|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
2007年6月8日(金)から15日(金)まで、クラブツーリズム主催の「美しき北欧4カ国スペシャル8日間」の旅に参加し、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの北欧4ヵ国を巡った。 |
|
|
|
|
北欧の地図
|
|
|
資料 |
|
|
|
|
|
6月13日(水)スウェーデンの首都ストックホルムを見学し、一泊したのち、ツアー最終日の7日目・14日(木)午前10時半、AY636便にてストックホルムを出発、約1時間のフライトでフィンランドの首都ヘルシンキに到着した。 |
|
|
|
|
|
地平線まで続くヘルシンキの緑の平野
|
|
拡大写真(1600x1100)264KB |
|
|
|
|
|
|
フィンランド共和国 |
|
|
Suomen Tasavalta / Republiken Finland ( Republic of Finland )
|
|
|
フィンランド共和国は北欧諸国のひとつで、首都はヘルシンキ。西にスウェーデン、北にノルウェー、東にロシアと隣接する。サウナと民族叙事詩カレワラで有名な「森と湖の国」である。正式名称は、フィンランド語ではスオメン・タサワルタ、通称
Suomi(スオミ)。スウェーデン語ではレプブリケン・フィンランド、通称フィンランド。フィンランドは「フィン人の国」という意味。「スオミ」はフィン人の自称で、「湖の国」という意味。公用語はフィンランド語とスウェーデン語。 |
|
|
歴史的には、先史時代(〜1155)、スウェーデン時代(1155〜1809)、ロシアによる大公国時代(1809〜1917)、独立後の現代(1917〜)の四つの区分に分かれる。 |
|
|
|
|
大統領:タルヤ・ハロネン
北欧4ヵ国で唯一ユーロを採用。
|
|
|
現在のフィンランドの土地には旧石器時代から人が居住した。南には農業や航海を生業とするウラル語族のフィン人が居住し、後にトナカイの放牧狩猟をする同じくウラル語族のサーミ人が北方に生活を営むようになった。 |
400年代にインド・ヨーロッパ語族のノルマン人のスヴェーア人がフィンランド沿岸に移住を開始し、居住域を拡大していった。 |
|
|
|
1155年スウェーデン王エーリク9世はフィンランドを征服し、同時にキリスト教(カトリック)を広めた。1323年までにはスウェーデンによる支配が完了し、東方正教会のノブゴロド公国との間で国境線が画定したことで、名実ともにスウェーデン領になった。16世紀の宗教改革でスウェーデンのグスタフ1世がルター派を受け入れたため、フィンランドもルター派が広まることになった。 |
1700年から始まった大北方戦争の結果、1721年のニスタット条約でフィンランドの一部(カレリア)をロシア帝国に割譲された。 ナポレオン戦争ではスウェーデンの敗北で、1809年にアレクサンドル1世がフィンランド大公国を建国し、フィンランド大公を兼任することになった。その後スウェーデンが戦勝国となったが、フィンランドはスウェーデンにもどらず、ロシアに留め置かれた。 |
1917年ロシア革命の混乱に乗じてフィンランド領邦議会が独立を宣言。その後マンネルヘイムが左翼の反乱を鎮圧し、1919年にはフィンランド共和国憲法が制定された。独立後の政情は不安定で1921年にスウェーデンと領土問題で争い(オーランド諸島)、さらに1939年から1940年のソ連との冬戦争では国土の10分の1を失った。第二次世界大戦ではソ連と対抗するために枢軸国側について戦ったが1944年にはソ連と休戦。国内駐留ドイツ軍と戦ったものの敗戦国として終戦を迎えた。 |
戦後はソ連の勢力下におかれ、北大西洋条約機構
NATO にも欧州共同体
EC にも加盟しなかった。自由民主政体を維持し、資本主義経済圏に属するかたわら外交・国防の面では社会主義陣営に近かったが、ワルシャワ条約機構には加盟しなかった(ノルディックバランス)。この微妙な舵取りにより、現在まで独立と平和を維持した。ソ連崩壊後、西側陣営に接近し、1994年にEUに加盟。2000年にはユーロを導入。2007年には独立90周年を迎えた。 |
★☆★彡 |
人口520万人、面積は377,829km2の日本よりやや小さい338,000m2、スカンジナヴィア半島の内側、バルト海の最奥に位置するフィンランドは、北緯60度から70度にわたり南北に細長く、童話のムーミンやサンタクロースの故郷として知られる。北方のラップランドは、太陽が沈まない白夜(びゃくや)が73日、丸一日太陽が出ない極夜(きょくや)は50日を数える。 |
国土の65%が森林で、10%が河川・湖沼、8%が耕作地。山が少なく平坦で最高峰でも標高1300mほどしかない。広大な原野、氷河期にできたといわれる18万を数える湖、無数の島々、ラップランドの高原地帯は大自然の宝庫である。 |
|
|
|
|
|
郊外にマンションが建つヘルシンキ
|
|
拡大写真(1600x1200)401KB |
|
|
|
|
|
|
ヘルシンキ Helsinki |
|
人口546,000人のヘルシンキ(フィンランド語:Helsinki、スウェーデン語:Helsingfors、ロシア語:Хельсинки)は、フィンランド共和国の首都で、首都圏には約100万人が住む。フィンランドの南部(北緯60度10分、東経24度56分)に位置し、バルト海の最奥、フィンランド湾の北、多島海のヘルシンキ湾に面している。別名「バルト海の乙女」と呼ばれる。 |
16世紀にスウェーデン人によって交易の目的のために開拓された港町で、1550年からヘルシングフォシュ(峡谷の人々の滝)と呼ばれた。当時は寒村に等しかったが、やがてフィンランドの貿易の中心地となった。19世紀、火事、疫病、飢饉など災禍に見舞われ、町の存亡さえ危惧された。しかし町の三分の二が消失した1808年の大火災を契機に乱雑だった町が近代化され、20世紀までにフィンランド一の大都会へと変貌した。 |
1812年フィンランド大公国の首都となり、1917年フィンランドの独立により正式に首都となった。かつてフィンランドの中心地であったトゥルクに代わり、現代では政治、経済、文化の中心地としてフィンランドを支えている。 |
|
|
|
|
ヘルシンキの航空図
|
マウスカーソルで画面のどこかをポイントすると説明が現れます。
|
|
拡大写真(1135x745)255KB |
|
|
|
|
|
|
|
|
シベリウス公園 Sibeliuksen puisto |
|
ヘルシンキ空港に待機していた専用ツアーバスにより、市内観光が始まった。最初は、BGMのフィンランディアを作曲したジャン(ヤン)・シベリウス(1865-1957)を記念するシベリウス公園である。 |
|
|
|
|
シベリウス公園
|
|
拡大写真(1600x1120)388KB |
|
|
|
|
|
|
1967年にエイラ・ヒルトゥネンが製作したステンレス・パイプのモニュメントと御影石の上に置かれたシベリウスの顔面のオブジェがシベリウス公園の中央部にある。 |
|
|
|
|
|
美しいパイプのモニュメント
|
|
拡大写真(1400x1050)246KB |
|
|
|
|
|
|
ジャン・シベリウス Jean Sibelius 1865-1957 |
|
|
|
|
フィンランドの作曲家ジャン・シベリウスは、2007年で没後50周年となった。スウェーデン系であり、出生時の洗礼名はヨハン・ユリウス・クリスチャン Johan Julius Christian であるが、自らフランス語風にジャン(ヤン)と称した。 |
|
青年期にはヴァイオリニストを目指したが、後に作曲に専念した。主要作品は、7曲の交響曲、多数の交響詩、ヴァイオリン協奏曲などのほか、劇音楽・歌曲・ピアノ曲など多岐に及ぶ。 |
歌曲にはフィンランドの詩人で、スウェーデン語で詩を発表しているヨハン・ルードヴィグ・リューネベリの詩を用いているものが多い。 |
★☆★彡 |
|
|
|
資料 |
|
1865年ヘルシンキの北方約100kmのハメーンリンナに生まれる。父は医師であったが、シベリウス2歳の時に他界。姉リンダ、弟クリスチャンはそれぞれピアノ、チェロを演奏した。1885年ヘルシンキ音楽院で作曲などを学び始める。1889年、ベルリンに留学。留学中にリヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」の初演、ハンス・フォン・ビューローの演奏するピアノソナタなどに直接触れる。 |
1891年「クッレルヴォ交響曲」作品7を手がける。1892年アイノ・ヤルネフェルトと結婚。後に五女をもうける。 |
1899年に「愛国記念劇」の音楽を発表。この曲の7曲目が改作されて交響詩「フィンランディア」作品26として独立し、人気を博した。 |
1904年にヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーに「アイノラ」を建てる。この田舎暮らしが作曲に影響を与えたと思われ、この頃より、作品の性格が内省的な独自のスタイルに変わっていく。 |
1923年の交響曲第6番作品106、1924年の交響曲第7番作品105、1925年の交響詩「タピオラ」作品112が頂点となる。 |
1957年ヤルヴェンパーで脳出血により没。 享年91歳。ヘルシンキ大聖堂で国葬が営まれ、棺はアイノラの庭に葬られた。 |
|
|
|
|
|
|
|
シベリウスのマスク
|
|
拡大写真(1400x1050)401KB |
|
|
|
|
|
|
|
|
テンペリアウキオ教会 Temppeliaukionkirkko |
|
テンペリアウキオ教会は、三度の設計コンクールを経てスオマライネン兄弟の設計で1969年に建てられた個性的なデザインのルーテル派教会の建物。岩の中にスッポリと隠れているので、ロック・チャーチとも呼ばれる。 |
|
|
|
|
岩の教会の入口
|
|
|
|
|
|
パノラマ写真(2000x800)391KB |
|
|
|
|
ピアノを弾く女性
|
|
拡大写真(1400x1050)182KB |
|
|
|
|
|
|
この建物は、自然の岩場をダイナマイトを使って掘り下げて造られており、内部の壁も岩肌が剥き出しになっている。天井は鋼板のドームになっており、180本の窓ガラスがそれを支えている。大きな窓ガラスによる採光により、中は非常に明るい。音響効果が良く、コンサートも開かれるという。 |
|
|
|
|
|
巨大な円形の天井
|
|
拡大写真(1200x1600)385KB |
|
|
|
|
|
|
教会の中に一歩足を踏み入れると、中には巨大な空間を持つ異次元世界が広がっており、とても教会とは思えない。まるで巨大なUFOの円盤の中に入ったような錯覚にかられる。教会の地下は核シェルターになっているというから凄い。 |
|
|
|
|
|
清楚な祭壇
|
|
拡大写真(1400x1050)290KB |
|
|
UFOのような大天井
|
|
拡大写真(1400x1050)326KB |
|
|
|
|
|
|
15世紀のマルティン・ルターによる宗教改革の後に生まれたプロテスタントの教会に相応しく、贅沢な飾りはなく調度品はとても清楚で洗練されている。むき出しの岩肌がモダンな建築にとても良くマッチしている。 |
|
|
|
|
|
岩壁にミニキャンドルの点灯
|
|
拡大写真(1400x1140)284KB |
|
|
岩の教会の売店
|
|
拡大写真(1600x1380)361KB |
|
|
|