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2012年7月24日改訂

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♪ Comme d'habitude (マイ・ウェイ) 

2001年5月27日制作

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オーヴェル・シュル・オワーズ
Auvers-sur-Oise

 1999年11月5日午後、ゴッホ終焉の地オーヴェル・シュル・オワーズを訪問。オーヴェルは人口5,700人の小さな町だ。

 ゴッホが描いた「オーヴェルの村役場 La Mairie a Auvers」(写真)で、フランス人女性のガイドが我々に合流し、ここからゴッホツアーが始まった。主な見学コースは、ゴッホが二階に泊まっていたラヴー亭Ravoux、ザッキン作のゴッホ像、石段を上がった教会、少しぬかっていたがゴッホが自殺した麦畑、最後はゴッホのお墓だ。

 何の変哲もないオワーズ川沿いのこの村が多くの旅人を引きつけるのは、ひとえに、あの炎の天才画家ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ Vincent Van Gogh(英語読み:フィンセント・ファン・ゴッホ)のためだ。晩年、すでに狂気にとらわれていたゴッホは、この村で彼の最後の名作を描き、18907月、村はずれの畑でみずからの銃弾を胸に撃ち込んで、37歳の生涯を閉じたのだ。

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ゴッホの下宿先

 最近まで村の中央通りにあったカフェ・レストラン A Van Gogh は、ゴッホが間借りしていたところだ。もとはラヴー Ravoux という名前で、当時の主人の家族が1986年末まで店をやっていた。ゴッホの部屋がそのまま保存してあったが、狭い屋根裏部屋で、ベッドと小さなテーブルとイスがあるだけの寂しさ。

 ゴッホは、麦畑に行き、ピストルで自分の胸を撃った後も死にきれず、自力で部屋までたどりつき、このベッドの上で2日間もだえ苦しんだ末に息を引き取ったという。

 オーヴェルは、ゴッホだけでなく、佐伯祐三や荻須高徳、そしてセザンヌゆかりの地でもある。ゴッホの面倒を見、その最後を看取ったガシェ医師は、印象派の良き理解者で、セザンヌとも親しかった。

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ガシェ医師

 
ゴッホ像

 写真は、ザッキン作のゴッホ像。ゴッホがオーヴェルでキャンバスを背負い、絵の具を肩にかけて、毎日創作に向かう姿を表現している。赤いゴッホの画集を持つ女性がフランス人ガイド。さすがにゴッホを商売にしているだけあって、ゴッホについて知悉していた。

ゴッホと作品

 フランス人ガイドの説明によると、ゴッホはオランダの牧師の子だったが、27歳で画家になり、パリで活動したのち、新天地を求めアルルに移った。アルルに着いたとき、南仏のイメージはなく、珍しく雪が降っていたという。スタートから落胆が始まり、1年半いたアルルであったが、ゴーギャンともうまくいかず、殺そうかとも思ったが思いを遂げられず、ゴーギャンはアルルを去ってしまう。その辺から錯乱状態に陥り、自らの耳をそぎ落としてしまう。アルルでは190点の作品を残している。

 その後アルルの病院からサン・レミの精神病院に収容され、治療していたが、最後はパリ近郊のこの地オーヴェルに移り、自殺するまでの70日間をここで過ごし、発作に苦しみながらも1日1点のハイスピードで作品を描いた。

 彼の面倒を見た医師がガシェGachetという人で、ゴッホが描いたその肖像画は、現在日本人が所蔵しているが、当時、油絵の中で世界一高い値段で取り引きされたという。(50億円?)

 ゴッホは、たった10年で2,000点もの作品を残した。そのうち油絵は、900点だという。彼は、弟のテオから財政的支援を受けていたので、彼の作品は、全て弟のテオに送られている。

 ゴッホの作品は、彼が生きているときには1点だけ友人が買ったが、それ以外は全く売れなかった。2,000点もの遺作は、テオの奥さんが所蔵したが、金に困って二束三文で売られたりしていて、その後散逸。現在は、オランダに財団が組織されていて、ゴッホの作品を収集しており、最近ゴッホ美術館がオランダにできて、保存活動が続けられているという。

09 ゴッホが描いた教会
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オーヴェルの教会
Eglise d'Auvers

 ゴッホが描いた教会は、当時の佇まいのままに保存されている。彼がこの教会を描いた位置に作品のコピーが展示されており、実際の建物と彼の眼がとらえた絵とを対比することができる。何の変哲もない小さな田舎の教会が、こんなにも鮮やかに活力に満ちて描かれているのには、驚くばかりだ。ゴッホは矢張り天才画家だったのだ。

10 写真をクリックすると新しい窓が開き拡大写真1968x1348210KBが表示されます。

 
カラスのいる麦畑
 Le champ de blé aux corbeaux

 名作「カラスのいる麦畑」は、自殺の数日前に描かれたものだ。沸きかえるような真夏の光の向こうに垣間見えるむき出しの狂気とどす黒い死の予感...。ピストルの引き金をひく直前のゴッホが見たオーヴェルの風景も、きっとこの絵のようなものであったにちがいない。

ピストル自殺

 1890年7月27日、ゴッホは麦畑で自らの胸部に向けてピストルを発射。死に切れず自力で下宿先まで戻る。ガシェ医師が呼ばれ、翌朝パリからテオがかけつけた。

 ゴッホは狭い屋根裏部屋で2日間もだえ苦しんだ末、7月29日午前1時半、テオに看取られて死去。オーヴェルでの葬儀には、テオやガシェ医師、ベルナール、リュシュアン、ピサロ、タンギーなどが参列した。

 ゴッホが自殺した原因は、ゴッホの支援で経済的にも困窮していた弟のテオが病気になり、それが自分のせいだと思いこんだことによるといわれている。

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ゴッホの眠る墓地

 ゴッホが自殺した年の10月、テオは精神に錯乱をきたし、翌年1月25日、ユトレヒトの病院で死亡した。ガシェ医師がゴッホの墓をオーヴェルの墓地に建てたが、テオが死んだあと、しばらくしてテオの墓もゴッホの墓のとなりに移された。

 墓地を見渡すと、本当にだ。日本から輸入した菊は、すっかりフランスに定着していて、フランス人の菊好きがわかる。お墓参りに菊を捧げるのは、日本人とフランス人だけかも知れない。もっともフランスでは切り花ではなく、写真のようにプランターやポットに植えられた生花だが...。

12 フィンセントとテオの墓
写真をクリックすると新しい窓が開き拡大写真1565x781)177KBが表示されます。

 
落日のゴッホの墓に黄菊咲く 北舟

 ゴッホの墓は、墓地に入って左の壁脇にある。そのすぐ右隣には彼の弟テオTheoが眠っている。色とりどりの菊の生花が沢山置かれている。ゴッホが好きだった黄色を意識してか黄菊が目につく。墓石には次の文字が刻まれている。

ICI REPOSE
VINCENT VAN GOGH

1853 - 1890
ICI REPOSE
THEODORE VAN GOGH

1857 - 1891

 ミレーやゴーギャン、広重などの強い影響のもとに、絵画の既成概念をうち砕く作品を次々と生みだしたゴッホ。だが、アカデミズム全盛の当時、彼は誰からも認められることなく、狂気と貧困と孤独のまっただ中で苦悩の一生を終えた。(合掌)

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