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2005年8月26日(金)晴 |
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比叡山延暦寺(ひえいざん・えんりゃくじ)は、西に京の都、東に琵琶湖を望む世界文化遺産である。2005年8月11日(木)、前日大阪で一泊し、朝6時起きして比叡山(叡山)を訪ねた。2001年11月に家内と初めて訪ねて以来4年ぶりである。前回は東塔(とうどう)と西塔(さいとう)の二箇所しか廻っていなかったので、今回は一人旅の身軽さで、南北の総延長7kmに点在する主要な堂塔伽藍を巡った。 |
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無動寺谷 無動寺谷は、はぐれ谷とも呼ばれるように殆ど人影を見ない。かなり急な無動寺坂を下ると、僧侶が参道を掃き清めていた。赤い燈籠は辯天堂の燈籠であり、僧侶に会わない限り、無動寺の寺域であるとは思えない。 |
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参道の無動寺坂を1kmほど下ると、左手に阿迦井があり、更に100mほど進むと、回峰行の根本道場である明王堂(みょうおうどう)に至る。この阿迦井は、行者(ぎょうじゃ)が明王堂の本尊・不動明王に捧げる阿迦(あか 清水)を取る井戸である。 |
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比叡山南部に広がる無動寺は、延暦寺という建物がないのと同様に、無動寺という名の建物はない。本堂に当たる明王堂のほか、僧坊に当たる法蔓院(ほうまんいん)や大乗院(だいじょういん)、善住院(ぜんじゅういん)などが点在している。明王堂では本尊の不動明王(ふどうみょうおう)のほか、相應和尚(そうおう・かしょう)が祀(まつ)られており、千日回峰を満行(まんぎょう)した大阿闍梨(だいあじゃり)が不動明王に仕え、後進の行者を育て、信徒のために加持祈祷を行っているという。 |
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相應和尚が開創した回峰行は、毎日休みなく比叡の峰を巡り歩く修行だったが、現在の千日回峰行は、「12年籠山」「回峰一千日」「堂入り」の全てを満行する厳しい行となっている。700日の行と難関の「堂入り」を終えると、阿闍梨(あじゃり)と呼ばれる位が与えられ、千日を満行すると最高位の大阿闍梨 (だいあじゃり)となり、京都御所に土足参内(どそくさんだい)して、国家安泰の加持を行う。 |
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延暦寺の記録に残る千日回峰行者は、平成15年(2003)9月18日に満行した藤波源信師まで47人(うち二千日が3人)、戦後では12人と極めて少ない。大阿闍梨は生き仏として崇められるが、途中で挫折する人もあり、まさに命懸けの行で、これ以上の過酷な修業は存在しないといわれる。
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無動寺坂の阿迦井/無動寺坂 |
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横川中堂の本尊・聖観音にお参りする夫妻/横川 |
八重葎阿闍梨の谷の阿迦井かな |
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蓮の花聖観音の立ち姿 |
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横川 横川(よかわ)は叡山三塔の中で最奥の比叡山北端に位置し、大原に近いところにある。無動寺谷ほどではないが寂しいところである。かつて横川を拓いた慈覚大師円仁(じかくだいし・えんにん)や延暦寺中興の祖として知られる慈恵大師良源(じけいだいし・りょうげん)が隠遁の地としたように、あらそいごとや俗事から離れて修行するには適地であった。 |
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横川に入って最初に見えてくるのが朱塗りの舞台造りで知られる横川中堂で、嘉祥元年(848)、円仁が根本観音堂として創建したものである。昭和17年(1942)の落雷で焼失したが、昭和46年(1971)に再建された。優雅な姿の本尊・木造聖観音立像は平安時代の作といわれ、国の重要文化財に指定されている。 |
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元三大師堂(がんざんだいしどう)は、古くは定心房(じょうしんぼう)とも云われ、天台宗中興の祖といわれる慈恵大師良源(元三大師)の住房の跡をついだもの。はじめは弥勒菩薩を本尊としたが、現在は元三大師の画像を本尊にしており、元三大師堂、俗に「横川のお大師さん」と呼ばれる。元三とは慈恵大師の入寂が正月三日だったことによる。正面が本堂。左の僧坊に回峰行で使われた草鞋がぶら下がっている。おみくじ発祥の寺としても知られる。 |
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元三大師堂(四季講堂)/横川 |
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堂々たる風格の釈迦堂/西塔 |
夏衣行者草鞋の大師堂 |
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釈迦堂の屋根古の夏の空 |
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西塔 西塔(さいとう)は静寂な自然の中で座禅に集中できる環境が整っていることから、比叡山の主要な修業施設が置かれているところである。バスを降りて下ると杉木立と緑滴る苔の絨毯に囲まれた「にない堂」に着く。向かって左が常行堂(じょうぎょうどう)、右が法華堂(ほっけどう)。中央に渡り廊下があり、二つ合わせて「にない堂」と呼ばれる。比叡山の僧兵であった弁慶が渡り廊下を担(かつ)いだことから「担(にな)い堂」と呼ばれるようになったという伝説が残る。 |
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にない堂から釈迦堂の前庭に落ち込むような急な坂道から見下す釈迦堂は、いにしえの大屋根が杉木立に調和し、何度見ても飽きない。蟻のように見える人間と比べると本当に大きな建物で、悠久の歴史を感じる。釈迦堂は転法輪堂(てんぽうりんどう)ともいい、天台建築様式といわれる風格を備えた堂々たる建物で、平安初期に創建された。現在の建物は織田信長による焼き討ち後、豊臣秀吉が園城寺の弥勒堂を移して手を加えたもので、比叡山の中では最古の建物である。 |
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己講坂と仄かに香る菩提樹/東塔 |
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巨大な根本中堂/東塔 |
菩提樹の影深ふして風涼し |
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法灯の光仄かに夏の昼 |
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東塔
延暦寺正門から参道を進むと、最初に論義の道場である大講堂がある。現在の建物は、昭和31年(1956)の焼失後、坂本にあった讃仏堂を移築したもの。焼失前の規模は、九間四面二層の堂々とした堂宇であったという。国の重要文化財である大講堂の中は自由に参観できる。御本尊は大日如来座像。その両脇の檀上に比叡山で修学した諸宗派の祖師像が祀られており、比叡山が日本仏教の母なる山であることを改めて実感する。 |
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大講堂の奥の石段の坂を已講坂(いこうざか)という。学問を究めた僧侶の階位で、最高の探題の次が已講(いこう)。五年に一度大講堂で行われる法華大会の講師をつとめる。大会のため入堂する際、已講だけが問答往復の想をねりながらこの坂を登り、菩提樹の元で意を決して入堂するという。釈迦が菩提樹の下で悟りを得た故事に習うものという。 |
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已講坂(いこうざか)を下ると左手に根本中堂へ誘う広い坂道がある。白い灯籠と提灯(ちょうちん)が何列にも飾られ、夜は幽玄の世界が現出することだろう。根本中堂は幾度も災禍に遭い焼失したが、その度に再建された。現在の建物は、信長による延暦寺焼討ち(元亀の法難)の後、寛永19年(1642)に徳川家康によって再建された銅板葺き入母屋造りで、幅37.6m、奥行23.9m、(間口11間・奥行き6間)、屋根高24.2mの大建築である。昭和28年(1954)国宝に指定された。 |
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根本中堂・内陣の須彌壇 (しゅみだん)の奥の厨子(ずし)の中に、最澄が自ら彫り上げたといわれる本尊・秘仏薬師如来が安置されている。その前に三体の吊り燈籠が横に並べられ、和蝋燭(わろうそく)の仄かな明かりを放っている。日中は外から差し込む光線が強く、火が点っているとは思えないほどに微かな明かりである。これが最澄以来守り継がれてきた「不滅の法灯」である。 |
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東塔と並ぶ阿弥陀堂/東塔 |
朱燃ゆる堂塔今日の暑さかな |
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大講堂から西に150mばかり行った小高い一角に戒壇院がある。更に西に進むと緩やかな坂がやがて石段に変わる。長い石段の最上段に法華総持院の阿弥陀堂と東塔(とうとう)が建つ。法華総持院は、平安初期、滋覚大師円仁(じかくだいし・ えんにん)が創建したもので、昭和初期に再建された。円仁(えんにん)が入唐中に見た唐都長安・青龍寺の鎮国道場を模して天台密教の根本道場とした。東塔(とうとう)、阿弥陀堂、灌頂堂(かんじょうどう)などの総称が法華総持院である。 |
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今回の旅は、無動寺谷に行くことが最大の目的だった。道中、アポを取った阿闍梨に会うために東京から来たという若い女性に出会い、二人で「そば喰ひ木像」を見た。彼女はお目当ての阿闍梨が何処にいるのか分からずに困っていたので、僧侶に尋ねるのが一番良い方法だと言って分かれた。物質文明にタップリと浸かってしまった現代人は、精神文化が乏しいといわれて久しい。比叡山には、現代の若者を惹きつける何かが存在するのだろう。無動寺谷に住む阿闍梨は、彼女の心に爽やかなビタミン剤を与えてくれるに違いない。 |
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交通機関の発達で1日で比叡山山中を巡り、夜には500kmも離れた東京の我が家に帰ることができる高度な科学文明を謳歌する現代。修業僧は未だに1200年前の厳しい戒律に身を委ねている。日本宗教の母山・比叡山であるからこそ、伝統と格式ある宗教文化が今なお存続しているのだろう。不滅の法灯がそれを象徴している。汗一升の旅だったが、宗教の奥深さを垣間見ることができ、心を満たされた旅だった。 |
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