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 感動写真集

2010年8月31日改訂

今 日

昨 日

♪菩提樹〜セレナーデ〜目覚めよと呼ぶ声あり/ウィーン少年合唱団

 

夏離宮スフィンクスの乳房見ゆ   北舟

 

 

The detached palace for summer, the breasts of sphinx are exposed.

2010年8月29日制作

ベルヴェデーレ宮殿のスフィンクス

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ベルヴェデーレ宮殿のスフィンクス/ウィーン(オーストリア)

世界文化遺産

オーストリア国旗

オーストリア初夏の旅

ウィーン

  インスブルック ザルツブルク ハルシュタット ドナウ ウィーン ザルツブルクの旅 モーツァルト 松井公代

 ■ 六日目/6月2日(水):ウィーン終日観光(泊)

 

 

ウィーン Wien

 
▼ ウィーン Wien ( 英: Vienna ヴィエナ) は、オーストリアの首都で、人口は約200万人。クラシック音楽が盛んで、「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる欧州有数の世界都市である。  
 ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパを支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都であった。マリア・テレジア(1717-1780)女帝時代に栄えた市街は、フランツ・ヨーゼフ I 世(1830-1916)の治下で整備された。  
 リンクと呼ばれる環状道路は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいた堀を埋め立てて造られたもの。シュテファン寺院や旧市街をふくむ歴史地区は、「ウィーン歴史地区」の名称で2001年にユネスコの世界文化遺産に登録された。  

雨のシェーンブルン宮殿(世界文化遺産)/ウィーン 2010.06.02

雨のシェーンブルン宮殿(世界文化遺産)/ウィーン 2010.06.02

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シェーンブルン宮殿 Schloß Schönbrunn

 シェーンブルン宮殿は、ハプスブルク家の夏の離宮。外壁の黄色は、女帝マリア・テレジアが好んだ色で、テレジアン・イエローの名がある。幼いモーツァルトがマリー・アントワネットに求婚したというエピソードが残るのもこの宮殿。1999年に日本庭園が発見され、修復の後に公開されて注目を集めた。

テレジアン・イエローの宮殿

テレジアン・イエローの宮殿

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▼ ウィーン市内には、随所に緑豊かな公園があり、ウィーンで活躍した著名人の像が飾られている。市内を散策しながら、これらの像を巡るのも楽しい。
   ヨハン・シュトラウス II 世 Johann Strauß II (1825 - 1899)は、オーストリアのウィーンで活躍した作曲家指揮者、ヴァイオリニストである。「ワルツの父」と呼ばれたヨハン・シュトラウス I 世の長男で、「美しく青きドナウ」など生涯の多くをウィンナ・ワルツの作曲に捧げ、「ワルツ王」と評される。普通、「ヨハン・シュトラウス」と云った場合は、息子の方を指す。  

ヨハン・シュトラウス(II世)の像/市立公園

ヨハン・シュトラウス(II世)の像/市立公園

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▼ ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe (1749 - 1832)は、ドイツの詩人、劇作家、小説家、哲学者、自然科学者、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。
   ゲーテの詩には非常に多くの作曲家が曲を付けている。『魔王』『野ばら』『糸をつむぐグレートヒェン』『ガニメデ』などのフランツ・シューベルトによる歌曲が有名で、シューベルトが生涯作曲した600曲の歌曲のうち70曲ほどがゲーテの詩に付けられた曲だという。ウィーンにゲーテの銅像があるのは、そのためと思われる。  

花のト音記号で知られるモーツァルト像

ゲーテ像

花のト音記号で知られるモーツァルト像 ゲーテ像

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シュテファン寺院 Stephansdom

▼ ウィーンの町の中心にシュテファン寺院が聳えている。12世紀の半ばからロマネスク様式の教会として建てられ、14〜16世紀に現在のような後期ゴシック様式に改築された。

 

巨大なシュテファン寺院 南塔  

巨大なシュテファン寺院

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  ▲ シュテファン寺院のシンボルである南塔は、高さ137mある。キリスト教寺院の塔としては、ドイツのウルム、ケルンに次いで世界第三位の高さを誇る。市民からは、シュテッフル Steffl と愛称されている。南塔と同じ高さで造られる予定だった北塔は、財政難のため、途中までしか建設されなかった。

タイルの美しい屋根

タイルの美しい屋根

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  ▲ 北塔には、プンメリン Punnerin という巨大な鐘が吊されており、エレベーターで上ることができる。塔の上からは、屋根瓦で描いた紋章や鮮やかなモザイク模様が眺められる。

内部の巨大な祭壇

バロック様式の巨大な祭壇

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  ▲ 全長107mもある寺院の内陣は、壮観の一語。ここで、モーツァルトの葬儀が行われ、寺院の外側に記念碑がある。寺院の地下にはカタコンベ Katakomben と呼ばれる墓地があり、ペストで死んだ約2,000体の遺骨と、ハプスブルク家の人々の心臓以外の内蔵を入れた壺が安置されており、ガイドツアーで見学できる。

ウィーンのメインストリート「ケルントナー通り」

ウィーンのメインストリート「ケルントナー通り」

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王 宮 Holburg

▼ ハプスブルク家が13世紀後半から1918年まで600年余にわたって本拠としてきた王宮は、ホーフブルクと呼ばれる。増改築がおこなわれ、とても広いが、18棟が複雑に入り組み、2,500以上もの部屋があるという。
 ミヒャエル広場 Michaelerplatz から入り、皇帝の間 Kaiserappartments、銀器コレクション Silberkammer、シシィ博物館 Sisimuseum などが見応えがあり、共通の入場券で見学できる。  

王宮前のミヒャエル広場

王宮前のミヒャエル広場

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   ハプスブルク家は、もとはスイス北東部からドイツ南西部の一帯を支配していた小貴族だった。1273年、ルドルフ I 世が神聖ローマ帝国の皇帝に選出されたときから頭角をあらわし、大きくなっていった。マクシミリアン I 世は「戦いは他のものにさせるがよい。汝、幸あるオーストリアよ、結婚せよ」という家訓を残し、それを実行したのが女帝マリア・テレジアで、娘マリー・アントワネットがフランスのルイ16世の妃となったことは良く知られている。

ハプスブルク家最後の皇后・シシィことエリーザベト/ヴィンター・ハルター作(1865年)

ハプスブルク家最後の皇后・シシィことエリーザベト/ヴィンター・ハルター作(1865年)

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  ▲ 「日没なき大国」と呼ばれた無敵の帝国も、1859年のイタリア戦争に敗北して以来、凋落の道を歩み始めた。オーストリア=ハンガリー二重帝国という奇妙な国が生まれたときの国王がフランツ・ヨーゼフ I 世で、妃はシシィの愛称で親しまれたエリーザベトである。彼女は、帝国が第一次世界大戦で敗北し、1918年に終焉を迎えるまで650年にわたって中央ヨーロッパを支配したハプスブルク家の最後の王妃となった。

シシィ博物館の収集品/王宮

シシィ博物館の収集品/王宮

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▼ 美術史博物館と自然史博物館の間にマリア・テレジアの像が建つ。マリー・アントワネットをはじめ、16人もの子供をもうけた女帝として中央ヨーロッパに君臨したといわれている。
 しかし、マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ Maria Theresia von Österreich (1717 - 1780)は、神聖ローマ皇帝フランツ I 世シュテファンの皇后であり、共同統治者であるが、実際には皇帝に即位したことはない。  
 ハプスブルク家の領国と家督を相続したのは、マリア・テレジアであるため、彼女の肖像画にはハプスブルク家が事実上世襲していた神聖ローマ皇帝の帝冠が添えられている場合が多く、当時としても、少なくとも領国内では女帝視されていた。  
 その理由は、夫である皇帝がフランス国境沿いの小国ロレーヌ公国(現フランス領)出身の養子的存在であり、ハプスブルク家領国内において実際の政治的権力をほとんど持たなかったためだという。  

マリア・テレジアの像

マリア・テレジアの像

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国立オペラ座 Staatsoper

▼ パリ、ミラノと並ぶヨーロッパ三大オペラ劇場のひとつである国立オペラ座は、1869年、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」でこけら落としが行われた。第二次世界大戦で爆撃されたが、1955年、カール・ベーム指揮によるベートーベンの「フィデリオ」で復活した。マーラー、カラヤンなどの巨匠が指揮者に名を連ねているが、2010年まで小澤征爾が音楽監督を務めている。

国立オペラ座

国立オペラ座

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▼ オペラ座の黄金に輝く内部は、昼間のガイドツアーで見学できるが、時間があれば、夜の公演を楽しみたい。

黄金に輝くオペラ座の内部

黄金に輝くオペラ座の内部

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ウィーン少年合唱団 Wiener Sängerknaben

 BGMに流れる歌曲は、ウィーン少年合唱団の天使の歌声である。1498年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン I 世が宮廷礼拝堂少年聖歌隊として創設した少年合唱団に始まるという。
 団員数は約100人。団員たちは、演奏会用に約25人ずつ「モーツァルト」「シューベルト」「ハイドン」「ブルックナー」の4つのグループに分かれ、それぞれ年に2、3ヵ月ほどの演奏旅行をする。現在でも王宮礼拝堂でのミサが主な任務であり、いくつかのグループが演奏旅行で世界各地へ出かけている間でも最低1グループはウィーンに残り、毎週日曜日の礼拝堂でのミサで合唱する。  
 パートはソプラノとアルトのみで、「天使の歌声」のイメージを維持するため、声変わりやギムナジウム卒業の14歳になると退団する。この厳格さが影響し、競争率は1960年代には16倍だったのが、現在は2〜3倍となっているという。  

コンサートのチケットは如何ですか?

コンサートのチケットは如何ですか?

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 ■ 七日目/6月3日(木):ウィーン〜ウィーン国際空港(機中泊

 

 

ベルヴェデーレ宮殿 Oberes Belvedere

 
▼ 七日目の朝、ホテルそばのベルヴェデーレ宮殿を散歩した。「美しい眺め」という意味のベルヴェデーレ宮殿は、トルコ軍からウィーンを救った英雄プリンツ・オイゲン公(1663〜1736)が造った夏の離宮である。  

ベルヴェデーレ宮殿

ベルヴェデーレ宮殿

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▼ 宮殿の随所には、上半身が乳房をあらわにした美女で、下半身がライオンのスフィンクスが配置され、宮殿を守っている。プリンツ・オイゲン公の「英雄色を好む」ということなのだろうか。

ベルヴェデーレ宮殿の庭園を散策

ベルヴェデーレ宮殿の庭園を散策

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  夏離宮スフィンクスの乳房見ゆ  北舟 

なつりきゅう すふぃんくすの ちぶさみゆ

The detached palace for summer, the breasts of sphinx are exposed.

ベルヴェデーレ宮殿の「美しい眺め」

ベルヴェデーレ宮殿の「美しい眺め」

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楽聖たちが眠る中央墓地 Zentralfriedhof

▼ ウィーン国際空港に向かう途中、市内5箇所にあった墓地を集めて1871年に開設した中央墓地を訪れた。
 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven (1770 - 1827)は、ドイツの作曲家。クラシック音楽史上極めて偉大な作曲家である。その作品は、古典派音楽の集大成であり、ロマン派音楽の先駆けとなった。  
 1826年12月に肺炎を患ったことに加え黄疸も発症するなど病状が急激に悪化し、10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が駆けつけるという異例のものとなった。  
 ヨハン・シュトラウス II 世は、親子共に生粋のウィーン子で、ウィーンで生まれ、ウィーンで亡くなった。死因は肺炎だったという。  

ベートーベンの墓

ヨハン・シュトラウスの墓

ベートーベンの墓 ヨハン・シュトラウスの墓

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クスコの松井さん

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撮影 ・ 原作 : 
 

松井公代まつい きみよ

 
住居:愛知県刈谷市

現在の楽しみ:旅行・60の手習いで始めたパソコン・
         お友達とのちょっと贅沢なランチ

 ハプスブルグ家ゆかりの地インスブルック、ウィーン、そして映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台となった場所を見てみたい!という思いでオーストリア周遊のツアーに参加いたしました。
 
 ウィーンは5年前に一度訪ねているので、シェーンブルン宮殿や王宮は2度目でしたが、何度訪れてもその華麗さには圧倒されます。特に王宮に開館された「シシィ・ミュージアム」はハプスブルグ家皇帝フランツ・ヨーゼフと皇后エリーザベト(愛称シシィ)の日常が伺え、日本語の解説もあって、大変興味深いものでした。
 
 撮影は不可でしたが、体型維持のための運動器具が居間に設置され、体操のつり輪も取り付けられていて、
シシィの美に対する思いが伝わる気がいたしました。身長172cm、体重 48kg のスタイルを維持されていたというのも 納得!・・・
 
 ただ、爽やかな5月にしては、連日雨模様で、折角の美しい風景写真が撮れず、すこし残念でしたが、限られた自由時間を有効にウィーンの街中を あちこち 歩き回った楽しい旅でした。  2010年8月29日

★☆★彡

感動写真集/ 第141集 「オーストリア初夏の旅」

撮影・原作: 松井公代    監修: 和田義男

 平成22年(2010)8月29日 作品:第23作 画像:(大93+小9) 頁数:5 ファイル数:230 ファイル容量:71MB
 平成12年(2000)〜平成22年(2010) 作品数:371 頁数:1,439 ファイル数:59,035 ファイル容量:8,620MB
  はつなつを白いブーケの笑顔かな 北舟 

はつなつを しろいぶーけの えがおかな

Smiles holding a white bouquet, enjoying early summer

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【編集子が選ぶ名作】

アルプバッハ村の結婚式

アルプバッハ村の結婚式

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ザルツブルクへの旅
 編集子は、平成9年(1997)3月、出張でウィーン滞在中、オーストリアの若者でステファンという英語ガイドによる日帰りツァーに参加したことがある。参加者は、日本人2名(私と同僚)、韓国人1名(サムスン社員)、アメリカ人2名(夫妻)の5名。日本語ガイドのツァーもあったのだが、つまらないという評判を聞き、ステファンのツァーに参加した。天気にも恵まれ、楽しい旅だった。
 ウィーンから途中、ザルツカンマーグートと呼ばれる風光明媚な湖水地方を通った。このときの旅を作品にしたのが ザルツブルクへの旅 であるが、当時はフィルム写真で、画質も悪く、今見ると恥ずかしい限りだが、13年の進歩がどれほどのものであったかがよく分かり、当時の画像に手を入れることなく、今も掲載している。
 ステファンはボックスカーを運転しながら「サウンド・オブ・ミュージック」の数々の音楽を聴かせてくれ、そのたびに映画のシーンが鮮明に蘇り、気分が高揚したことを昨日のように想い出す。
和田義男
作品の中でトラップ邸として使用された館
 
 最も印象深かったのは、トラップ・ファミリーが過ごした美しい湖に面した黄色い館だった。上の写真は、そのとき購入した資料からコピーしたものである。当時は、公開されていなかったために立入りできず、遠くから眺めるだけだったが、このほどホテルの営業許可が下りたというニュースが流れた。今後、トラップ・ファミリーが実際に過ごし、映画のメイン・シーンとなった黄色の館に一泊するツアーも登場することが期待される。
 子供たちがボート漕ぎに夢中になって館の前で転覆したり長女が新聞配達の子と親しくなったり大佐の婚約者から見下されていた田舎娘のマリアが子供たちの信頼を勝ち得て、最後には大佐と結婚するまでのエピソードなどがたっぷりと詰め込まれ、サウンド・オブ・ミュージックの重要な舞台となった黄色の館は、一泊できれば最高の感動を覚えることだろう。機会があれば、是非、妻と共に訪れたいと思っている。〈 完 〉 2010.8.29  和田義男
  若葉して尖塔濡るゝ利休雨  北舟 

わかばして せんとうぬるる りきゅうあめ

New green leaves, the steeple getting wet by the rain of grey-green color.

【編集子が選ぶ名作】

岩塩鉱山の村ハルシュタット/世界文化遺産

岩塩鉱山の村ハルシュタット/世界文化遺産

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