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和田義男

 旅紀行ジャパン

2011年12月2日改訂

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♪メドレー「おてもやん〜五木の子守歌〜田原坂」

 

秋色の富士を拝むや水前寺   北舟

 

Suizenji garden, watching the Mt. Fuji of autumn color.

東海道五十三次を模した美しい庭園
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東海道五十三次を模した美しい庭園/水前寺成趣園(熊本県熊本市)

秋の熊本城探訪

水前寺
熊本城正面玄関に当たる

頬当御門ほほあてごもん

熊本城正面玄関に当たる頬当御門

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  ▲▼ 頬当御門(ほほあてごもん)は、天守閣へ向かう正面入口である。この門は城を顔に見立てたとき、ちょうど顔の前に当てる甲冑(かっちゅう)の頬当てに見えることから、頬当御門と呼ばれるようになったといわれている。頬当御門には鎧(よろい)を着て槍を持つ門衛(もんえい)二人が配備されている。  
頬当御門に立つ

門衛もんえい

頬当御門に立つ兵士

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                    <熊本城歴史年表>
 
1496年(明応5年)鹿子木親員、茶臼山西南麓(現在の古城)に築城
1550年(天文19年)大友宗麟が城主を鹿子木氏から城親冬にかえる 
1587年(天正15年)豊臣秀吉が佐々成政を肥後の領主とする
1588年(天正16年)加藤清正、隈本城に入城
1601年(慶長6年)茶臼山に築城着手
1607年(慶長12年)新城完成、隈本城を熊本城に改称
1611年(慶長16年)清正死去、加藤忠広が相続
1632年(寛永9年)細川忠利肥後54万石領主として熊本城入城
1871年(明治4年)廃藩置県により肥後藩が熊本県となる鎮西鎮台を熊本城内に設置
1877年(明治10年)西南戦争、熊本城炎上
1927年(昭和2年)宇土櫓解体修理、長塀改築
1933年(昭和8年)熊本城全域を史跡に、建造物を国宝に指定
1950年(昭和25年)国宝建造物が重要文化財に指定(文化財保護法改正)
1955年(昭和30年)史跡熊本城跡が特別史跡に指定
1960年(昭和35年)熊本城天守閣が復元落成
1989年(平成元年)数寄屋丸二階御広間復元
1991年(平成3年)9月の台風19号で甚大な被害を受けたため、天守閣を大改修
1993年(平成5年)旧細川刑部邸を東子飼町から三の丸に移築復元
2002年(平成14年)南大手門復元
2003年(平成15年)戌亥櫓、未申櫓、元太鼓櫓復元
2005年(平成17年)飯田丸五階櫓復元
2008年(平成20年)本丸御殿大広間復元
熊本城復元予想図

熊本城復元予想図

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  ▼ 西大手門は間口22m、奥行き8mの豪壮な楼門である。熊本城は西・南・北の3つの大手門を持ち、その中で最も格式の高い門とされる。
立派な

西大手門にしおおてもん

立派な西大手門

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  寛永9年(1632)に加藤家に代わって肥後に入国した細川忠利(ほそかわ・ただとし)は、この門の前で衣冠束帯(いかんそくたい)のまま駕籠(かご)を降り敷居を押しいただくようにして「謹んで肥後54万石を拝領仕ります」と深々と頭をたれたと伝えられ、そのとき頭にかぶった冠の先が敷居の中央に当たったので、その後、登城する藩士は門の真中を通らず、端を通るようになったといわれている。
天守閣西側の巨大な堀

二の丸広場

戌亥(いぬい)櫓

 

天守閣西側の巨大な堀

パノラマ写真(2000X900)491KB

  ▲▼ 西出丸の西側に巨大な堀が残されており、一部に水が張られている。熊本城マップには備前堀以外、名前が記されていないので、何と呼んでいいのか分からなかった。堀の西側には広大な二の丸広場があり、市民の憩いの場所として利用されている。
二の丸広場から臨む熊本城

戌亥(いぬい)櫓

宇土櫓

天守閣

西大手門

南大手門

二の丸広場から臨む熊本城

パノラマ写真(2000X900)265KB

  ▲▼ 二の丸公園には、修学旅行の学生たちが大勢来ていた。ここから熊本城のパノラマとズームアップを撮影し、約2時間に及んだ撮影を終え、タクシーで水前寺公園に向かった。
二の丸広場から見た宇土櫓と大天守(西面)

二の丸広場から見た宇土櫓と大天守(西面)

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水前寺成趣園すいぜんじじょうじゅえん

▼ 水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん)は、熊本市水前寺公園(町名)にある大名庭園。面積約73,000m2。通称は水前寺公園。豊富な阿蘇伏流水が湧出して作った池を中心にした桃山式回遊庭園で築山や浮石芝生、松などの植木で東海道五十三次の景勝を模したといわれる。

水前寺成趣園すいぜんじじょうじゅえん

の入口

水前寺成趣園の入口

  ▲▼ 熊本藩の初代藩主細川忠利が寛永13年(1636)頃から築いた「水前寺御茶屋」が始まり。細川綱利のときに泉水・築山などが作られ、現在見るような形となった。陶淵明(とう・えんめい)の詩「帰去来辞(ききょらいのじ)」の一節「園日渉以成趣」(庭園は毎日散歩するが、いつもそのたびに風趣がある)からとって「成趣園」と名付けられた。
桃山様式の回遊式庭園

桃山様式の回遊式庭園

パノラマ写真(2300X900)487KB

  ▼ 明治に至り官有となったが、中心となる御茶屋「酔月亭」は明治10年(1877)の西南戦争で焼失し、泉水・築山なども荒廃した。これを憂慮した有志が払い下げを要望し、明治11年(1878)に細川藩主を祀る出水神社(いずみじんじゃ)が園内に創建され、庭園は出水神社の社地として払い下げられた。
庭園は出水神社の神苑

庭園は出水神社の神苑

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  昭和4年1929)に「水前寺成趣園」として、国の名勝と史跡に指定された。市のメインストリートである県道沿いにあり、市電の「水前寺公園」電停、JRでは水前寺駅が最寄り。最盛期には年間約180万人もの観光客が訪れていたが、近年は減少を続け、40万人弱になっているという。
阿蘇の伏流水に錦鯉が遊弋

阿蘇の伏流水に錦鯉が遊弋

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  秋色の富士を拝むや水前寺  北舟 

しゅうしょくの ふじをおがむや すいぜんじ

Suizenji garden, watching the Mt. Fuji of autumn color.

東海道五十三次を模した美しい庭園

東海道五十三次を模した美しい庭園

拡大写真(1350X1630)458KB

   水前寺といえば、熊本市出身の女性歌手で女優の水前寺清子(本名:林田民子)を思い出す。熊本市立碩台(せきだい)小学校・洗足学園中学校・高等学校卒業。愛称「チータ」はデビュー前からのもので、「もしデビュー出来ても、いつまでもちいさな頃のミちゃんの心を忘れずに」に由来している。チーターのように足が速いからというのは間違い。芸名の「水前寺」は故郷・熊本市の水前寺成趣園から、「清子」は故郷・熊本の武将加藤清正から取ったという。
 「NHK紅白歌合戦」には1965年(16回)から1986年(37回)まで22回連続出場した。その内紅組の司会を4回務めている。紅白歌合戦か全盛を極めていた時代の象徴的な歌手である。
水前寺商店街

水前寺商店街

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和田義男

 
撮影


 
2009年10月29日
 

OLYMPUS E-30  
 
9-18mm 12-60mm

1230万画素 490枚 1010MB


 

 「世界の名城」と銘打ったシリーズを続けているが、なかなか内容が充実していない。そこで、思い切って日本三名城に数えられる熊本城単独の撮影旅行に出掛けた。
 期待通り、広大な敷地に、天守閣が幾つも聳え、往年の壮大な古城が現代に蘇っていたのには驚いた。再建されたばかりの本丸御殿も絢爛豪華だった。
 2007年に熊本城築城400年という節目があり、盛大な祭典が催された。これからも復元作業が続けられるということなので、目が離せない。 〈 完 〉  2009.11.28  和田義男

旅紀行ジャパン第126集 「秋の阿蘇路」

撮影・制作 : 和田義男

  平成21年(2009)11月28日 作品:第34作  画像:(大55+小5) 頁数:4  ファイル数:126 ファイル容量:34.6MB
 
平成12年(2000)〜平成21年(2009) 作品数:343 頁数:1,294 ファイル数:53,742 ファイル容量:7,475MB
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