ホームページお知らせお便りコーナー徒然日記俳句・海の風景ホームページ奮闘記作者のプロフィールリンク
 

和田義男

 旅紀行ジャパン

2011年12月2日改訂

今 日

昨 日

♪田原坂メドレー

 

秋高し籠城戦に勝ちし城   北舟

 

Autumnal high sky, the castle of the besieged won the battle.

鹿児島の賊軍熊本城激戦図
拡大写真(1200X600)337KB

鹿児島の賊軍熊本城激戦図/熊本城(熊本県熊本市)

秋の熊本城探訪

宇土櫓
  ▼ 明治10年(1877)の西南戦争に際しては薩軍を相手に50日余も籠城し難攻不落の城として真価を発揮した。しかし、薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火により天守閣など主要な建物が焼失した。
 現在の天守閣は、昭和35年(1960)に、総工費1億8,000万円をかけて、鉄筋コンクリートで外観復元されたもの。復元にあたっては多くの市民が協力し、中でも松崎吉次郎(まつざききちじろう)翁からは5,000万円という巨額の寄付がなされた。
 天守閣内部は熊本博物館分館となっており、1階は加藤家時代、2階は細川家時代、3階は西南戦争関連の資料が展示されている。また最上階は展望所となっており、熊本市内はもとより、天気がよい日には遠く阿蘇(あそ)の山並みを見ることができる。
熊本城の骨格模型

熊本城の骨格模型

拡大写真(2000X1400)453KB

▼ 西南戦争は、明治10年1877)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。西南の役(せいなんのえき)、丁丑(ひのとうし)の乱、十年戦争(鹿児島弁では「じねんのゆっさ」)、私学校戦争とも呼ばれ、明治初期に発生した最大規模の士族反乱で、日本最後の内戦となった。西郷隆盛の戦死により、幕末維新期が終わり、明治政府の基盤が確立した。
鹿児島暴徒出陣図/月岡芳年画

鹿児島暴徒出陣図/月岡芳年画

拡大写真(1200X600)311KB

  高し籠城戦に勝ちし城  北舟 

あきたかし ろうじょうせんに かちししろ

Autumnal high sky, the castle of the besieged won the battle.

鹿児島の賊軍熊本城激戦図

鹿児島の賊軍熊本城激戦図

拡大写真(1200X600)337KB

  ▼ 谷干城(たに・たてき)(天保8年2月12日(1837年3月18日) - 明治44年(1911年)5月13日)は、幕末から明治にかけて活躍した土佐藩士、軍人、政治家で、明治10年(1877)の西南戦争の際には52日にわたって西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献した。
熊本城を死守した熊本鎮台司令長官

谷干城たにたてき

の写真

熊本城を死守した熊本鎮台司令長官谷干城の写真

   敗れた西郷隆盛は終焉の地・城山で「わしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」と独白したという伝説が残されており、熊本城は、不落の名城として、後世に名を残した。
西南戦争に使われた砲弾

西南戦争に使われた砲弾

拡大写真(1400X900)158KB

  谷村計介(たにむらけいすけ)西南戦争で籠城中に鎮台司令官谷干城(たに・たてき)の命を受けて城を抜け出し何度も敵に捕まりながらも包囲網を突破して官軍本隊に籠城軍の窮状を伝えた宮崎県出身の陸軍伍長で、後に自ら進んで田原坂(たばるざか)戦に加わり戦死した。
 この話は戦前の修身の教科書に載り、広く国民に親しまれた。戦前は今の行幸橋(みゆきばし)際に銅像があったが、大戦中に金属供出で撤去された。大天守に入って直ぐのところに立つ現在の銅像は、それを惜しんだ熊本ライオンズクラブが平成10年(1998)に熊本市に寄贈したもの。
熊本城を救った

谷村計介たにむらけいすけ

の銅像

熊本城を救った谷村計介の銅像

  ▼ 天守閣から西方を眺めると、頬当御門(ほほあてごもん)と宇土櫓(うとやぐら)の向こうに西出丸(にしでまる)が見える。西出丸は、本丸の西側、北・西・南を石垣で囲んでできた要塞で、清正は、西出丸だけで100日間の防衛が出来ると誇ったほどで、重要な防衛拠点だったという。
天守閣から西方を臨む
マウスカーソルで画面のどこかをポイントすると説明が現れます。

天守閣から西方を臨む

拡大写真(2000X1500)635KB

  ▼ 宇土櫓(うとやぐら)は、本丸の西北隅、20mの高石垣の上に建つ3層5階地下1階、地上約19mの櫓で、天守並みの構造と大きさを誇る。熊本城には天守とは別に、この規模の五階櫓(ごかいやぐら)が明治初年まで5棟(築城当時は6棟)あったという。
天守閣西方に建つ

宇土櫓うとやぐら

天守閣西方に建つ宇土櫓

拡大写真(1800X1350)716KB

  ▲▼ 宇土櫓の名前の由来は、宇土(うと)の小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原で滅んだ後、小西の家臣の一部を清正が召し抱え宇土小路(うとこうじ)として現在に名前を残す京町(きょうまち)に住まわせ櫓をこの一団に管理させたことから、こう呼ばれたのではないかといわれている
天守閣から見た宇土櫓

天守閣から見た宇土櫓

拡大写真(1800X1350)694KB

  ▼ 五郎の首掛石(くびかけいし)は、熊本城築城の折、横手(よこて)の五郎という怪力無双の若者が花岡山(はなおかやま)から首にかけて運んできた石と伝えられ、重さは1800kgある。五郎は天草国人一揆(あまくさこくじんいっき)の際に加藤清正と一騎打ちの末に殺された木山弾正(きやまだんじょう)の遺児で、清正を父の仇と狙い、城内に人夫として入り込んでいたが、見破られて殺されたと伝えられている。  
五郎の

首掛石くびかけいし

五郎の首掛石

  ▲ 五郎は殺されるとき井戸に落とされて、上から大石を投げ込まれたが、次々と石を受け止め、これを足場にして上へ登ってきたため、一計を案じた家臣が砂を流し込んでやっと生き埋めにしたという。その後色々なたたりが続いたので、横手村(よこてむら)に祠(ほこら)を造り、横手大明神として祀られたという
熊本城天守閣(西面)

熊本城天守閣(西面)

拡大写真(2000X1350)483KB

  ▼ 宇土櫓(うとやぐら)の屋根には鯱(しゃち)が乗り、大小天守と並んで三の天守と呼ばれることがある。この鯱は元からあったものではなく、昭和2年(1927)に陸軍が解体修理した際、城内に保管してあった鯱を取り付けたもの。
 ちなみに、鯱(しゃち)は阿(あ)と吽(うん)の2体1対。阿は雄、吽は雌のこと。国指定重要文化財だがその内部は一般に公開されている。
三の天守と呼ばれる宇土櫓(南西面)/国指定重要文化財

三の天守と呼ばれる宇土櫓(南西面)/国指定重要文化財

拡大写真(1800X1350)415KB

Wa☆Daフォトギャラリー

今 日

 和田フォトギャラリー

昨 日

 Copyright (C) 2000-2011 Yoshio Wada. All Rights Reserved. 

ホームページお知らせお便りコーナー徒然日記俳句・海の風景ホームページ奮闘記作者のプロフィールリンク