魚
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僧が食事をする斎堂の前に大きな魚の形をした開(かいぱん)が下がっている。時を報ずるものとして今でも使用されている。開は魚(ぎょほう)ともいい、木魚の原型となったものだという。
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絶好の行楽日に、丸1日宇治の寺社を探訪した。宇治には1日ではとても廻りきれないほど素晴らしい文化遺産が残されていた。
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JR黄檗駅の立派な書
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期待通りの世界遺産や国宝・重要文化財に対面し、リッチな気分に浸った1日だった。快い疲労感と共にJR黄檗駅(おうばくえき)の電車に乗り込み、帰途についた。(完)
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