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▲▼ 熊本城天守閣は、茶臼山の最高所、標高50mの天守台に築かれ、大小2つの天守からなる。大天守は外観3層内部6階地下1階で、石垣の上に張り出した大根太(おおねだ)の上に建物が乗り、どっしりした印象を与えている。 |
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四面に優雅に反った千鳥破風(ちどりはふ)を配し、最上階の南北には唐破風(からはふ)を据えている。内部は戦闘に備えた部屋割りとなっており、明治初年に天守に登ったジェーンズは「巨大な中世の武器庫である」と書き残している。 |
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あきたかし おやこてんしゅの いようかな |
Autumnal high sky, dignified appearance of the castle tower parent and child. |
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▲ 細川氏の居城となった後もほとんど改変はなく、明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南の役(西南戦争)で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物が焼失した。 |
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大坂から海路熊本に向かう加藤清正
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▲▼ 加藤清正(かとう・きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名で、肥後熊本藩初代藩主である。豊臣秀吉の家臣として仕え、各地を転戦し、武功を挙げて肥後北部を与えられた。 |
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秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後熊本藩主となった。賤ヶ岳七本槍(しずかだけしちほんやり)の一人。主君秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くしたことで知られる。 |
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加藤清正公の肖像画
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▲ 清正は、城下町や道路網を整備し、新田開発、潅漑用水の整備により治水を図り、治世を安定させた。土木建設に力を注ぎ、領内基盤整備の礎を築いた清正公(せいしょこ)さんの人気は、今日の熊本においても非常に高い。明治43年(1910)に従三位を追贈された。 |
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加藤家2代忠広は、寛永9年(1632)駿河大納言事件に連座したとされる罪で改易され、出羽国(でわのくに)庄内(しょうない)に配流(はいる)され、加藤家は断絶した。 |
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代わって同年、豊前国(ぶぜんのくに)小倉藩より、細川忠利(ほそかわ・ただとし)が54万石で入封し、以後廃藩置県まで細川家が藩主として存続した。国人の一揆が多く、難治の国といわれていた熊本入封に際しては、人気のあった加藤清正の治世を尊重し、清正公位牌を行列の先頭に掲げて入国し、加藤家家臣や肥後国人を多く召抱えたという。 |
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細川忠利は、細川忠興(ただおき)の三男で、母は明智光秀の娘・細川ガラシャ(玉子)。幼名は光千代。はじめ長岡姓を称したが、慶長5年(1600)徳川家康の命で細川へ復姓した。幼少時は病弱だったためガラシャがキリスト教の洗礼を受けさせたともいわれている。 |
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▲▼ 国指定重要文化財の「細川家波奈之丸舟屋形(なみなしまる・ふなやかた)」は、細川家の歴代藩主が参勤交代の際、豊後国鶴崎(現大分県大分市)や豊前国小倉(現福岡県北九州市)から大阪(現大阪市)まで、のちには播磨国室津(現兵庫県相生市)まで乗船した御座船「波奈之丸」の御座所部分で、明治4年(1871)の廃船後、この部分だけが繋留地の鶴崎に保存されていた。 |
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波奈之丸は、細川忠興が豊前中津で建造したのが始まりで、天保5年(1834)焼失し、細川斉護(なりもり)が同10年(1839)に再建した。舟屋形は、昭和37年(1962)に解体修理後、熊本市本丸の熊本城に移設され、翌年3月に補修が完成し、以来、展示資料として活用されてきた。 |
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国の重要文化財に指定された |
波奈之丸船屋形 |
(実物) |
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