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▲▼ 天正18年(1590)、家康が関東下降の際、佃村と大和田村の漁夫33人と住吉神社の神職・平岡権大夫好次が江戸に下った。寛永年間(1624
- 1645)に江戸鉄砲洲向かいにある百間(ひゃっけん)(約180m)四方の干潟を幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し、正保2年(1645)に定住した。彼らはこの島を故郷の摂津国佃村にちなんで「佃」(島は「佃嶋」、村は「佃村」)と命名、漁火(いさりび)を焚いて漁撈を営み、白魚(しらうお)をはじめ江戸湾の魚貝類を採捕して徳川家に献上すると共に、許可を得て日本橋の河岸(かし)小田原町で商い*、漁村として栄えていった。 |
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*これが日本橋魚河岸(にほんばし・うおがし)の起源となったといわれる。この魚河岸は、関東大震災後、隅田川河岸(かし)の築地(つきじ)に移転し、世界の生鮮食材が集まる集荷・流通拠点「東京中央卸売市場築地市場」となった。 |
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「 |
冨嶽三十六景 |
」の内「 |
武陽佃嶌 |
」 文政6年(1823)〜天保2年(1835) 葛飾北斎 |
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▲ 冨嶽三十六景(ふごくさんじゅうろっけい)は、浮世絵師・葛飾北斎が文政6年(1823年)から天保2年(1835)にかけて名峰富士が見える風景を描いた連作である。その中に武陽*佃嶌(ぶようつくだじま)があり、佃島を埋め尽くすように村落が形成され、栄えている様子が描かれている。
*武陽:江戸のこと。江戸表。 |
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佃しま住吉乃祭/名所江戸百景(1856.2-1858.10) 廣重筆
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名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)は、浮世絵師・歌川広重が安政3年(1856)〜5年(1858)に制作した連作浮世絵名所絵である。広重最晩年の作品で、その死の直前まで制作が続けられた代表作である。 |
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その一図がこの「佃しま住吉乃祭」で、隅田川の水中を渡る神輿を遠景に佃祭の様子が描かれており、独特の書体で「住吉大明神 佃島氏子中(すみよしだいみょうじん・つくだじま・うじこじゅう)」と書かれた大幟(おおのぼり)を立てて、盛大な夏祭が行われていたことが分かる。 |
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「住吉大神」と墨書された |
五反幟 |
(約21m)の立つ現代の佃島 平成24年(2012)8月3日 |
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↓大幟 |
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佃祭が開かれるときには、遠くから分かるように3組6本の大幟(高さ約21m)が建てられるが、そのそばに佃住吉講による解説板が置かれており、当時の文体による達筆で、次のように書かれている。 |
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此の大幟ハ今より約百九十年前の昔 即ち寛政十年(1798)六月大祭の時幕府の許しを請けて始めて建てしものにして以来
神輿海中渡御あるときハ必ず之れを建てる事現今ニ至るも変わることなし 彼の廣重名所図絵にも画かれて江戸名物の一つとしても有名なるものなり 佃住吉講 |
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大幟の解説板/中央区佃一丁目 |
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漁民たちが佃島に定住した翌年の正保3年6月29日(1646年8月10日)、摂津国佃村の住吉神社(現・田蓑神社)の住吉三神の分霊とともに息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)と東照御親命(
あずまてるみおやのみこと)(徳川家康)の分霊を奉遷し、祀るべく創建されたのが佃島の住吉神社である。 |
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初代宮司は、摂津国佃村住吉神社神職の弟で漁夫33人とともに江戸に移った平岡権太夫好次で、代々世襲している。宮司の名前には必ず「好」がつけられており、現在の宮司は、平岡好朋である。 |
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写真:フリー百科事典ウィキペディア |
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▼ 延宝7年(1679)に発刊された「江戸方角安見図鑑*(えどほうがくあんけんずかん)
乾(けん)」第52頁には、ほぼ現在の佃島一丁目1〜9番に相当する部分が描かれ、その一画に「すミ吉大明神」と記されている。 |
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*当時の江戸の街並みを記した図面集で、「江戸方角安見図鑑
乾」「江戸方角安見図鑑
坤」の二冊からなる。乾の巻は延宝7年(1679)3月の開板、坤の巻は延宝8年1月の板行で、蔵板は表紙屋市郎兵衛。従来の江戸絵図は、みな七尺(約210cm)四方や五尺(約150cm)四方もある大絵図であったが、この延宝図は冊子になっており、今までの大絵図のように部屋いっぱいに広げないで、机上で見られ、簡単に持ち運びできる絵図となっている。 |
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「佃嶋・住吉大明神」が記載された図面 / 江戸方角安見図鑑 乾 53-52頁 延宝7年(1679)
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資料:早稲田大学図書館 |
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江戸名所図會(えどめいしょずえ)は、江戸時代後期の天保5-7年(1834-1836)に斎藤月岑(さいとう・げっしん)が鳥瞰図を用いて著した7巻20冊の江戸名所図鑑である。絵師・長谷川雪旦(はせがわ・せったん)の挿図で知られる。 |
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その第二巻には、「佃島 住吉明神社」の見出しで、佃の渡しや隅田川(大川)、佃島住吉明神社などが描かれており、遠くからよく見えたであろう社殿や大鳥居が描かれている。また、其角の「名月やこゝ住吉のつくた嶋」の句が添えられている。 |
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佃島 住吉明神社 / 江戸名所図會第二巻 斎藤月岑著 挿図:長谷川雪旦 天保5-7年(1834-1836)
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資料:早稲田大学図書館 |
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▼ 「佃島 白魚網(しらうおあみ)」の頁では、佃島を背景に隅田川で漁り火(いさりび)を焚いて白魚漁をする佃漁師の姿が描かれており、芭蕉の「白魚に価(あたい)あるこそ恨(うらみ)なれ」の句が添えられている。当時、白魚は高価なものだったことが伺われる。 |
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白魚はもともと江戸湾にはおらず、佃の漁師たちが尾張名古屋から持ってきて繁殖させたもの。冬から春が漁期で、夜間数百隻の舟を出して河口から上ってくるのを捕獲した。 |
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白魚といえば、芭蕉が野ざらし紀行*のなかで、白魚の本場・伊勢湾は桑名の浜辺で詠んだ有名な句がある。 |
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草の枕に寝あきて まだほのぐらきうちに濱のかたに出て |
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あけぼのや しらうおしろきこと いっすん |
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初案は、「雪薄し白魚しろきこと一寸」だった。推敲の後に現在のものになったが、おかげで作品の季題は冬から春に変った。1寸は約3cmなので、芭蕉が見たのは稚魚だろう。10月桑名での作で、初案が自然であるものの、詩的価値ではこちらの方が数倍高い。芭蕉句中最高の作品の一つて、「白魚に価あるこそ恨なれ」よりも良い。
なお、「しらうお(白魚)」はシラウオ科、九州などで躍り食いで知られる「しろうお(素魚)」はハゼ科で、まったく別の魚である。家康が好んで食したのは、もちろん芭蕉が2句も詠んだ「しらうお」の方。
また、名ゼリフ「こいつは春から縁起が良いわい」で知られる河竹黙阿弥(かわたけ・もくあみ)作「三人吉三巴白浪(さんにんきちさ・ともえのしらなみ)-大川端庚申塚の場(おおかわばた・こうしんづかのば)」は、「月も朧にしらうおの・・・」で始まる。江戸では、白魚は、新春を告げる風物詩だったようである。 |
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* 野ざらし紀行は、江戸時代中期の俳諧師松尾芭蕉の紀行文。貞享元年(1684)秋の8月から翌年4月にかけて、芭蕉が門人の千里とともに出身地でもある伊賀上野への旅を記した俳諧紀行文。 |
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絵図の前後には次のような記述があり、月岑は、風光明媚な佃島の風景を絶賛している。
弥生の潮干には貴賤袖を交え 浦風に酔いを醒まし 貝拾ひあるひは磯菜摘みなんどその興殊に多し 月平沙を照らして漁火白く 蘆辺の水鶏(クイナ)波間の千鳥も 共にこの地の景色に入りて 四時の風光足らずとする事なし |
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佃島 白魚網 / 江戸名所図會第二巻 斎藤月岑著 挿図:長谷川雪旦 天保5-7年(1834-1836)
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資料:早稲田大学図書館 |
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元禄7年8月6日(1694年9月24日)に河上正吉らが講組織「佃嶋氏子中」を結成し、廣重の名所江戸百景の一図「佃しま住吉乃祭」にもその名が描かれるなど、佃祭の母体として戦前まで継承された。 |
明治時代には、維新政府の近代化政策や富国強兵殖産興業の推進により、月島(つきしま)と新佃島が埋め立てられ、広大な「月島埋立地」が形成された。また、人足寄場や監獄として利用されていた石川島が明治29年(1896)に監獄が移転して工業・居住の地となり、造船・鉄鋼を軸とした一大工業地帯になった。 |
昭和時代には晴海(はるみ)と豊海(とよみ)が埋め立てられ、住吉神社は、島に存在する唯一の由緒ある神社であったことから、全島民が氏子中(うじこじゅう)に編入されていった。 |
終戦後の混乱期を乗り越えた昭和22年(1947)、講組織「佃嶋氏子中」は「佃住吉講」と改称し、各町会・連合睦会と協力して、佃祭を執り行うようになった。 |
なお、現在、「佃島」という地名はなく、観念的に「佃島」といった場合は、狭義では現在の佃一丁目を指し、広義でもせいぜい佃一〜三丁目が限度で、埋め立て地の月島、勝どき、豊海、晴海を含めた区域は、もはや「佃島」ではない(星説)。 |
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平成24年(2012)佃祭(住吉神社大祭)のポスター
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▲ 佃祭の例大祭(れいたいさい)(神幸祭)は、表祭(おもてまつり)(本祭ほんまつり)と呼ばれ、3年に一度、住吉神社が開かれた旧暦6月29日の「例祭日」に近い日曜日をはさむ三日間に行われ、その前夜に宵宮がある。その他の年は同じ時期に小規模な裏祭(うらまつり)(陰祭かげまつり)が行われる。 |
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平成23年(2011)に本祭が行われる予定だったが、3.11東日本大震災が発生したために中止となり、陰祭に当たる今年、4年ぶりに催行された。 |
昨年、170年ぶりに宮神輿が新調され、7月24日(日)にお披露目されたが、今年初めての巡幸となるため、ポスターの中央に「新宮神輿初神幸」と書かれている。 |
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宮神輿(八角神輿)の |
海中渡御 |
と |
船渡御 |
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江戸時代から行われていた宮神輿(八角神輿)の海中渡御と船渡御は、隅田川の汚染などの影響で昭和37年(1962)に廃止されたが、平成2年(1990)には28年ぶりに船渡御が復活し、現在でも例祭中最も重要な行事の一つとなっている。
残された海中渡御や船渡御の写真には、褌一丁の氏子の姿も見られる。 |
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資料:Google地図 |
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祭の準備 |
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7月8日(水)、平成24年住吉神社大祭の準備作業が行われた。祭の事前準備は何ヵ月も前から少しずつ行われているが、大勢が集まって行う大がかりな作業は、この日が初日である。 |
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佃住吉講の講員たちは、朝7時30分、住吉神社にてお祓いを受け、お神酒をいただいてから作業を始めた。今年の潮回りは、干潮が若干遅く、小雨の中、最初に黒木鳥居(くろきとりい)の据付が行われた。 |
黒木鳥居は、丸木で作られた最も原始的な鳥居で、生木のまま皮を剥がずに使うためにその名がついた。佃のものは皮を剥いでいるので黒くはないが、路上に設置することにより、氏子町内が神域化される。 |
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大型クレーン車で |
黒木鳥居 |
を据え付ける 2012.07.08(水) 09:41 |
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大幟の柱やそれを支える抱(だき)(抱木)は、空気に触れて木が腐ってしまわないように、祭が終わると三年間佃堀の川底に埋められる。氏子たちは、祭のたびに干潮時を狙ってそれらを掘り出すという大変な作業を行う。 |
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この講員たちは、埋没していたコンクリート製の穴を掘り返している。この位置に抱木(だき)が設置され、大幟が立てられる。全部で六箇所あるので、手分けして作業する。 |
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大幟を保持する |
抱木 |
の穴を掘り返す 09:43 |
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▼ 大幟柱と抱木は、前回の祭から4年間、保存性を高めるため、この川底に埋められていた。堀に打たれている杭が空気中や水中よりも地中が一番腐りにくいことを知った佃の漁師たちの智恵なのだろう。大幟柱は、7月29日(日)に立てられ、8月1日(水)午前10時に一斉に六枚の幟旗が掲揚される。 |
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泥中に埋設保管していた大幟柱と |
抱木 |
を掘り出す作業 10:03 |
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掘り出した泥を袋に詰め、土嚢(どのう)にして一列に並べ、土嚢と外側の囲いの間に掘り起こした泥を仮置きする。大幟柱や抱木を埋設するときは、この反対の工程となる。 |
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掘り起こした泥を仮置場に移動すると、大幟柱や抱木が現れ、佃小橋の上に据え付けたクレーン車で一つずつ吊り上げる。昔は全て人力で行っていた作業なので、大変な重労働だったことだろう。 |
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撮影:鈴木猛夫 |
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撮影:鈴木猛夫 |
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▲▼
掘り出した大幟柱や抱木は、水道水で洗浄する。柱は乾燥させたあと仮置きし、抱木はコンクリート製の穴に差し込んで組み立てる。 |
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撮影:鈴木猛夫 |
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7月29日(日)、大幟柱を立てる作業が行われた。柱は三段に繋がれており、最上段は竹柱で、その上端に榊(さかき)が取り付けられている。檜(ひのき)を鉋(かんな)で削った吹き流しが付けられ、大幣(おおぬさ)のように見栄え良く風に靡くように工夫されているのが良い。 |
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榊 |
と |
檜 |
の吹き流し 2012.07.29 |
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4年間倉庫で眠っていた幟旗が佃小橋の欄干で虫干しされていた。旗は8月1日(水)の朝一斉に掲揚される。 |
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大幟柱は、大型クレーン車で電線をかわしながら吊り上げられ、その基部を抱木に沿わせて臍(へそ)を打ち、簪(かんざし)を挿して固定する。高さは12間(けん)約21m。四本の綱で保持されている。 |
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抱木 |
に取り付けられた三段の大幟柱(21m) 16:00 |
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撮影:鈴木猛夫 |
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宵 祭 |
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▼ 大祭前日の8月3日(金)に宵祭が行われた。午前10時、講元の合図で6本の大幟が一斉に揚がった。幟の位置は、江戸城から見て縁起の良い末広がりの八の字に見えるように決められたという。この幟が揚がると、いよいよ三年に一度の本祭のスタートとなる。囃子殿や獅子小屋も仕上がり、露店の的屋(てきや)が次々と店開きの準備を進める。 |
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夕刻、佃大橋を渡って佃島に入ると、氏子たちが苦労して準備した一対の大幟が佃小橋の袂(たもと)で翻っていた。その背部には大川端リバーシティ21の高層マンションが立ち並んでいる。江戸時代の氏子たちは、大幟や江戸城よりも遙かに高い建物が佃島に建設されるとは、夢にも思わなかったことだろう。 |
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よいまつり つくだこばしに おおのぼり |
The eve of
a festival, big flags at Tsukuda Small Bridge. |
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撮影:木切倉朗 |
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▼ 大川端リバーシティ21は、東京都中央区佃にある8棟の超高層マンションを中心とする大規模住宅群で、都心回帰の促進を図るため、住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)、東京都住宅局、東京都住宅供給公社、三井不動産によって進められた石川島播磨重工業(現・IHI)跡地の再開発事業によるものである。隅田川と調和した景観としてよく取り上げられ、特に永代橋(えいたいばし)からの眺めは有名。 |
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↓隅田川派川(すみだがわはせん)(東側) |
永代橋より望む大川端リバーシティ21 |
↓隅田川(西側) |
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写真:フリー百科事典ウィキペディア |
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住吉神社では、午前11時から大祭式が執り行われ、午後、宮元の大神輿「千貫神輿」の清祓いが行われた。 |
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撮影:木切倉朗 |
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▲▼ 日本各地の祭礼や芸能などに登場する獅子頭は、伎楽(ぎがく)とともに中国から渡来したといわれ、後に五穀豊穣の祈祷や悪霊(あくりょう)を払い清める破邪の霊獣として獅子信仰が生まれた。 |
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撮影:鈴木猛夫 |
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▲▼ 佃には、現在、7組14頭の獅子頭がある。それぞれの町会の意匠があり、見てまわるのも面白い。本祭初日の獅子頭宮出(ししがしらみやだし)で、宮神輿巡幸の露払いや魔除けとして拝殿に安置された三対の唐獅子が担ぎ出されて境内や町内を練り歩く様は、佃祭の最初の見所となっている。宮元の葦簀(よしず)張りの獅子小屋には、雌雄二組の獅子頭が置かれ、明日の出番を待っていた。 |
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撮影:鈴木猛夫 |
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▼ 住吉神社例大祭は神幸祭で、本殿の祭神が宮神輿に乗って御旅所まで巡幸・渡御し、一泊した後、本殿に還御する祭礼である。住吉神社の御旅所は、明治34年(1909)二号地(現在の勝どき1〜4丁目)のほぼ中央に現地有志により建立されたが、関東大震災のため昭和5年(1930)に再建。その後、昭和59年(1984)勝どき四丁目に移転し、そのそばに各町内の神輿庫が再築された。 |
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資料:Google地図 |
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撮影:鈴木猛夫 |
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▲▼ 宵宮の夕刻、勝どきの御旅所に氏子たちが集合し、参拝後、薄暮のなか高張提灯(たかはりちょうちん)を灯し、粋な揃衣(そろい)(長着)の列が佃の住吉神社へ向かった。 |
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撮影:木切倉朗 |
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撮影:鈴木猛夫 |
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撮影:鈴木猛夫 |
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拝殿前に集合した氏子たちは、平岡宮司による御祓いを受けた後、本祭の安全と成功を祈願し、住吉神社奉賛会、佃住吉講、連合睦会の手打式が行われた。 |
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撮影:木切倉朗 |
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撮影:西村昌明 |
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▼ 佃住吉講では、住吉神社への参拝のあと、大幟の下に集合し、本祭の成功を祈願して手打式が行われた。 |
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撮影:鈴木猛夫 |
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