1869年,美術商グーピル商会につとめるが,76年解雇される。短期間イギリスで語学教師として働いたのち,一念発起して,1877‐78年,アムステルダムの神学校,ついでブリュッセルの伝道師養成所で学び,無給の伝道師としてベルギー南部の炭鉱地帯ボリナージュにおもむく。しかしここでも,1880年にその常軌を逸した振舞いにより教会から解雇され,失意のどん底に陥る。幼少より絵心のあったゴッホが画家になる決心をしたのはこの頃であり,ブリュッセルのアカデミーで数ヵ月間学んだのち,画商として一家をなしつつあった弟テオ
Theo の経済的援助に頼りきったまま制作をつづけた。宗教的情熱と一体となったこの時期の作品は,ミレーの深い影響もあり,社会の底辺の虐げられた人々にたいする共感に根ざしている。 一時期,憐憫(れんびん)から同棲した娼婦シーンをモデルにした素描《悲しみ》(1882),質朴な農民生活を描いた《じゃがいもを食べる人々》(1885)などはそのよい例である。 しかしながら,画家としての才能が開花するのは,1886年から88年にわたるパリ生活で印象主義の洗礼をうけてからである。それまでの暗い鈍重な色彩は消え失せ,《タンギー親爺》(1887)に代表される明るい筆触が画面を満たすようになる。
これにはまた,日本の浮世絵版画からうけた強い印象がはたらいている。事実,1888年,そもそもゴッホは,日本のイメージを求めて南仏のアルルへと向かったのであった。いわゆる〈ゴッホの耳切り事件〉という悲劇的な結末をみたゴーギャンとの共同生活を別にすれば,アルル時代はゴッホにとって実り豊かなものであった。この時期の《ひまわり》《麦畑》《糸杉》などでは,ぎらぎらした量感ある色彩とうねるような筆触によって,原初的ともいうべき自然のエネルギーを画面に噴出させ,また《夜のカフェ》(1888)では,強烈なコントラストによって,カフェにたむろする人間存在の狂気すらあばきだした。
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