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ヨーロッパ有数の世界都市ミラノは、人口130万人を擁し、ローマに次ぐイタリア第二の大都市で、ロンバルディア州の州都兼ミラノ県の県都である。北イタリアにおいては最大の都市で、商業、工業、金融の中心地であり、観光地としても名高い。 |
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コモとミラノの位置 |
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▼ ミラノのスカラ座は、イタリア・ミラノにある歌劇場である。初代の宮廷劇場以来の伝統を誇るイタリアオペラ界の最高峰といわれている。初代のテアトロ・ドゥカーレ(Teatro Ducale)は1776年2月25日、謝肉祭のガラ・コンサート後に焼失したため、現在の建物は二代目である。 |
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ミラノのスカラ座 17:19 |
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スカラ座正面にあるレオナルド・ダ・ヴィンチ像。下にいる人物は彼の弟子たちで、向こう側の建物はミラノ市庁舎。その右側にヴィットーリオ・エマヌエーレII世のガッレリア入口がある。 |
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レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452 -
1519)は、イタリアのルネサンス期を代表する芸術家で、イタリアでは万能人ウォモ・ウニヴェルサーレ uomo
universale と呼ばれている。本名は、かなり長く、レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ Leonardo di
ser Piero da Vinci という。イタリアではレオナルドと呼ばれており、ダ・ヴィンチという日本の言い方はおかしいという。 |
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スカラ広場の中心に建つレオナルド・ダ・ヴィンチ像 |
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絵画、彫刻、建築、土木、人体、その他の科学技術に通じ、極めて広い分野に足跡を残している。『最後の晩餐』や『モナ・リザ』などの精巧な絵画は全盛期のルネサンスを代表する作品になっている。膨大な手稿を残しており、その中には当時としては珍しい航空についての考察も含まれている。 |
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レオナルドは1452年4月15日、イタリアのトスカーナにあるヴィンチ村で生まれた。生家は現存する。ヴィンチ家は13世紀より続くヴィンチ村では名の通った血筋で、父セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ
Ser Piero da Vinci は公証人を務め、家は裕福だったという。 |
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思索にふけるレオナルド |
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▼ ヴィットーリオ・エマヌエーレII世のガッレリアは、イタリアの都市ミラノにあるアーケードの名称。2つのアーケード(八角形の建物に二つのアーケードが交差する)に覆われ、ミラノドゥオーモ広場の北に位置し、ミラノスカラ広場へ通じている。 |
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ヴィットーリオ・エマヌエーレII世のガッレリア 17:21 |
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イタリア王国の初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレII世にちなんで名づけられたこの場所は、最初に1861年にデザインされ、イタリアの建築家ジュゼッペ・メンゴーニによって1865年から1877年の間に建設された。 |
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巨大なガッレリア |
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通りはガラスのアーチと鉄製の屋根に覆われており、19世紀のショッピングモールやイギリスはロンドンにあるバーリントン・アーケードのような通俗的なアーケードのデザインである。 |
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ガッレリアの内部 |
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ガッレリアの中央部分は、巨大なガラス製のドームで覆われている。最初の落成から130年以上を経た現在、4階建てのアーケードには、オートクチュール店から書店に至るまでの上品な各種店舗、グッチ、プラダ、ルイ・ヴィトンなどの高級ファッションブランド店のほか、レストラン、カフェ、バーなどが入居している。 |
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ガッレリアの巨大なドーム |
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十字路の交わる付近に青いタイルで囲まれた牡牛のモザイクがあり、その股間部分がやや窪んでいる。この窪みに踵を合わせてクルリと一回転すると(一度に三回転以上出来ると、との説もある。)幸せが訪れ、旅行者は再びミラノに戻れるなどの言い伝えがある。トレビの泉などと異なり、一人ずつしかできないので、観光シーズンには行列ができることも珍しくないという。 |
一日に数千回も踵で踏みつけられるために損傷も激しく、頻繁に修復がなされているが、修復直後の新品でも股間にはあらかじめうっすらと窪みが付けられているという。。 |
この牛の急所を踏みつける回転行為は、観光客よりもむしろ地元市民によって積極的に行われているようで、朝夕の通勤時にはスーツを着たビジネスマン、日中には買物袋を下げた主婦などが通り掛りに踏み付け回転するところが頻繁に目撃されるという。 |
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ガッレリアの中心に立つ 17:25 |
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▼ 聖母マリアに献納されたミラノのドゥオーモ は、ロンバルディア州都ミラノの象徴である。都市の中心のドゥオーモ広場に位置し、500万人のカトリック信者がいる世界最大の司教区であるミラノ大司教区を統括する首都大司教の司教座聖堂で、その大司教は、2002年からディオニジ・テッタマンツィ枢機卿が務めている。 |
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ミラノのドゥオーモ 17:42 |
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▲▼ ドゥオーモの最初の石は、1386年に大司教アントーニオ・ダ・サルッツォとミラノの領主ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの要求により、古代からあったサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の場所に置かれた。宗教改革による中断を経て、最初の石が置かれてから約500年後の1813年に完成した。19世紀を通じて、尖塔と全ての装飾が仕上げられた。 |
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ドゥオーモの彫刻 |
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第二次世界大戦中の1943年にミラノは爆撃を受けたが、この建物は連合国側の判断で爆撃を逃れた。そして大戦が終わってすぐ、ドゥオーモの大部分が修復されると共に、木の扉が青銅製に取り替えられた。 |
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ミラノのドゥオーモは世界最大のゴシック建築であり、5世紀もの歳月をかけて多くの芸術家によって完成した。階段かエレベータで聖堂の上に登ることができる。ドゥオーモの体積はフランスのボーヴェ大聖堂に次いで世界で2番目で、広さもバチカンのサン・ピエトロ大聖堂に次いで2番目。 |
ドゥオーモには135本の尖塔があり、尖塔の天辺(てっぺん)には一つ一つに聖人が立っている。一番高い位置に金のマリア像が輝いていて、昔はこのマリア像より高い位地に建物を建ててはいけないとされていた。 |
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ガッレリアとドゥオーモ |
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■ 八日目 2012年07月31日(火)
ミラノ〜チェルヴィニア〜ラ・パリュ〜ミラノ(泊) |
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▼ ツアー八日目は、ミラノの西北西約130kmに位置するチェルヴィニアとその西方約60kmのラ・パリュを訪問し、本ツアーのフィナーレにふさわしいアルプス観光を楽しみ、ミラノに戻って最後の夜を過ごした。 |
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チェルヴィニアとラ・パリュの位置 |
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▼ ドロミテ観光では悪天候に悩まされ、折角の景観も雲に閉ざされて苦い思いをしたが、この日は、神の恵みか、快晴の素晴らしい青空に恵まれ、イタリアン・アルプスの壮大な光景を堪能することができた。 |
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チェルヴィニアに向かう途中のアルプスの光景 2012.07.31 11:03 |
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イタリア側から見た夏のヨーロッパアルプス |
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▼ 最初は、モンテ・チェルビーノ(マッターホルン)のイタリア側の登山基地として知られるチェルヴィニアの南方約2kmにある小さなブルー湖を訪れた。 |
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ブルー湖とチェルヴィニア |
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▼ ブルー湖から見るモンテ・チェルビーノ(マッターホルン 4,478m)は素晴らしく、イタリア側の定番のスポットとして名高い
が、地球の歩き方「イタリア'12〜'13」には、ブルー湖が掲載されていないのが残念。 |
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ラーゴ・ブルー(ブルー湖)とモンテ・チェルビーノ(マッターホルン 4,478m) 11:16 |
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あるぷすの かてんにそびゆ いわねかな |
The rock mountain of the Alps, rising into the
summer sky. |
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←氷河 |
眼前に迫るアルプス連山の迫力! |
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アルプス山脈に属する標高4,478mのマッターホルンは、ドイツ語(スイス)の呼称で、イタリアはモンテ・チェルビーノという。ちなみにフランスではモン・セルヴァンまたはル・セルヴァンと呼ぶ。山頂は、スイスとイタリアの国境が通り、麓の町はスイス側にツェルマット、イタリア側にチェルヴィニアがある。
その姿は、南面のイタリア側からは男性的、北面のスイス側からは女性的といわれている。 |
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雲を吐くモンテ・チェルビーノ(南面) 11:18 |
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▲ 山体はピラミッド型で4つの斜面があり、東壁の高さは1000m、北・南・西壁はそれぞれ1200m・1350m・1400mほど。東壁と北壁がツェルマットから見え、南壁と西壁がチェルヴィニアから見える。傾斜が激しい斜面では氷雪はわずかに残るのみで、雪は雪崩を起こして滑り落ち、場所によっては氷河を造り出す。マッターホルンの切り立った北壁は、アイガーとグランド・ジョラスと共に三大北壁と呼ばれる。 |
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学生たちの遠足 |
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マッターホルンが制覇されたのはアルプスの他の山々と比べれば最近のことである。これは技術的な困難によるものではなく、この山が霊峰であるということで、初期の登山家たちが恐れたからだったという。 |
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マッターホルン登頂の試みが始まったのは1857年ごろで、多くの登山家はイタリア側から挑戦した。しかしイタリア側の登山路は険しく、多くの登山隊は岩壁を攻略できずに退散した。 |
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孤高のモンテ・チェルビーノ 11:29 |
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▲▼ 1865年7月14日、エドワード・ウィンパー、チャールズ・ハドソン、フランシス・ダグラス卿、ダグラス・ハドウのイギリス人パーティはミシェル・クロッツとタウクヴァルター父子をガイドにして登頂に挑戦し、初めてこれに成功した。このとき選んだヘルンリ尾根を通る登山路は他のルートより平易だった。 |
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下山中、ハドウの滑落にクロッツとハドソン、ダグラスが巻き込まれ、ザイルが切断し4人は1400m下に落下して死亡した。発見されなかったダグラス卿を除く3人の遺体はツェルマットの墓地に埋葬された。3日後の7月17日、ジャン・アントン・カレル率いる登山隊がイタリア側からの登頂に成功した。 |
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リッフェルゼー湖の逆さマッターホルン
(北面)/スイスサイド 2007.07.10 |
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撮影:和田義男 |
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▼ チェルヴィニアは、アオスタ渓谷の中ほどに位置し、モンテ・チェルヴィーノ(マッターホルン)の南南西約5kmの山麓にある登山基地である。スイスのツェルマットと同様、世界中から白いピラミッドを見るために観光客が集まってくる。 |
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アルプス(南面)の直下に位置するチェルヴィニアの村 11:46 |
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↓氷河 |
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夏山に際立つ氷河/チェルヴィニア 11:45 |
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チェルヴィニアから見るモンテ・チェルビーノ 11:47 |
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日本では、スイスから見た優雅なマッターホルンが圧倒的に知られていて、イタリアの岩肌がごつごつしたモンテ・チェルビーノは殆ど知られていない。初めて見る人は、別の山だと思うことだろう。どちらが好きかと問われれば、十中八九マッターホルンと答えるに違いない。モンテ・チェルビーノは、マッターホルンの
無骨な後ろ姿だと思ってしまうのは、筆者だけではないだろう。 |
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雲を吐くモンテ・チェルビーノ |
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