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富岡(深川)八幡宮の大鳥居 |
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2005年8月12日(金)から15日(日)の間、富岡八幡宮の3年に一度の本祭りである例大祭が開催され、14日(土)の神輿連合渡御を取材した。古くから深川八幡祭(深川祭)と呼ばれ、江戸三大祭りの一つに数えられている。江戸時代から「神輿(みこし)深川、山車(だし)神田、だだっぴろいは山王様」といわれ、神輿祭(みこしまつり)として名を馳せてきた。 |
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東京都江東区富岡一丁目に鎮座する富岡八幡宮は、寛永4年(1627)永代島(えいたいじま)周辺の砂州一帯を埋め立て、約六万五百坪(20万m2)の社有地を得て創建された江戸最大の八幡神社で、「深川の八幡様」と親しまれてきた。富岡八幡宮公式サイト |
祭神は応神天皇(誉田別命 ほんだわけのみこと ) 外八柱である。 |
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富岡八幡宮本殿 |
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江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神(はちまんしん、やはたのかみ)を尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては准勅祭社になるなど、今日まで繁栄してきたが、特に、庶民の信仰は、江戸時代から現代に至るまで変わることなく受け継がれ、毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として賑わいを見せている。 |
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巨大な御本社神輿展示館 |
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日本一の大神輿 |
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江戸時代、深川に屋敷があった豪商・紀伊国屋文左衛門(きのくにや・ぶんざえもん)から八幡造り・神明造り・春日造りの三基三様の神輿が奉納され、その絢爛豪華な神輿が評判となって「みこし深川」と云われるようになった。 |
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斎藤月岑(さいとうげっしん)の「東都歳時記」によれば、江戸期の深川祭には12〜13台の山車や練り物が曳き出されていたようで、「八月十五日富賀岡(富岡)八幡宮祭禮」の絵図には、紀文の三基の神輿が描かれている。 |
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八月十五日富賀岡(富岡)八幡宮祭禮 |
八月十五日 富賀岡八幡宮 祭禮
視吾堂集(あれみどうしゅう)
武城のひんがし 深川の流れ清きわたりに 八幡宮いはゝわれおはします
この所 おのづから永代橋となんよべり
八すみの致景指をかゞなべてもかぞへ難き中に 遠く江城をのぞめば 洛陽金殿のよそほいひにたり
近く渚に行かふ舟は 濱のわたりかとうたがふ さながら男山のおもかけかよひて 和光直におかまれ給ふ
いとたふとき霊地なるべし
石清水 遠く 流れて 東路に
むべ 永き代の しまぞ 名におふ 惟足 |
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提供:村野公一さん |
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大正生まれの新聞記者で作家の槌田満文の編纂による「明治東京歳時記」には、次のように記されている。 |
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深川八幡宮祭礼 |
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八月十四日から十六日にかけて各所の八幡神社の大祭。もっとも盛なのは深川富岡八幡で、次いで市ヶ谷亀岡八幡、牛込高田穴八幡、若宮町若宮八幡、芝西大久保八幡、浅草今戸八幡などが賑やかだった。深川公園にある深川富岡八幡の祭礼は八月十五日。昔から幟祭といわれ、氏子の町々は幟を立て、軒燈を掲げた。深川一円、京橋の霊岸島付近、日本橋の北新堀、箱崎町などが氏子で、前日から神輿、山車が町内をめぐった。 |
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御本社一の宮神輿 |
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御本社二の宮神輿 |
高さ:14尺5寸(4m39cm) 屋根幅:9尺5寸(2m89cm) 重量:約4.5ton |
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高さ:10尺8寸(3m27cm) 屋根幅:7尺5寸(2m27cm) 重量:約2.0ton |
鳳凰の胸 ダイヤ7カラット
鳳凰の目 ダイヤ4カラット 1対
鳳凰の鶏冠 ルビー2,010個
狛犬の目 ダイヤ3カラット 2対 |
隅木の目 ダイヤ1カラット 4対
小鳥の目 ダイヤ1カラット 4対
屋 根 純金24kg
その他プラチナ、銀、宝石多数使用 |
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鳳凰の目 ダイヤ2.5カラット 1対 |
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氏子中の意気込みが盛んで山王祭、神田祭を凌駕するほど。三木露風は「白き手の猟人」(大正二年)に納められた詩「祭」に「八月十四、十五両日は深川大祭なり。八十あまりの神輿と数台の山車出づ。担う者一万余人、牡牛数匹、手古舞などを持って数ふ。 |
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「山車にきらめく花たばは、聖きおごりの供物なり。
僕(しもべ)となれど、身も足らはず 牛は、おづおづ曳きめぐる。・・・」 |
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一の宮神輿の黄金の鳳凰 |
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紀文の三基の神輿は、惜しくも大正12年(1923)の関東大震災で全て灰燼(かいじん)となり、以来、御本社神輿の復活は深川っ子の悲願であったが、平成3年(1991)と平成9年(1997)に、それぞれ一の宮と二の宮の神輿が奉納され、日本最大の黄金神輿が出現した。 |
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4カラットのダイヤの目 |
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本殿に向かって右奥に明治33年(1900)に建立された横綱力士碑がある。富岡八幡宮では、貞享元年(じょうきょう・がんねん)(1684)幕府の公許を受けて、初めて勧進相撲が行われ、以後年二場所の相撲興業が行われ、江戸勧進相撲発祥の地として知られるようになった。 相撲と富岡八幡宮 |
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横綱土俵入之圖 / 第十二代横綱 陣幕久五郎 |
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横綱力士碑 |
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初代明石志賀之助(あかし・しがのすけ) 以来の歴代横綱の名が刻まれた横綱力士碑は、第十二代横綱陣幕久五郎(じんまく・きゅうごろう) が発起人となり、各界の協賛を得て奉納されたもの。最新の横綱朝青龍(あさしょうりゅう)も、既に「平成十五年三月 六十八代 モンゴル 朝青龍明徳」と彫り込まれている。なお、大鳥居を入って正面参道の右側には「大関力士碑」が建立されている。 |
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新横綱が誕生すると、日本相撲協会の立会いのもとに刻名式が行われ、本殿前の石畳の上で新横綱の土俵入りが奉納されるという。 |
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総重量20tonに及ぶ横綱力士碑 |
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富岡八幡宮の境内にある伊能忠敬像の碑は、伊能測量開始200年の節目に当たる平成13年(2001)一般からの浄財を公募して建立されたもので、大鳥居をくぐって左の参道脇に建っている。 |
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近代日本地図の始祖・伊能忠敬は、隠居後50歳にして養子先の下総国(しもうさのくに)佐原村(さわらむら)(現在の千葉県佐原市)から江戸に出て、19歳年下の幕府天文方・高橋至時(たかはし・よしとき)門下に入り、西洋天文学・西洋数学・天文観測学・暦学等を学んだあと、幕府の命を受けて55歳から71歳までの17年間全国各地を測量し、大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)を完成させた。 |
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深川から測量に出発した伊能忠敬 |
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