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秋芳洞を見た後、萩市で一泊し、翌4月12日(水)は萩市内を観光した。萩市は山口県西北部、日本海に注ぐ阿武川(あぶがわ)下流の三角州を中心に発達した毛利36万石の城下町で、吉田松陰・木戸孝允・高杉晋作などの逸材を輩出した明治維新胎動の地である。自然や文化財・史跡に富み、歴史的街並みや景観が残る。 |
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2005年3月、人口6万人の旧萩市が阿武郡川上村(あぶぐん・かわかみそん)、田万川町(たまがわちょう)、むつみ村(むつみそん)、須佐町(すさちょう)、旭村(あさひそん)、福栄村(ふくえそん)と対等合併し、新市制による萩市となった。 |
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明治維新発祥の地・松下村塾 / 山口県萩市 |
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明治維新の立役者・吉田松陰(よしだ・しょういん)を祀る松陰神社はJR東萩駅から歩いて15分くらいの所にある。明治23年(1890)、松蔭の没後31年に建立されたものだが、そこに保存されている松下村塾は、江戸時代の幕末に長州藩士・吉田松陰(松蔭)が講義した私塾である。天保13年(1842)松陰の伯父である玉木文之進が萩の松本村に設立したもので、松陰自身も学んだという。 |
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松陰は、安政2年(1855)実家である杉家に蟄居することになり、杉家の母屋を増築して塾を主宰した。安政5年(1858)に藩の許可を得るが、松陰が安政の大獄*で粛清されたために、僅か3年で途絶えた。 |
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*安政の大獄:安政5年(1858)〜安政6年(1859)、江戸幕府が尊王攘夷運動に加えたきびしい弾圧事件。日米修好通商条約の調印と将軍徳川家定の後継者をめぐる尊王攘夷派の反幕府運動に対し、大老・井伊直弼(いい・なおすけ)が強権を発動し、公家・大名や志士など百余名を罰した。前水戸藩主・徳川斉昭(とくがわ・なりあき)は謹慎させられ、吉田松陰・橋本左内ら8名が死刑になった。 |
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松陰は、長門国(ながとのくに)萩藩士杉百合之助の次男に生まれ、山鹿流兵学師範だった叔父の死後、吉田家を相続して兵学師範となった。のち、九州・江戸に遊学。 |
嘉永4年(1851)藩の許可なく東北行を敢行して御家人召放(ごけにんめしはなし)(浪人)となった。安政元年(1854)ペリーが和親条約締結のため再航した時、密航を企て、失敗して入獄。 |
1年後、叔父玉木文之進の松下村塾の主宰者となり、高杉晋作、久坂玄瑞、入江杉蔵、野村和作、前原一誠、伊藤博文など、幕末から明治期に活躍した人材を育成した。 |
日米修好通商条約の調印を批判し、藩に老中要撃の計画を提起したりしたため再入獄。 |
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翌年、幕府から藩に松陰東送の命が下り、江戸に送られ、訊問に際しペリー来航以来の幕府の一連の政策を批判し、処刑された(安政の大獄)。享年30歳。 |
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松下村塾の講義室 |
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国指定史跡・萩城下町は、菊屋横丁、伊勢屋横丁、江戸屋横丁、呉服町すじなどの道があり、江戸時代の地図が使えるといわれるほど当時の街並みがそのまま残されている。純白の海鼠(なまこ)壁の土蔵や土塀、武家屋敷、町屋などを見るにつけ、明治維新の立役者たちを多数輩出したかつての栄華が偲ばれる。 |
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白壁の続く菊屋横丁(日本の道百選) |
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江戸屋横丁に「てんぐの寺・円政寺」があり、武家屋敷の風情が残されている。多くの屋敷には萩特産の夏蜜柑(なつみかん)が枝もたわわに実をつけている。萩ならではのほほえましい光景である。 |
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月輪山円政寺は真言宗の寺院で、建長6年 (1254) 山口に創建された大内氏代々の祈願所であった。慶長9年(1604) 頃この地に移転し、毛利氏の祈願所となった。 |
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てんぐの寺「円政寺」のある江戸屋横丁 |
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寺の境内には 金比羅社(こんぴらしゃ)という 神社があり、当時の神仏習合の形態が残されている。神社には朱色に塗られた大きな天狗の面がかけあり、 高杉晋作や桂小五郎が幼いころ背負われてこの天狗の面をよく見に来たという。また、伊藤博文が11歳の頃、住職の恵運に諭され、読み書きを習ったというエピソードが残されている。 |
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資料 |
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木戸孝允は、天保4年(1833)萩呉服町江戸屋横丁で萩藩の藩医・和田昌景の子として生まれた。天保10年(1839)桂九郎兵衛の養子となり、桂小五郎(かつら・こごろう)と称した。後に藩主から木戸の姓を賜り、維新後木戸孝允を名乗る。 |
吉田松陰に師事し、のち江戸で剣術や西洋兵学を学ぶ。公武合体派に反対し、尊皇攘夷運動に奔走。藩の重職に就き、藩論を討幕へと導いた。 |
池田屋の変や禁門の変では難を逃れ、長州藩での討幕派の中心的人物として活躍し、慶応2年(1866)鹿児島藩との間に薩長連合を締結。 |
王政復古のクーデター後、五箇条の誓文草案を起草。参与に任ぜられ版籍奉還の実現に尽力した。明治3年(1870)6月参議。4年(1871)岩倉遣外使節団に副使として参加。以後文部卿、内務卿、地方官会議議長、内閣顧問等を歴任。 |
明治10年(1877)病没。行年45歳。 |
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桂小五郎(木戸孝允)旧宅 |
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資料 |
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高杉晋作たかすぎしんさく
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( 1839-1867 ) |
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高杉晋作は、天保10年(1839)萩呉服町菊屋横丁に高杉小忠太(家禄200石)・みちの長男として出生。 10歳の頃疱瘡を患う。漢学塾を経て、藩校・明倫館(めいりんかん)に入学、剣術も学ぶ。吉田松陰が開いた松下村塾に入り、翌年、藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。 |
文久2年(1862)幕艦・千歳丸(せんざいまる)で上海(しゃんはい)に渡る。西洋列国の圧力で半植民地化した上海居留地を見て強い危機感を抱いて帰国したのち、久坂玄瑞・伊藤博文・井上馨らと品川御殿山のイギリス公使館を焼討ちし、藩論の航海遠略策を批判。 |
文久3年(1863)、萩藩の下関における攘夷決行に対する英仏艦の反撃に際し、下関の防備を委任され、奇兵隊を組織。これは、吉田松陰に学んだ西洋歩兵制や清国で見聞した太平天国軍に習ったものといわれる。 |
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このあと、脱藩の罪により一時入獄。翌元治元年(1864)四国連合艦隊下関砲撃事件では、出獄して藩の正使として講和に応じた。 |
幕府の征長軍組織化に伴い藩の保守派が実権を握ると再び脱藩し、同年末から翌慶応元年(1865)にかけて諸隊を率いて下関で挙兵、保守派を打倒。10月に下関で旧知の坂本龍馬に会い、上海で入手した拳銃を贈る。この拳銃は、のちの寺田屋事件で龍馬が発砲したもの。 |
慶応軍制改革に参与。慶応2年(1866)第二次長州戦争で海軍総督・馬関海陸軍参謀として活躍。戦後まもなく下関で病死。享年29歳。 |
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高杉晋作誕生地 / 菊屋横丁 |
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萩城下町を東西に延びる呉服町すじは、江戸時代、代々の毛利藩主が参勤交代のために通行した本道で、御成道(おなりみち)とも呼ばれる。北側(左)に旧久保田家住宅、南側(右)に重要文化財・菊屋家住宅が建ち、藩政時代の栄華を今に伝える豪商たちの館が並ぶ。 |
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この道から南に、東(写真奥)から江戸屋横丁、伊勢屋横丁、菊屋横丁が延び、明治維新の立役者たちの生誕地や旧宅などがある。 |
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旧久保田家住宅(左)と菊屋家住宅(右) / 呉服町すじ |
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江戸時代、呉服商から酒造業に転じ、明治時代には来萩した名士の宿所でもあった久保田家。訪れたときは、江戸時代から昭和初期にかけて人形師によって作られた雛飾りの逸品500体が展示されていた。 |
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武者人形 |
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草鞋を履いた馬 |
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萩市新川東の萩焼会館で、萩焼の窯元・萩城窯の職人による電動轆轤(ろくろ)を使った成型作業を見学した。 |
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萩焼制作の実演 |
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萩焼は慶長9年(1604)入府した萩藩主毛利家の御用窯として、萩城下の東郊・松本村中之倉(現・萩市椿東)に朝鮮から帰化した陶工・李勺光(り・しやくこう)と李敬(り・けい)によって開かれたといわれる。萩焼の名は、寛永15年(1638)松江重頼(まつえしげより)が書いた俳書「毛吹草(けふきぐさ)」にみえ、この頃には名産となっていた。 |
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萩焼は現在も萩市一帯で焼かれている陶器で、古くから「一楽二萩三唐津」と謳われるほど、茶人好みの器を焼いてきたことで知られる。萩焼の特徴は、原料の陶土(とうど)と釉薬(ゆうやく)の焼き具合によって生じる「貫入(かんにゅう)」と、使い込むことによって生じる「七化け(ななばけ)」がある。 |
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萩焼の展示 |
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貫入とは器の表面の釉薬がひび割れた状態になること。七化けとは、使い込むにつれて貫入に茶や酒が浸透し、器表面の色が徐々に変化してゆき、枯れた味わいを見せることである。素地の色を生かすため、景色(色模様)は地味だが根強いファンが多い。 |
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