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ルクソール博物館 |
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新館にはラムセス I 世のミイラが展示されている。第19王朝(B.C.1310-1186)の初代王ラムセス I 世(B.C.1293-1291)は、下エジプト(ナイル川三角州地帯)東部出身の軍人で、第18王朝(B.C.1565-1310)末期頃には宰相に昇り詰めていた。 |
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展示されているミイラ |
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第18王朝最後の王ホルエムヘブには嗣子がいなかったため、宰相であり親しい友人でもあったラムセスがホルエムヘブの後継者に指名され、死後、ラムセス I 世が王位を継承して、第19王朝が始まった。ラムセス I 世は即位したときは既に老齢で在位が短かく、死後、息子のセティ I 世(B.C.1291-1278)が王位を継承した。 |
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紀元前14-15世紀のIWNITの石像 |
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セティ I 世の息子で、その晩年に共同統治者として政治の舞台に登場したのがラムセス II 世(B.C.1314-1224)である。ラムセス II 世には兄がいたが、夭逝しており、幼いときから後継者として育てられた。セティ I 世の死後、王位を継承したラムセス II 世は、エジプト史上最強のファラオとして君臨し、未曽有の建築活動を行った。 |
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頭部の石像 |
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中王国時代(B.C.2040-1785)にはこの神殿が建設されていたといわれており、その後、新王国時代(B.C.1565-1070)の第18王朝アメンヘテプIII世、第19王朝のラムセスII世が現存する大部分の神殿を造り上げた。 |
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ルクソール神殿の巨大な円柱 |
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ルクソール神殿は、当時の建築様式である塔門、スフィンクス参道、中庭、列柱室、至聖所などが美しくレイアウトされた神殿で、カルナック神殿の中心となるアメン大神殿の附属神殿として建立された。そのため、アメン大神殿とは約3kmの参道でつながっている。 |
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第一塔門のラムセスII世の巨大座像 |
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第一塔門の左下にあるラムセスII世の頭部 |
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ルクソール神殿の入口にはラムセスII世の坐像があり、その手前にオベリスクが1本立っている。オベリスクは本来左右に2本あったが、右側の1本はパリに持ち去られ、現在コンコルド広場に立っている。 |
コンコルド広場に立つルクソール神殿のオベリスク |
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資料 |
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オベリスクは一つの岩から切り出されたもので、その殆どがアスワン産の花崗岩。高さ40〜30m、重さ数百tonにも及ぶ。 |
オベリスクはピラミッドと同様にその頂部が四角錐になっており
ヘリオポリス*にあった太陽神殿の御神体であるベンベン石**に由来するという。 |
これらは、太陽神ラーの力を表現したもので、雲間から差し込む太陽光線を模したものといわれている。 |
ラーは、アメンとともに最高神として崇められ、ファラオだけがオベリスクを立てることを許された。王が死後に太陽神となり、その力が永遠に注がれるよう、より高く、より太陽の近くになるように立てられたのではないかといわれている。 |
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*ヘリオポリス:現在のカイロ近郊に存在した古代エジプトの都市。ギリシャ人によって名づけられたもので、ギリシャ語で「太陽の町」という意味。現在はカイロ首都圏内の高級住宅地。
**ベンベン石:再生復活をつかさどる精霊が宿るところ。古代エジプトで「ベン」は「何回も生まれる」という意味。 |
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ライトアップされたルクソール神殿 |
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この日は強行軍だったため、見学は12時過ぎに終了。昼食後、カルトゥーシュを販売する店に行き、午後2時半頃、メリディアン・ルクソール・ホテルにチェックイン。夜、ライトアップされたルクソール神殿を再訪した。 |
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ツタンカーメン王夫妻像 |
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ツアー4日目の12月12日(日)は、ナイル川東岸に建つホテルの部屋のベランダからナイル川の夜明けの風景を楽しんだあと、午前8時半にホテルを出発し、ルクソール西岸を巡った。 |
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ホテルのベランダから見たナイル川の朝 |
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最初に訪れたところは、ルクソールのナイル川西岸にあるメムノンの巨像である。ハトシェプスト女王葬祭殿の入口に造られた2体の巨大なアメンヘテプIII世の座像で、呼び名はギリシアの伝説、メムノン王に由来する。 |
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向かって右側の像は、紀元27年の地震によりヒビが入り、夜明けになると、おそらく温度差や朝露の蒸発のせいで、うめき声や口笛のような音を発していたそうだが、修復した現在は、そのような音は聞こえない。 |
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2体のメムノンの巨像 |
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完成した当時は、頭上に王冠を載せていたため、約22mの高さがあったという。現在は2.3mの台座に15.6mの座像が載っている。 |
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巨大なファラオの座像 |
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座像の後ろには葬祭殿があったが、第19王朝(B.C.1310-1186)のメルエンプタハ王が自分の葬祭殿を建設する石材とするために破壊してしまったという。 |
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巨像背面のレリーフ |
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ハトシェプスト女王葬祭殿は、ルクソール西岸にある古代エジプト唯一人の女性ファラオ、ハトシェプストが造営した葬祭殿。ハトシェプストの側近で建築家センムトが設計を行った。後にトトメスIII世によって壁画や銘文が削られるなど一部破壊を受けた。 |
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ハトシェプスト女王葬祭殿 |
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葬祭殿からメムノンの巨像方面の眺め(南方) |
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褐色の切り立った崖を背景に扇形に広がる地形をうまく利用している。巨大なテラス(広場)が3段あることが特徴で、その秀麗な姿は、当時、「神聖なるものの中で最も神聖なるもの」と讃えられた。 |
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葬祭殿の像 |
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手前にはメンチュヘテプII世の王墓があり、後にコプト*の教会として使われていたことから、あわせてデル・エル・バハリ(アラビア語で「北の修道院」の意。)とも呼ばれている。1997年、ルクソール事件の現場となり、63人が亡くなる事件が発生し、その中には多くの日本人新婚旅行客が含まれていた。 |
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*コプト:エジプト総人口の6%を占める原始キリスト教の流れをくむ宗派。 |
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太陽を見上げる女神像 |
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1997年11月に発生したルクソール事件は、エジプトの観光名所・ルクソールのナイル川西岸において、イスラム原理主義過激派のテロリスト集団が外国人観光客に対して行った無差別殺傷テロ事件で、エジプト外国人観光客襲撃事件ともいわれる。 |
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彩色のレリーフ |
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この事件により、日本人10名を含む外国人観光客61名とエジプト人警察官2名の合わせて63名が死亡し、85名が負傷した。なお、現場から逃亡した犯人と思われる6名は全員射殺された。 |
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葬祭殿近くの土産物屋 |
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ルクソールのナイル川西岸にある王家の谷は、トトメス I 世以降の新王国時代(B.C.1565-1070)の歴代のファラオが墓を造ったことで知られる。盗掘を避けるために岩窟墓となっていたが、ツタンカーメン墓を除き、これまでに発見されたものは全て盗掘されていた。 |
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王家の谷のツタンカーメン(トト・アンク・アメン)墓に入る筆者 |
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1925年2月17日、イギリスの考古学者ハワード・カーターがツタンカーメン王(トト・アンク・アメン)の墓を発見、その中には黄金のマスクをつけた若きツタンカーメン王のミイラがあった。前室から北側へ直角に玄室が配置されていた。王の墓としては小規模だったことから、もともと高官用に造られた墓を利用したものといわれている。 |
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ツタンカーメンは、新王国時代第18王朝(B.C.1565-1310)のファラオ(王)。その治世は9年と短く、B.C.1350年ころ、19歳の若さで亡くなった。より厳密な表記では、トト・アンク・アメン Tut-ankh-amen という。 |
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ツタンカーメンの墓 |
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資料 |
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イギリスのカーナヴォン卿の支援を受けた考古学者ハワード・カーターによって発見されたツタンカーメン墓は、3千数百年もの間、ほとんど盗掘を受けていなかった。実際には宝石の一部などが抜き取られていたが、副葬品自体は無事で、王のミイラに被せられた黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品がほぼ完全な形で出土した。 |
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ツタンカーメン王の黄金のマスク/考古学博物館(カイロ) |
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