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氏子総代の語る「やんさ祭」 |
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【編集子が選ぶ名作】 |
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びゃっこんの やんさやんさと きねのもち |
Wearing white loincloths, pounding a rice cake with mallets, shouting yansa yansa!
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「やんさ祭」610年の伝統を継承する氏子総代の |
梅木保 |
さん |
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平成21年(2009)12月27日、補充取材のため、再度、大分県中津市耶馬溪町の大野八幡神社に足を運んだところ、丁度、氏子総代の梅木保(うめき・たもつ)さんにお会いし、お話しを聞くことができた。インタビューは約20分の長きに及んだが、「やんさ祭」に寄せる熱い思いをお聞きし、大いに感動したので、ここにご紹介したい。 |
【録音内容】 臼倒しのこと、褌の締め方、最盛期の想い出、過疎化の現状と将来の展望、来年の日程(以後12月第一日曜日(来年は12月4日)に変更)、外来者の飛び込み参加歓迎(晒一反(六尺褌)を持参すれば参加可能) |
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もちつきや どろふんどしの うすたおし |
Pounding rice cakes, Men of muddy loincloths putting the mortar down.
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【編集子が選ぶ名作】 |
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▼ インタビューのあと、中津市にある山国川(やまくにがわ)の上・中流域とその支流域を中心とした景勝地・耶馬渓(やばけい)を訪れた。大正4年(1915)に北海道の大沼と静岡県の美保の松原とともに新日本三景の一つに選ばれた耶馬渓(やばけい)は、青の洞門(あおのどうもん)を初めとする景勝地として知られており、大正12年(1923)に国の名勝に指定され、昭和25年(1950)に一帯が耶馬日田英彦山(やばひたひこさん)国定公園に指定された。 |
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写真:ウィキペディア・フリー百科事典 |
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▲▼ 耶馬渓は、溶岩台地の浸食によってできた奇岩の連なる絶景で、文政元年(1818)に頼山陽(らい・さんよう)がこの地を訪れ、当時の山国谷(やまくにだに)という地名に中国風の文字を宛て、「耶馬渓天下無」と漢詩に詠んだのが、耶馬渓という名前の起こりだという。 |
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頼山陽が耶馬渓と命名したのは、現在単に「耶馬渓」と呼ばれている辺りだけであるが、その後周辺の渓谷についても「耶馬渓」という名称が使われ、本耶馬渓・裏耶馬渓・深耶馬渓・奥耶馬渓などと呼ばれている。 |
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ふゆやまじ あおのどうもん のみのあと |
Winter mountain path, the marks of chisels of Aono Domon tunnel. |
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▲▼ 青の洞門(あおのどうもん)や競秀峰(きょうしゅうほう)は、山国川上流一帯の本耶馬渓(ほんやばけい)にある。青の洞門は、日本国内の曹洞宗・羅漢寺(そうとうしゅう・らかんじ)の総本山である耆闍崛山(ぎしゃくつせん)羅漢寺の禅海和尚(ぜんかい・わじょう)が参拝客が難所を渡る際に命を落とさないよう、鑿(のみ)と金槌(かなづち)だけで岩山(いわやま)を掘り抜いたトンネルである。菊池寛(きくちかん)の名作『恩讐の彼方に』で全国にその名を知られるようになった。 |
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▼ 禅海和尚は、遂道(ずいどう)を開通させた後、利用者から通行料を徴収したことから国内初の有料道路ともいわれている。現在は車道拡幅工事により、当時の痕跡は歩行者用通路の一部に鑿(のみ)の痕跡が認められる程度となっている。また、遂道を通らずに難所であった崖側を通るルートが今も残されており、険しい場所ではあるが、鎖などを伝って通ることができる。 |
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鑿のみ |
と金槌のみでトンネルを掘った |
禅海和尚ぜんかいわじょう |
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『恩讐の彼方に』(おんしゅうのかなたに)は、大正8年(1919)1月に発表された菊池寛の短編小説である。江戸時代後期に、豊前国(大分県)の山国川沿いの耶馬溪にあった交通の難所に、青の洞門を開削した実在の僧(禅海)の史実に取材した作品である。 |
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しかし、禅海は小説の主人公である了海(俗名・市九郎)のように独りで掘り続けたのではなく、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇って掘ったもので、敵討ちの話も菊池の創作である。 |
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【「恩讐の彼方に」のあらすじ】 越後国柏崎生まれの主人公、市九郎は、主人である浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛の愛妾であるお弓と密通し、それが三郎兵衛の知るところとなり、手討ちされそうになる。とっさに反撃に出た市九郎は、逆に三郎兵衛を斬ってしまう。市九郎は、茶屋の女中上がりのお弓にそそのかされて出奔、中川家は家事不取締に付き、お家断絶と沙汰される。
東山道の鳥居峠で茶屋を開いた市九郎とお弓は、表の顔は茶屋の夫婦であるが、その裏で人斬り強盗を生業として暮らしていた。
江戸出奔から3年目の春、自らの罪業に恐れをなした市九郎は、お弓のもとを離れ、美濃国大垣在の真言宗美濃僧録の寺である浄願寺で、明遍大徳の慈悲によって出家を果たし、法名を了海と名乗り、滅罪のために全国行脚の旅に出た。
享保9年(1724)秋8月、赤間ヶ関、小倉を経て、豊前国に入った市九郎は、宇佐八幡宮に参拝し、山国川沿いにある耆闍崛山(ぎしゃくつせん)羅漢寺を目指した。樋田郷に入った市九郎は、馬子が難所である鎖渡しで事故によって亡くなったことを知り、その難所の岩場を掘削して、事故で命を落とす者を救おうという誓願を立てる。
近在の人々は、そんな市九郎を狂癡(きょうてん)(気狂い)の僧として扱い、見向きもしなかった。しかし、それが多年に渡ると、何度か石工を雇って力を合わせようとするが、難工事のゆえに、長続きすることはなく、また、市九郎一人に戻る始末であった。
月日が経って、18年目の終りになり、中津藩の郡奉行の計らいにより、ようやく石工を雇って、掘削作業を進めることができるようになった。
三郎兵衛の子、中川実之助は、父の死んだ時は3歳だった。親類の下で養育され、13歳で父の非業の死の顛末を知る。実之助は、柳生道場に入門し、19歳で免許皆伝、仇討ちのため、27歳まで諸国を遍歴し、九州に入って福岡城下から中津城下へ来た。そこで、市九郎と素性が一致する了海という僧が、山国川の難所で艱難辛苦の最中であることを知り、現場に急行する。
市九郎は、親の仇を名乗る実之助の前で、素直に斬られることを望むが、石工たちが必死に止めに入ったため、石工の統領の計らいで、洞門の開通まで仇討ちは日延べすることとなる。
市九郎と実之助の二人が並んで鑿(のみ)をふるうようになって1年半、市九郎が掘り始めてから21年目、延享3年(1746年)9月10日の夜九つ近く、ようやく洞門は開通する。二人は感激のあまり、すべてを忘れ、手を取りあって涙にむせんだ。 |
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