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スプリットの西20kmに位置する古都トロギールは、周囲を城壁に囲まれた小島で、橋によって本土とチオヴォ島に結ばれている。町の起源はギリシャ時代に遡り、元は陸繋島だったが、防衛のため掘り割りを掘って島にした。 |
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陸繋島に水路を通して島にしたトロギール |
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トロギールの島内には様々な時代の教会や歴史的建造物が残されているが、歩いて20分ほどで一周できる。 |
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トロギール旧市街 |
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ツアー7日目は、ドブロヴニクの西方約35km、ペリェシャツ半島の付け根にあるストン(ストーン)を観光した。この小さな町は、隣町マリ・ストン Mali Ston へと続く長大な城壁があることで有名。中国の万里の長城と同様に外敵に備えて築かれた城壁で、ストンの長城と呼ばれる。長さは5.5Km もあり、14世紀当時のヴェネチアからの攻撃を防ごうとしたと説明されている。イギリスにあるハドリアヌスの城壁に次いでヨーロッパで第2位の長さを誇る。 |
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全周を城壁に囲まれたストン |
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ストンを囲む城壁が造られたのは、この町の塩田 Solane で産出された塩が貴重な輸出品で、それを守るためであった。現在でも中世と同じ製法で塩が造られており、見学することもできるという。 |
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ストンの塩田 |
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ツアー8日目は、ドブロブニクを見学した。「アドリア海の真珠」と賞賛されるドブロヴニクは、クロアチア観光のハイライトで、オレンジ色で統一された屋根が並ぶ旧市街は、高く重厚な城壁に囲まれており、どこから見ても絵になる美しい街である。 |
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世界遺産ドブロヴニクの旧市街 |
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撮影:南光桂子 |
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全ての観光客を魅了するドブロヴニクだが、過去には幾度も大きな被害を受けてきた。最も甚大な被害を受けたのは、1667年の大地震で、スポンザ宮殿以外は全て瓦礫の山と化したという。 |
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アドリア海の真珠・ドブロヴニク |
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撮影:松井公代
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ドブロヴニクは1991年のクロアチア独立とともにクロアチア領となったが、この時起こった内戦でユーゴスラビア連邦軍から攻撃を受け、甚大な被害を被った。そのときの破壊でドブロヴニクは「危機にさらされている世界遺産リスト」に掲載されたが、精力的に修復され、1994年にはリストから除外された。 |
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その後、観光地としてホテルやレストラン、街並みの整備が進められ、今日では、対岸のイタリアなど世界各地からやってくる旅行客で賑わっている。 |
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ドブロヴニク旧市街のパノラマ写真 |
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撮影:松井公代
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ドブロヴニクを取り囲む城壁は、全長1,940mあり、高さは最高で25mに達する。城壁の途中にはミンチェタ要塞をはじめ砦や見張り塔、陵堡(りょうほ)が築かれており、見るからに堅牢で、1667年の大地震でも城壁だけは殆ど被害を受けなかったという。 |
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旧市街最高地点に建つミンチェタ要塞 |
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なつのかぜ じょうへきたかき いしのまち |
Summer winds, a stone town of high wall. |
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ロヴリイェナツ要塞 |
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撮影:松井公代
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ドブロヴニクが誕生したのは、614年のこと。当時は、西ローマ帝国が崩壊したことからスラブ人、アヴァール人などの異民族が旧帝国領に流入しており、その襲撃から逃れるために、エピダウルス(現在のツァヴァト)に住んでいた人たちが移り住んできたのがその起源という。 |
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旧市街から山手を臨む |
山頂にナポレオンが建てた要塞が残っているという。 |
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撮影:松井公代
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ドブロヴニクが城壁に囲まれたのは、町が誕生した8世紀のことだが、現在のような強固な形になったのは15世紀から16世紀のころ。城壁の上に設けられた遊歩道を歩くと、グルリと一周することができる。 |
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左手に町を持つドブロヴニクの守護聖人ブラボ |
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撮影:松井公代
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爆撃を免れた古い屋根瓦 |
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撮影:松井公代
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ドブロヴニクのメインストリート「ブラッツァ通り」 |
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撮影:松井公代
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人出で賑わうブラッツァ通り |
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撮影:松井公代
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クロアチアは、ネクタイの発祥地といわれる。現在のネクタイの原型は17世紀頃とされ、一説にはルイ13世を守るためにクロアチアの兵士がフランスを訪れた際、彼らが出征兵士の無事帰還を祈るために妻や恋人から贈られた布を首に巻いており、それを見たルイ14世が興味を示して「あれは何だ?」と側近の者に尋ねたところ、クロアチアの兵士について尋ねられたと勘違いして「クロアチア兵(クラバット)です」と答えたため、ネクタイがクラバット cravat と呼ばれるようになったという。 |
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クロアチアはネクタイの発祥地! |
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撮影:松井公代
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しかし、この説への批判的な意見として、14世紀にはすでにフランスで cravate という語は使われていたともいわれる。現在でもフランス語などではネクタイを
cravate と呼ぶ。 |
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兵士の無事を祈念して首に巻いてもらった布がネクタイのはじまり |
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撮影:松井公代
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18世紀にかけて、クラバットに限らず首に布を巻くスタイルは兵装としても用いられ、一般に広まった。この形のクラバットは第一次世界大戦の頃までには、一般的な男性の正装となった。 |
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若いお母さん |
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撮影:南光桂子 |
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高台からアドリア海の方を臨むと、新しい赤瓦に混じって古い赤瓦が点在している様子がよく分かる。殆どが新しい赤瓦であり、内戦でユーゴスラビア連合軍の攻撃を受けた家屋が如何に多かったかを物語っている。 |
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アドリア海に浮かぶドブロヴニク |
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日中でも暗くて狭い路地裏 |
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