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あきたかし ろうじょうせんに かちししろ |
Autumnal high sky, the castle of the besieged won the battle. |
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▼ 谷干城(たに・たてき)(天保8年2月12日(1837年3月18日) - 明治44年(1911年)5月13日)は、幕末から明治にかけて活躍した土佐藩士、軍人、政治家で、明治10年(1877)の西南戦争の際には52日にわたって西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献した。 |
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熊本城を死守した熊本鎮台司令長官 |
谷干城 |
の写真 |
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敗れた西郷隆盛は、終焉の地・城山で、「わしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」と独白したという伝説が残されており、熊本城は、不落の名城として、後世に名を残した。 |
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▼ 谷村計介(たにむらけいすけ)は、西南戦争で籠城中に鎮台司令官谷干城(たに・たてき)の命を受けて城を抜け出し、何度も敵に捕まりながらも包囲網を突破して官軍本隊に籠城軍の窮状を伝えた宮崎県出身の陸軍伍長で、後に自ら進んで田原坂(たばるざか)戦に加わり戦死した。 |
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この話は戦前の修身の教科書に載り、広く国民に親しまれた。戦前は今の行幸橋(みゆきばし)際に銅像があったが、大戦中に金属供出で撤去された。大天守に入って直ぐのところに立つ現在の銅像は、それを惜しんだ熊本ライオンズクラブが平成10年(1998)に熊本市に寄贈したもの。 |
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▼ 天守閣から西方を眺めると、頬当御門(ほほあてごもん)と宇土櫓(うとやぐら)の向こうに西出丸(にしでまる)が見える。西出丸は、本丸の西側、北・西・南を石垣で囲んでできた要塞で、清正は、西出丸だけで100日間の防衛が出来ると誇ったほどで、重要な防衛拠点だったという。 |
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▼ 宇土櫓(うとやぐら)は、本丸の西北隅、20mの高石垣の上に建つ3層5階地下1階、地上約19mの櫓で、天守並みの構造と大きさを誇る。熊本城には天守とは別に、この規模の五階櫓(ごかいやぐら)が明治初年まで5棟(築城当時は6棟)あったという。 |
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▲▼ 宇土櫓の名前の由来は、宇土(うと)の小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原で滅んだ後、小西の家臣の一部を清正が召し抱え、宇土小路(うとこうじ)として現在に名前を残す京町(きょうまち)に住まわせ、櫓をこの一団に管理させたことから、こう呼ばれたのではないかといわれている。 |
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▼ 五郎の首掛石(くびかけいし)は、熊本城築城の折、横手(よこて)の五郎という怪力無双の若者が花岡山(はなおかやま)から首にかけて運んできた石と伝えられ、重さは1800kgある。五郎は天草国人一揆(あまくさこくじんいっき)の際に加藤清正と一騎打ちの末に殺された木山弾正(きやまだんじょう)の遺児で、清正を父の仇と狙い、城内に人夫として入り込んでいたが、見破られて殺されたと伝えられている。 |
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