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2005年8月26日改訂

今 日

昨 日

♪栄華の墓所 TAM Music Factory

拡大写真(1600x1200)421KB           

諸鬘もろかずら

のたりのたりと

牛車ぎっしゃ

かな  北舟 

2000年7月31日開設

牛車(葵祭/京都市)

牛車(葵祭/京都市)

 

 

3/5
 

2005年2/5

2005年3/5

2005年4/5

目次

2005年8月26日(金)晴
 
■■■     「夏の叡山延暦寺」アップ! ■■■
 
   比叡山延暦寺(ひえいざん・えんりゃくじ)は、西に京の都、東に琵琶湖を望む世界文化遺産である。2005年8月11日(木)、前日大阪で一泊し、朝6時起きして比叡山(叡山)を訪ねた。2001年11月に家内と初めて訪ねて以来4年ぶりである。前回は東塔(とうどう)と西塔(さいとう)の二箇所しか廻っていなかったので、今回は一人旅の身軽さで、南北の総延長7kmに点在する主要な堂塔伽藍を巡った。  
 

 
  無動寺谷 無動寺谷は、はぐれ谷とも呼ばれるように殆ど人影を見ない。かなり急な無動寺坂を下ると、僧侶が参道を掃き清めていた。赤い燈籠は天堂の燈籠であり、僧侶に会わない限り、無動寺の寺域であるとは思えない。  
 参道の無動寺坂を1kmほど下ると、左手に阿迦井があり、更に100mほど進むと、回峰行の根本道場である明王堂(みょうおうどう)に至る。この阿迦井は、行者(ぎょうじゃ)が明王堂の本尊・不動明王に捧げる阿迦(あか 清水)を取る井戸である。
 比叡山南部に広がる無動寺は、延暦寺という建物がないのと同様に、無動寺という名の建物はない。本堂に当たる明王堂のほか、僧坊に当たる法蔓院(ほうまんいん)や大乗院(だいじょういん)、善住院(ぜんじゅういん)などが点在している。明王堂では本尊の不動明王(ふどうみょうおう)のほか、相應和尚(そうおう・かしょう)が祀(まつ)られており、千日回峰を満行(まんぎょう)した大阿闍梨(だいあじゃり)が不動明王に仕え、後進の行者を育て、信徒のために加持祈祷を行っているという。
 相應和尚が開創した回峰行は、毎日休みなく比叡の峰を巡り歩く修行だったが、現在の千日回峰行は、「12年籠山」「回峰一千日」「堂入り」の全てを満行する厳しい行となっている。700日の行と難関の「堂入り」を終えると、阿闍梨(あじゃり)と呼ばれる位が与えられ、千日を満行すると最高位の大阿闍梨 (だいあじゃり)となり、京都御所に土足参内(どそくさんだい)して、国家安泰の加持を行う。
 延暦寺の記録に残る千日回峰行者は、平成15年(2003)9月18日に満行した藤波源信師まで47人(うち二千日が3人)、戦後では12人と極めて少ない。大阿闍梨は生き仏として崇められるが、途中で挫折する人もあり、まさに命懸けの行で、これ以上の過酷な修業は存在しないといわれる。 
 

無動寺坂の阿迦井/無動寺坂

 

横川中堂の本尊・聖観音にお参りする夫妻/横川

八重葎阿闍梨の谷の阿迦井かな

 

蓮の花聖観音の立ち姿

無動寺坂の阿迦井/無動寺坂   横川中堂の本尊・聖観音にお参りする夫妻/横川

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  横川 横川(よかわ)は叡山三塔の中で最奥の比叡山北端に位置し、大原に近いところにある。無動寺谷ほどではないが寂しいところである。かつて横川を拓いた慈覚大師円仁(じかくだいし・えんにん)や延暦寺中興の祖として知られる慈恵大師良源(じけいだいし・りょうげん)が隠遁の地としたように、あらそいごとや俗事から離れて修行するには適地であった。  
   横川に入って最初に見えてくるのが朱塗りの舞台造りで知られる横川中堂で、嘉祥元年(848)、円仁が根本観音堂として創建したものである。昭和17年(1942)の落雷で焼失したが、昭和46年(1971)に再建された。優雅な姿の本尊・木造聖観音立像は平安時代の作といわれ、国の重要文化財に指定されている。  
   元三大師堂(がんざんだいしどう)は、古くは定心房(じょうしんぼう)とも云われ、天台宗中興の祖といわれる慈恵大師良源(元三大師)の住房の跡をついだもの。はじめは弥勒菩薩を本尊としたが、現在は元三大師の画像を本尊にしており、元三大師堂、俗に「横川のお大師さん」と呼ばれる。元三とは慈恵大師の入寂が正月三日だったことによる。正面が本堂。左の僧坊に回峰行で使われた草鞋がぶら下がっている。おみくじ発祥の寺としても知られる。  
 

元三大師堂(四季講堂)/横川

 

堂々たる風格の釈迦堂/西塔

夏衣行者草鞋の大師堂

 

釈迦堂の屋根古の夏の空

元三大師堂(四季講堂)/横川   堂々たる風格の釈迦堂/西塔

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西塔 西塔(さいとう)は静寂な自然の中で座禅に集中できる環境が整っていることから、比叡山の主要な修業施設が置かれているところである。バスを降りて下ると杉木立と緑滴る苔の絨毯に囲まれた「にない堂」に着く。向かって左が常行堂(じょうぎょうどう)、右が法華堂(ほっけどう)。中央に渡り廊下があり、二つ合わせて「にない堂」と呼ばれる。比叡山の僧兵であった弁慶が渡り廊下を担(かつ)いだことから「担(にな)い堂」と呼ばれるようになったという伝説が残る。

 
   にない堂から釈迦堂の前庭に落ち込むような急な坂道から見下す釈迦堂は、いにしえの大屋根が杉木立に調和し、何度見ても飽きない。蟻のように見える人間と比べると本当に大きな建物で、悠久の歴史を感じる。釈迦堂は転法輪堂(てんぽうりんどう)ともいい、天台建築様式といわれる風格を備えた堂々たる建物で、平安初期に創建された。現在の建物は織田信長による焼き討ち後、豊臣秀吉が園城寺の弥勒堂を移して手を加えたもので、比叡山の中では最古の建物である。  
 

己講坂と仄かに香る菩提樹/東塔

 

巨大な根本中堂/東塔

菩提樹の影深ふして風涼し

 

法灯の光仄かに夏の昼

己講坂と仄かに香る菩提樹/東塔   巨大な根本中堂/東塔

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  東塔  延暦寺正門から参道を進むと、最初に論義の道場である大講堂がある。現在の建物は、昭和31年(1956)の焼失後、坂本にあった讃仏堂を移築したもの。焼失前の規模は、九間四面二層の堂々とした堂宇であったという。国の重要文化財である大講堂の中は自由に参観できる。御本尊は大日如来座像。その両脇の檀上に比叡山で修学した諸宗派の祖師像が祀られており、比叡山が日本仏教の母なる山であることを改めて実感する。  
   大講堂の奥の石段の坂を已講坂(いこうざか)という。学問を究めた僧侶の階位で、最高の探題の次が已講(いこう)。五年に一度大講堂で行われる法華大会の講師をつとめる。大会のため入堂する際、已講だけが問答往復の想をねりながらこの坂を登り、菩提樹の元で意を決して入堂するという。釈迦が菩提樹の下で悟りを得た故事に習うものという。  
   已講坂(いこうざか)を下ると左手に根本中堂へ誘う広い坂道がある。白い灯籠と提灯(ちょうちん)が何列にも飾られ、夜は幽玄の世界が現出することだろう。根本中堂は幾度も災禍に遭い焼失したが、その度に再建された。現在の建物は、信長による延暦寺焼討ち(元亀の法難)の後、寛永19年(1642)に徳川家康によって再建された銅板葺き入母屋造りで、幅37.6m、奥行23.9m、(間口11間・奥行き6間)、屋根高24.2mの大建築である。昭和28年(1954)国宝に指定された。  
   根本中堂・内陣の須彌壇 (しゅみだん)の奥の厨子(ずし)の中に、最澄が自ら彫り上げたといわれる本尊・秘仏薬師如来が安置されている。その前に三体の吊り燈籠が横に並べられ、和蝋燭(わろうそく)の仄かな明かりを放っている。日中は外から差し込む光線が強く、火が点っているとは思えないほどに微かな明かりである。これが最澄以来守り継がれてきた「不滅の法灯」である。  
 

東塔と並ぶ阿弥陀堂/東塔

朱燃ゆる堂塔今日の暑さかな

東塔と並ぶ阿弥陀堂/東塔

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   大講堂から西に150mばかり行った小高い一角に戒壇院がある。更に西に進むと緩やかな坂がやがて石段に変わる。長い石段の最上段に法華総持院の阿弥陀堂と東塔(とうとう)が建つ。法華総持院は、平安初期、滋覚大師円仁(じかくだいし・ えんにん)が創建したもので、昭和初期に再建された。円仁(えんにん)が入唐中に見た唐都長安・青龍寺の鎮国道場を模して天台密教の根本道場とした。東塔(とうとう)、阿弥陀堂、灌頂堂(かんじょうどう)などの総称が法華総持院である。  
 

 
   今回の旅は、無動寺谷に行くことが最大の目的だった。道中、アポを取った阿闍梨に会うために東京から来たという若い女性に出会い、二人で「そば喰ひ木像」を見た。彼女はお目当ての阿闍梨が何処にいるのか分からずに困っていたので、僧侶に尋ねるのが一番良い方法だと言って分かれた。物質文明にタップリと浸かってしまった現代人は、精神文化が乏しいといわれて久しい。比叡山には、現代の若者を惹きつける何かが存在するのだろう。無動寺谷に住む阿闍梨は、彼女の心に爽やかなビタミン剤を与えてくれるに違いない。  
 

 
   交通機関の発達で1日で比叡山山中を巡り、夜には500kmも離れた東京の我が家に帰ることができる高度な科学文明を謳歌する現代。修業僧は未だに1200年前の厳しい戒律に身を委ねている。日本宗教の母山・比叡山であるからこそ、伝統と格式ある宗教文化が今なお存続しているのだろう。不滅の法灯がそれを象徴している。汗一升の旅だったが、宗教の奥深さを垣間見ることができ、心を満たされた旅だった。  

2005年8月20日(土)晴
 
■■■     「鎌倉の蓮の花」アップ! ■■■
 
   2005年7月30日(土)の朝4時起きして一番電車に乗り、鎌倉に行って蓮の花を激写してきた。鶴岡八幡宮は、康平6年(1063)に源頼義(みなもとのよりよし)が奥州を平定して鎌倉に凱旋した際、源氏の氏神として京都にある岩清水八幡宮を現在の材木座元八幡の地に勧請したのが始まりという。治承4年(1180)、源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に入ると、頼朝は直ちに八幡宮を現在地に遷座させ、建久2年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふさわしい姿に整えた。  
   寿永元年(1182)に弦巻田と呼ばれる社前の水田3町を池に改め、源平池を造成した。江戸時代には向かって右(東)側の源氏池に3つ、左(西)側の平家池に4つの島が築かれていたが、三は産、四は死を意味し、源氏の繁栄と平家の滅亡を表していたという。往時、源氏池には白蓮(びゃくれん)が、平家池には紅蓮(べにはす/こうれん)が植えられていたというが、今は双方とも殆どが白蓮である。  
 

 最初、平家池、続いて源氏池に行った。太鼓橋の右(東側)にある源氏池には、現在二つの島があり、大きな西側の島(写真の白幟)に旗上弁天社(はたあげべんてんしゃ)が鎮座する。ここには北条政子が平家の滅亡を祈願した弁財天座像(国重要文化財)が祀られていたが、現在は鎌倉国宝館に寄託されている。

 
 

大輪の白蓮(鶴岡八幡宮平家池)

大輪の白蓮(鶴岡八幡宮平家池)

拡大写真(1200X900)243KB  2005.7.30  0855

  白蓮の大輪ひとつ平家池   北舟 
 
   源平池の蓮の花を撮影したあと、一旦鎌倉駅前に戻り、ルノワールという喫茶店でモーニングサービスの朝食をとり、汗だくの身体を休ませたあと、駅東口7番乗り場から久里浜行き40番のバスに乗って材木座に建つ光明寺(こうみょうじ)に向かった。  
   鎌倉では珍しい浄土宗の大本山・光明寺は、正式には天照山蓮華院光明寺といい、第四代執権・北条経時(ほうじょう・つねとき)が仁治元年(1240)法然(ほうねん)の孫弟子・然阿良忠(ねんあ・りょうちゅう)上人(1199〜1287)を開山として創建した蓮花寺を、第五代執権・北条時頼(ほうじょう・ときより)が寛元1年(1242)材木座に移して光明寺と改名したもので、浄土宗関東総本山である。  
   本堂の左奥には蓮の花で有名な小堀遠州作と伝わる蓮池の記主園がある。internetで「鎌倉 蓮」で検索して知ったものだが、こじんまりした庭園に咲く紅蓮が素晴らしかった。記主園は記主禅師にちなむ庭園である。  
   蓮の花は、最初の日の朝、蕾の先端が少し緩んで少し咲き、直ぐに閉じてしまう。次の日はもう少し開いてまた閉じる。次の日はもう少し。開いて閉じてを繰り返して4日目に大きく開花したあと、散ってしまうという。蓮の花はとてもはかない。美人薄命、人生の諸行無常を象徴しているようでもある。  

2005年3月15日(月)晴〜雨
 
■■■     俳句「海の風景」第七集 ■■■
 
   二年前の盆休みに句集のコメントを記載してもう2年経つ。今日、300句を超えたため、一集を50句単位にしているので、第七集を追加した。最近は、毎日100人前後のゲストがあり、俳句も手を抜けなくなった。五年間で5万件を超え、リピーターも増えている。フォトギャラリーに説明文を加え、BGMを設定し、そして俳句を挿入するという作業は、大変だが、馴れてしまうと結構楽しいものだ。  
   下手な俳句も、たまには自己満足できるものが増えてきた。何より、英訳を施すことで、俳句の意味がより鮮明になり、深みを増してくるように思う。英訳も最近はコツを覚え、どう訳して良いか分からないようなことはなくなった。英訳できないような句はあり得ないし、あったとすればそれは悪首なのだろう。俳句に写真と英訳をつけ、解説する。このような構成の句集は私以外には存在しない。  
 

拡大写真(1600x1300)471KB                

群青の海に入りたる神輿かな   北舟 

2001年7月16日制作

江ノ島天王祭(神奈川県藤沢市)

俳句「海の風景」第七集のカバー写真

 
   「海の風景」というタイトルも、陸に上がった河童となってしまった今では、ふさわしくないかも知れないが、せめて、カバー写真だけでも海の風景を入れて続けていきたいと思う。どこまで続くか分からないが、「継続は力なり」を信じて、やれるところまでやってみたい。  

2005年8月15日(月)曇
 
■■■     「わっしょい!深川祭(速報版)」アップ! ■■■
 
   2005年8月14日(日)、東京都江東区富岡に鎮座する富岡八幡宮例大祭の連合渡御が行われた。古くからこの祭は深川祭と呼ばれ、江戸三大祭りの一つに数えられてきた。江戸時代から「神輿深川、山車神田、だだっぴろいは山王様」といわれているように、神輿祭りとして名を馳せてきた。  
   今年は三年に一度の本祭り。絶好の祭り日和に恵まれ、54基の町内神輿が力水に濡れ鼠になりながら、終日「わっしょい!わっしょい!」と威勢の良い掛け声と共に、歩行者天国の車道を練り回った。  
 

力水の降り注ぐ中を行く神輿 / 駒番八:東陽二

 

隅田川に架かる永代橋の神輿差し / 駒番三:石島

 深川の水迸る夏祭

 

濡れ鼠永代橋の神輿差し

力水の降り注ぐ中を行く神輿 / 駒番八:東陽二   隅田川に架かる永代橋の神輿差し / 駒番三:石島

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   祭りの掛け声は「ワッショイ!」だと思っていたが、東京の祭りは「セイヤッ」に変質してしまっている。嬉しいことに、この深川祭だけは日本伝統の掛け声「ワッショイ!」を守っている。ただし、アクセントは、「ワッ」ではなく、「ショイ」の方にあるので、少し違和感を感じた。  
 

赤褌の棒端 / 駒番十九:枝川

 

神前で宙に舞う神輿 / 駒番十三:新川一南

 棒端の汗一升の法被かな

 

宮前の波立つ神輿差し比べ

赤褌の棒端 / 駒番十九:枝川   神前で宙に舞う神輿 / 駒番十三:新川一南

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拡大写真(1400X1050)408KB

 
 

 祭り衣装は、法被にハンダコ姿。殆どの町内が衣装統一をはかり、ふんどしを禁じているという。残念に思っていたが、堂々と尻からげして赤褌を衆目に晒している人がいた。深川にもまだ粋な江戸っ子が健在である。

 
 
 
    深川祭は別名「水かけ祭り」といわれるだけあって、氏子たちは力水を頭から被ってビショビショになりながら神輿を担いでいた。水でも掛けてやらないと暑くてやってられないからだろう。私もペットボトルを二本空にしたが、暑くて倒れそうだった。(^^;  
   日中、4時間にわたり、暑い夏の祭典を激写し、大量の画像を切り取ってきた。本日、とりあえず速報版を作成した。後日、正規の作品が完成するまで、江戸下町の威勢の良い夏祭りの雰囲気を味わって頂きたい。  

2005年8月13日(土)曇
 
■■■     「函館初夏の旅」アップ! ■■■
 
   美しい花が咲き乱れる最良のシーズンを迎えた初夏の北海道。2005年7月11日(月)、一泊二日の日程で道南の中心都市・函館に旅した。羽田空港から函館空港までの1時間20分のフライトは、我が家から羽田に行くよりも早い。函館便は連日満席で、観光客で賑わっていた。  
   「はこだて」の地名の由来は、ウスケシ(アイヌ語で湾の端)に館を築き、それが箱に似ていることから「箱館」になったという。明治2年(1869)に蝦夷(えぞ)は北海道になり、箱館も函館に改められた。  
 

石川啄木像/大森浜(函館)

 

青空の聖母/トラピスチヌ修道院(函館)

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石川啄木像/大森浜(函館)   青空の聖母/トラピスチヌ修道院(函館)

浜薔薇の浜啄木の散歩道

 

夏の空白き聖母の微笑みぬ

 
   函館港は、その巴の形から巴港(ともえこう)といわれ、安政6年(1859)日米通商友好条約により、横浜、長崎と共に日本初の国際貿易港として開港し、港から函館山のふもと一帯は、欧米文化の影響を受けて教会や洋館、石畳の坂道などが建設された。現在も異国情緒溢れる街並みが残り、人気の観光スポットとして賑わっている。  
 

 
 

 私は平成10年(1998)春から2年間函館市に単身赴任していたので、函館のことは何でも知っているつもりだ。 冬季は、毎日、温泉・サウナ付き銭湯に通ったことや、マウンティン・バイクで1万kmを達成したことなど、楽しい想い出が沢山ある。しかし、アルバムを開くと、殆どが家族の記念写真で、使える写真は皆無だった。そこで一念発起して函館を激写してきたのが今回の作品である。 函館は異国情緒豊かで、素晴らしい観光資源が多く、私の大好きな街の一つである。

 
 

函館山の夜景

 
   中でも私の一押しは、函館山の夜景である。日本一の折り紙を付けても良いほどで、掛け値なしに素晴らしい。次男も非常に気に入り、先週の日曜日の夜、夏休みで登った函館山山頂から携帯電話があり、三度目にしてやっと夜景を見ることができた感動を伝えてきた。それまでの二回は霧や雲に阻まれて見えなかったのである。道南に旅行されるときは、是非、函館で一泊し、絶景の夜景を堪能されることをお勧めする。  

 
2005年7月31日(日)晴
 
■■■     鎌倉の蓮の花速報! ■■■
 
   鶴岡八幡宮公式サイトのトップページに蓮の花があり、今が見頃であることから、昨日の朝4時起きして一番電車に乗り、鎌倉に行って蓮の花を激写してきた。花の撮影には絶好の曇り空のもと、朝7時半ころ八幡宮に着くと、入口の太鼓橋の左右にある源平池(げんぺいいけ)では、既にアマチュア・カメラマンが何人か三脚を据えて蓮の花を撮影していた。  
   鶴岡八幡宮は、寿永元年(1182)に弦巻田と呼ばれる社前の水田3町を池に改めた。江戸時代には向かって右(東)側の源氏池に3つ、左(西)側の平氏池に4つの島が築かれていたが、三は産、四は死を意味し、源氏の繁栄と平氏の滅亡を表していたという。現在、源氏池には二つの島があり、大きな西側の島(写真の白幟)に旗上弁天社が祀られている。往時、源氏池には白蓮(びゃくれん)が、平家池には紅蓮(べにはす/こうれん)が植えられていたというが、今は双方とも殆どが白蓮である。  
 

源氏池の白蓮(鶴岡八幡宮)

源氏池の白蓮(鶴岡八幡宮)

パノラマ写真(2600X900)445KB  2005.7.30  0855

  白蓮や源氏の池の白幟   北舟 
 
   いつものようにフリーハンド・フルオートの和田流で源平池の白蓮を激写したあと、一旦鎌倉駅前に戻り、ルノワールの複製画が飾られているルノワールという喫茶店でモーニングサービスの朝食をとり、汗だくの身体を休ませたあと、駅東口7番乗り場から久里浜行き40番のバスに乗って光明寺(こうみょうじ)に向かった。15分ほどで光明寺前で下車。案内標識がなかったので、帰りのバス待ちの観光客に聞くと、角を曲がった直ぐにあった。歩いて1分ほどだが、標識を出しておくべきだろう。  
 

平家池の白蓮(鶴岡八幡宮)

 

光明寺の紅蓮

平家池の白蓮(鶴岡八幡宮)   光明寺の紅蓮

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  紅蓮のひときは映える寺の朝   北舟 
蓮(ハス) lotus :浮き葉(水面に浮いた葉)と立ち葉(水面より高く上がる葉)があり、花は水面より高く上がって咲
           き、葉の表面に撥水性(はっすいせい)がある。
睡蓮(スイレン) water lily :浮き葉のみで花は水面で咲き、葉に撥水性がない。
          参照: 初夏の小倉城(八坂神社) 例外: 熱帯睡蓮

紅蓮と塩辛蜻蛉(光明寺)

 

散りゆく花びら(光明寺)

紅蓮と塩辛蜻蛉(光明寺)   散りゆく花びら(光明寺)

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  花びらをのせて揺れをり蓮浮葉   北舟 
 
   鎌倉では珍しい浄土宗の大本山・光明寺は、第四代執権・北条経時(ほうじょう・つねとき)が仁治元年(1240)法然(ほうねん)の孫弟子・然阿良忠(ねんあ・りょうちゅう)上人(1199〜1287)を開山として創建した蓮花寺を、第五代執権・北条時頼(ほうじょう・ときより)が寛元1年(1242)材木座に移して光明寺と改名したもので、浄土宗関東総本山である。開山・然阿上人は、弘安10年(1287)89歳で入寂。後に伏見天皇より「記主禅師(きしゅ・ぜんし)」の謚号(しごう)を賜った。  
   山門は鶴岡八幡宮の社門を移築したものといわれ、現在鎌倉において最大の二重門である。本堂の左には蓮の花で有名な小堀遠州作と伝わる蓮池の記主園(きしゅえん)がある。internetで「鎌倉 蓮」で検索して知ったものだが、こじんまりした庭園に咲く紅蓮が素晴らしかった。  
   光明寺の蓮は、ロマン溢れる古代蓮として知られており、二千年前の蓮が現代に花をつけている。古代蓮は、大賀一郎博士が昭和26年(1951)千葉県検見遺跡の泥炭層で発見した縄文時代の蓮の実3個のうちの1個から発芽させたもので、大賀蓮とも呼ばれている。  
 

光明寺記主園の蓮

光明寺記主園の蓮

パノラマ写真(2000X1050)462KB  2005.7.30  1035

  光明寺廻廊に座す蓮見かな   北舟 
 
   京都の高い拝観料をとる商魂たくましいお寺と違い、鎌倉のお寺や神社はどこも無料で開放しており、私が鎌倉が好きになったのはその寛大さに心を打たれたせいもある。そのお陰で、汗だくではあったが、たっぷり4時間をかけて840枚1340MBの写真を撮影することができた。後日「鎌倉の蓮の花(仮称)」として、作品に取りまとめたいと思う。乞うご期待!  

2005年7月29日(金)晴  水馬水面の空の交尾かな
 
■■■     初夏の小倉城 ■■■
 
   台風一過、昨日は暑い土用の丑の日だったが、去る6月30日(木)に福岡県北九州市にある小倉城を撮影した作品ができあがり、「初夏の小倉城」というタイトルでアップした。世界の名城シリーズもこれで17編を数えることになった。  
   私は、平成3年(1991)春から2年間北九州市に単身赴任し、小倉に住んでいた。そこで初めてマウンティンバイクを購入し、余暇には市内を走り回った。特に皿倉山(さらくらやま)山系はメインコースだった。平成10年春、函館に単身赴任中、走行距離が10,000km(地球1/4)を突破した。小倉は思い出深い地である。  
 

三角形の天守閣

三角形の天守閣

パノラマ写真(1400X1050)242KB

 
   小倉は12年ぶりの訪問である。当時はまだ写真に熱中していたわけではなかったので、小倉城の天守閣に上ったときもそれほどの感激は伴わなかった。しかし、今回再度見直してみると、鉄筋コンクリートで再建した城であるために文化財としての指定はないが、とても素晴らしい城だと思った。  
   小倉の中心地にある勝山公園そのものが小倉城の領域で、天守閣をはじめ満々と水を湛えるお濠や八坂神社とともに、市民のオアシスとしてゆとりある緑空間を形成している。夏には小倉祗園太鼓の乱れ打ちが鳴り響く小倉城は、小倉っ子の誇りと心意気を感じる名城である。  
   日本の城は武士の象徴で、日本人の琴線に触れるものがあり、日本人のアイデンティティを感じる。そういう意味で、城だけでなく、展示品などをじっくりと見るのが楽しい。封建時代の悪い面も沢山あるが、ジョージ・ルーカスがスターウォーズの第6作・完結編まで一貫してこだわったジェダイの騎士が持つライト・セーバーが日本の剣のコピーで、剣舞を取り入れた動作を見るにつけ、日本人として生まれたことに誇りを持てるものが沢山あることに感動する。これも齢(よわい)を重ねてきたことによる心情の変化なのかも知れない。  

 
2005年7月22日(金)晴  知床の険しき山谷袋角
 
■■■     知床の蝦夷鹿 ■■■
 
   2005年7月20日(水)21日(木)と一泊二日の日程で道東に行った。初日は羽田から根室中標津(ねむろなかしべつ)空港に入り、羅臼町(らうすちょう)に一泊。二日目は釧路空港から羽田に戻ってきた。  
   2005年7月14日(木)、南アフリカ・ダーバンで開かれた国連教育科学文化機関(ユネスコ)の第29回世界遺産委員会で、北海道・知床(しれとこ)の世界自然遺産への登録が決まった。日本国内の自然遺産は、屋久島(鹿児島県)、白神山地(しらかみさんち)(青森、秋田県)に次いで3番目で、海を含んだ自然遺産は知床が初めてである。  
 

知床半島・羅臼町

冬場、羅臼岳(らうすだけ)から吹き下ろす羅臼颪(らうすおろし)はすさましいという。この日湿った風が吹き、雲が流れていた。

知床半島・羅臼町

パノラマ写真(2000X768)317KB 撮影:国後展望台 2005.07.21 0855

 
   その一週間後に羅臼町に行ったのだが、観光客は着実に増えており、先の三連休は非常に混み合ったという。ウィークデーも観光客がかなり来ており、道の駅の駐車場は満杯だった。知床が世界遺産になって観光事業者は非常に喜んでいるが、「魚の城下町」を目指す漁業者は、全く歓迎していないようだった。海上にも規制が及ぶため、自然保護や環境保全の立場から、近い将来、羅臼昆布の採捕ができなくなったり、生態系を維持するために海馬(とど)の餌となる魚類を漁獲できなくなるかも知れないなどと、心配しているようだ。  
 

 
   羅臼では、ホテル峰の湯に宿泊した。テレビドラマ「北の国から 2002 遺言」で、ロケの一行が泊まったホテルで、羅臼第一ホテルと1・2を争っているという。ホテルの裏は羅臼川が流れており、蝦夷鹿(えぞしか)が毎日やってくるというので、チェックインのあと早速カメラを持ってホテルの裏に行くと、4頭の野生の蝦夷鹿と出会うことができた。  
 

可愛い尻尾の若い牡鹿

 

犬の接近に警戒

可愛い尻尾の若い牡鹿   犬の接近に警戒

拡大写真(1200x900)396KB

 

拡大写真(1200x900)387KB

 牡鹿(おじか)は生後3年目の春から角を生やし始め、その後、毎年春になると角(つの)が生え変わる。蝦夷鹿も同じで、毎年この時期は、袋角(ふくろづの)と呼ばれる成長過程にある瑞々しい角を生やしている。鹿の袋角から作る生薬(しょうやく)は鹿茸(ろくじょう)と呼ばれ、中国では三大妙薬(麝香*じゃこう、牛黄**ごおう、鹿茸***ろくじょう)の一つで、三千年以上の昔から滋養強精の最高級漢方薬として珍重されている。

*麝香:ジャコウジカの麝香嚢(じゃこうのう)から製した黒褐色の粉末で、芳香が強く、香料のほか不老長寿の漢方薬として珍重される。詳しくは→ 麝香
**牛黄:牛の胆嚢、またはその付近に生じた結石。造血作用、中枢性鎮痙作用、鎮静作用、解熱、強心作用、および血管収縮、血圧上昇作用などがある。詳しくは→ 牛黄
***鹿茸: 強心・強精・造血作用などがあり、全身の活動能力のアップや発育促進、インポテンツ、貧血などに使用される。詳しくは→ 鹿茸

羅臼川を渡る蝦夷鹿

 

(ふき)を喰む蝦夷鹿

羅臼川を渡る蝦夷鹿   蕗を喰む蝦夷鹿

拡大写真(1200x900)317KB 

 

拡大写真(1200x900)365KB 

 
   私が近づいても逃げる様子もなく、まるで私のためにポーズをとってくれているようだったので、じっくりと撮影することができた。途中で、ホテルが飼っている犬がチェーンを外されてやってきたため、羅臼川を渡って対岸に避難してしまった。しかし、考えてみると、犬のお陰で川を渡るシーンや蕗(ふき)を食べている様子を写すことができたので、超ラッキーという他はない。(^^; 二日間で1000枚近く撮影し、道東の初夏の風景を切り取ってきたので、後日「道東初夏の旅(仮称)」として作品に纏めたいと思う。乞うご期待!  

2005年7月16日(土)曇  見下ろせば街の煌めき夏夕べ
 
■■■     開設5周年! ■■■
 
 

アクセス倍増

 
   早いもので、今日Wa☆Daフォトギャラリーは満5歳の誕生日を迎えた。オープン以来、2005年7月16日0000までの5年間のアクセス数は、1,074,277件だった。1年前は10日で1万件のアクセスだったが、去年の12月中旬以降現在まで5日で1万件のペースに倍増した。これは、「旅紀行ジャパン」「日本の裸祭り」など、ジャンル毎に目次ページを設けていたことから、トップページから入ってこないゲストが大勢いたため、これらのページから入ってもトップページに自動転送されるようにした結果、アクセスが倍増したのである。もっと早く気付いていれば、アクセス記録はもっと増えていたことだろう。  

ミリオンサイト

 去年の開設4周年記念日から1年間で61万件のアクセスを頂いた。2005年6月7日0202には晴れて100万アクセスを超え、ミリオンサイトという大きな勲章を頂いた。フォトギャラリー(写真館)というジャンルでは、何度検索してもミリオンサイトは他に存在しないので、本当に夢のようである。

日本一のビッグサイト

 現在、世界21ヵ国を巡る高画質写真 4,903枚、ファイル総数 23,015個、ファイル総容量 1,849.84MB と桁外れのコンテンツをアップしており、日本一大きなフォトギャラリーといっても言い過ぎではないと思う。 「ロマンと感動!世界の旅の写真館」という独自のコンセプトが自慢で、美しいBGMをバックに、20人もの作者が世界中を旅して撮影してきた臨場感溢れる高精細画像を見ながら解説文を読めば、世界を股にかけて旅行した気分になる。
 テレビは、どんどん景色が変わってしまうので、じっくり見ることができないが、当サイトは同じ画像を納得いくまで眺め尽くすことができる。一つの作品を2時間もかけて鑑賞したというお便りをいただいたときには、本当に作者冥利に尽きる思いがした。

DVD版

 トップページや高精細画像のダウンロードは、ISDNやダイヤルアップ接続ではもはや時間がかかり過ぎ、ADSLや光ファイバーなどのブロードバンドでないと、事実上閲覧できなくなってしまった。ブロードバンド環境にない読者には、DVD版Wa☆Daフォトギャラリーを実費で提供している。

五周年:函館山の夜景(北海道函館市)

五周年:函館山の夜景

パノラマ写真(3000X1000)492KB 撮影:2005.7.11

容量3ギガの「和田フォト」

 現在契約しているレンタルサーバーは、日本の SAKURA Internet で、僅か1万5千円で1年間 3GB を無制限に利用できるのが有り難い。まだ1GB以上空いているので、ここ数年は大丈夫だろう。ドメインは wadaphoto.jp (わだふぉと・どっと・じぇーぴー)。ある読者が「和田フォト」と略称をつけてくれたのが嬉しい。(^^ これから私も「和田フォト(わだふぉと)」と名乗りたい。

四周年:江の島天王祭(神奈川県藤沢市)

四周年:江の島天王祭

拡大写真(1800x1350)496KB 撮影:2004.7.11 

ふんどし

サイト 

 全ての目次をトップページに置いているため、ファイルサイズが大きく、六尺褌のように長くなってしまった。昔、細長い町を褌町(ふんどしまち)と呼んだが、ホームページにも褌サイトが出現したのである。(^^; また、「旅紀行日本の祭り」「旅紀行日本の裸祭り」のジャンルは、伝統の祭り衣装を頑なに守っているものに限定しているため、「日本の裸祭り」は必然的に褌姿のオンパレードとなっており、名実ともに褌サイトになってしまった。(^^;

裸祭りファン

 作品が古いほどアクセスが多くなるのは当然としても、人気度により大きな差がある。一番アクセスが多い作品は、2002年1月制作の「日本三大奇祭」で、2005年7月16日0000現在175,504件とダントツである。第2位は2003年8月の「ベルサイユ宮殿」124,271件、第3位は2001年10月の「灘のけんか祭り」122,025件、第4位は2002年11月の「鞍馬の火祭り」85,190件、第5位は2003年9月の「四天王寺どやどや」84,640件と、ベスト・ファイブに裸祭りが4つも入っている。
 最近アクセスが多いのは2003年5月の「ふんどし談義」81,409件が毎日200件前後と最も多く、「日本三大奇祭」や2005年3月の「中田裸祭り」20,818件がそれに続いている。こうしてみると、和田フォトは裸祭りファンが圧倒的に多いことが分かる。裸祭りのジャンルでは、画像の鮮明さや内容の多さ・深さ・多様さなどにおいて他を凌駕していることから、超人気サイトになっていると考えられる。

俳句・海の風景

 写真だけでなく、俳号・和田北舟の写真をふんだんに使った2001年7月の「俳句・海の風景」50,119件は、290句を数えている。作品のページには句集に載せていない俳句もあり、総数は把握できない。(^^; サイトの英語版は破綻したが、俳句については句集に収録した全ての句に英訳を付けているのが自慢である。多分、これも他に例がないと思う。最近はコンスタントに100件前後のアクセスがあり、リピーターも増えているようである。
 

三周年:ファーム富田の花園(北海道富良野市)

三周年:ファーム富田の花園

拡大写真(1600x1200)301KB  撮影:2003.7.15 

 
 

同好の士とともに

 
   こゝまで来れたのも、南光優さんはじめ20人近くの同好の士から素晴らしい写真を感動写真集に提供していただいたお陰である。一人の力はたかが知れているが、集団でことに当たれば、素晴らしいことができる。これからも気力体力を更に充実させ、独自のコンセプトを大事にして、多くの読者のご期待に応えてゆきたい。  

2005年7月13日(水)曇  夏の夜煌めく光海渡る
 
■■■     初夏の函館 ■■■
 
 

函館山の夜景

 
   梅雨が続いている東京だが、7月11日(月)12日(火)と函館に行ってきた。11日昼頃函館空港に到着したときには標高334mの函館山(はこだてやま)に雲がかかっていて、夜景は駄目かと思ったが、その後雲が切れたので、午後9時10分函館駅バスターミナル発のツアーバスで函館山に登った。参加者は5名。運転手とバスガイド二人による1時間半のツアーだったが、素晴らしかった。聞くところによると、6月〜7月は北海道の観光シーズンなのに雨が多く、函館は先の土日に雨が降り、夜景は全く見えなかったということで、超ラッキーであった。  
   下の写真は3枚の連続写真を専用のソフトでつなぎ合わせたものである。このソフトは、ソニーの40ギガのイメージ・ストレージに添付されていたもので、画像の歪みを修整し、シームレスにつなぎ合わせてくれる。過去に使ったどのソフトよりもできがよく、完璧なパノラマ写真にしてくれるので、手放せない存在となっている。銀塩(フィルム)写真では継ぎ目が目立ち、つなぎ合わせたことがすぐに分かってしまうので、デジタル写真の優位性がはっきりと実感できる。  
 

日本一の函館山の夜景

日本一の函館山の夜景

パノラマ写真(3000X1000)492KB

 
 

世界三大夜景

 
   世界三大夜景は色々な説があるが、函館では、函館山の夜景に香港のビクトリアピークからの夜景とナポリの夜景をあわせて世界三大夜景と呼んでいる。この写真を見ればそのとおりだと思うし、少なくとも函館山の夜景が日本一であることは間違いないと思う。  
   夜景といえば、六甲山から大阪湾に広がる夜景を眺める「100万ドルの夜景」がよく知られている。神戸に単身赴任していた3年ほど前に六甲山から夜景を見た。100万ドルの夜景は今は1000万ドルの夜景と呼ばれているが、確かに素晴らしい夜景である。しかし、少し距離があるので、眼下に広がる函館山の夜景と比べると、残念ながら函館山に軍配を上げざるを得ない。神戸市は、観光資源を沢山持っているせいか、夜景の宣伝に熱心ではなく、夜景を見る専用ツアーがない。やっと夏に六甲山上のホテルで夜景を見ながらバーベキューを食べるツアーがあることが分かり、それに参加して六甲の夜景を見ることができたくらいで、地元でも力が入っていないのが人気が落ちている一因かも知れない。  
 

 
   函館に一泊した翌日は天気が良く、市内の人気スポットを殆ど廻ることができたので、後日「初夏の函館紀行(仮称)」として作品にしたいと思っている。乞うご期待!  

 
2005年7月10日(日)曇   青梅路や祭囃子の競ひ合ひ   舞踊る狐ひょっとこ山車の上
 
■■■     「お囃子大会(完成版)」アップ ■■■
 
   2005年6月19日(日)午後1時50分から4時30分まで、青梅市民会館ホールにおいて、青梅囃粋會(おうめ・そうすいかい)主催の「第二回お囃子発表会&講演会」(入場料無料)が開かれた。冒頭、小林栄介・青梅囃粋會会長が挨拶。その後、井上信治衆議院議員、竹内俊夫青梅市長、松田貢・青梅市立第一小学校長ら来賓の祝辞があったのち、お囃子の発表会が始まった。  
   午後3時から西分町囃子連を指導している荒井美知徳さんの講演があり、多彩な踊りの実演と解説があった。荒井さんは大正15年(1926)青梅市本町に出生。幼少の頃より祭り踊りを習い、戦後、各町内に囃子連ができはじめた頃は、踊り手は全町内でご本人を含めて二人しかいなかったという。現在、各町内で舞子の指導を行い、現在も踊り好きの弟子たちが発足させた「美千舞会(みちぶかい)」の師匠として後進の指導に当たっておられる。  
 

西分町囃子連の熱演

 

赤い装束の狐

西分町囃子連の熱演   赤い装束の狐

拡大写真(1400x1050)335KB 

 

拡大写真(1400x1140)146KB

 
   本大会の主催者・青梅囃粋會は、平成12年(2000)2月、青梅大祭に参加する囃子連が横につながってできた組織で、平成16年(2004)、第1回のお囃子発表会と講演会を開いて好評を博し、今年第2回目の開催となった。青梅囃粋會にはイベント・地域貢献・技術交流という3つの柱があり、それぞれ「イベント分科会」(リーダー:中村正之さん)、「地域貢献分科会」(リーダー:黒山忠史さん)、「技術交流分科会」(リーダー:明神邦夫さん)が対応している。「第2回 お囃子発表会&講演会」は、技術交流分科会が中心となって開催された。  
 

 
   青梅大祭実行委員会の村野公一さんのお誘いで、お囃子発表会を取材したが、青梅一小の生徒たちの踊りも披露され、総合学習に取り組む松田貢校長の熱意を感じた。青梅大祭の踊りの実演と解説をされた荒井美知徳さんの講演も素晴らしかった。青梅囃粋會の活動は始まったばかりであるが、熱気を十分に感じとることができた。今後、歴史を積み重ね、青梅の祭り文化を子々孫々に伝えていただきたい。益々のご発展を祈念している。  

   
2005年7月5日(火)曇
 
■■■     パソコンのダウン! ■■■
 
 

これまで受けたことのないOSの被害

 
   先の週末、パソコンがダウンしてしまった。数時間ほどパソコンをinternetにFTP転送の接続状態のまま放置していたところ、再度操作しようとしたらカーソルが殆ど動かなくなり、変なビープ音が出て、コントロールできなくなった。仕方なく再起動したが、今度はパスワードを打ち込んで私のデスクトップに入る画面で、カーソルが動かず、キー入力もできなくなっていた。完全にOSのWindowsXPがやられていることが分かった。  
   私はノートン・ゴーストでCドライブの丸ごとイメージ・バックアップを増設ハードディスクに三世代分保存しているので、一番新しい世代を30分余りでリストアしたところ、正常に復帰した。  
 

ウィルスバスター

 

インターネット・セキュリティ

ウィルスバスター   インターネット・セキュリテ

副作用を覚悟しなければならないセキュリティ・ソフト

 
 

貴重な教訓

 
   原因は不明だが、多分、ファイア・ウォールが破られ、外部から侵入されてOSが被害を受けたのだと思う。というのは、被害発生のときにはウィルス・メールの受信はなかったし、そもそもメールチェックはプロバイダーの so-net と私のパソコンとで二重チェックをしているので、メールによるウィルス感染はまず考えられないからである。  
   現在、私のプロテクトはトレンドマイクロ社のウィルスバスター2005である。この会社は、更新プログラムの不良が原因で、世界中のコンピュータを麻痺させてしまった有名な前科を持つが、その事件の後、私はあえてノートン・インターネット・セキュリティを捨てて、ウィルスバスターに乗り換えた。その理由は、一度大きな過ちを犯した会社は、社運を賭けて、そのような過ちをしない厳重な体勢を構築している筈で、かえって信頼度が高くなったとみたからである。  
   万全の構えだと思っていたが、それでも侵入されたことに愕然とする。この事件は、セキュリティの手段として、Cドライブ・イメージの丸ごとバックアップまで対応しておかないと、被害回復ができないという教訓を与えてくれたものであるが、早期にその対策をしていたお陰で、私は救われたのである。  
 

避けられない副作用

 
   ウィルスルの感染や不正侵入の予防にいわゆるセキュリティ・ソフトを使っているが、このソフトの副作用がかなりある。ノートンのときには、起動の際、10回に1度は途中でストップする症状があった。そのときは原因が分からなかったのだが、ウィルスバスターに乗り換えたら、起動がストップするということは一度も起きないので、犯人がノートンであることが分かった。  
   また、Internet Explorer の読み込みが極端に遅くなり、結局、ファイア・ウォールの機能を切ったまま使っていたのである。ノートン・インターネット・セキュリティは、とても癖のあるソフトで、メーカーに問い合わせると、パソコンとの相性の問題だといって逃げられてしまった。更にノートンに腹が立ったのは、3年経つと、ソフトを新しく買い換えなければ使えなくなる。毎年定義ファイルを購入するのは、どの会社でも同じで、サポートを受けている以上当然だが、3年でソフトが使えなくなるというセコイことをしているのは、このノートンシリーズをヒットさせたシマンテックという会社だけなので、愛想を尽かしたのである。  
 

毒をもって毒を制する

 
   トレンドマイクロ社のウィルスバスターも完全ではない。ファイア・ウォールが破られただけでなく、副作用も出て来た。今度はDVDを焼くときに、途中で止まってしまうというトラブルに見舞われた。2〜3枚ブランク・ディスクがお釈迦になったが、ウィルスバスターのパーソナル・ファイア・ウォールを断にしてやると、ちゃんと焼けるようになった。犯人が我がパソコンに常駐するセキュリティ・ソフトであったとは、皮肉なことである。パソコンのプロテクトは、毒をもって毒を制するという仕組みになっているわけだが、毒を制する毒を制するのは、結局、私自信なのである。DVDを焼くときには、パーソナル・ファイア・ウォールのオフ/オンという毒抜き作業をさせられる羽目になっているのである!  

   
2005年7月1日(金)雨   夏の庭聳ゆる城の威風かな   夏きざす

濠碧潭ほりへきたん

の小倉城
 
■■■     「初夏の小倉城」速報! ■■■
 
   本格的な梅雨空が続いているが、昨日北九州市小倉北区にある小倉城(こくらじょう)に行った。JR小倉駅から歩いて15分ほど。朝9時の開園と同時に場内に入り、天守閣はもとより、小倉城庭園や「無法松の一生」で有名になった小倉祇園太鼓で知られる八坂神社も含めて激写してきた。曇りがちだったが、途中で青空が見えたので、同じスポットを二度巡る結果になったが、瑞々しい緑に囲まれた小倉城の威容を十二分に切り取ることができた。  
   小倉城庭園、市民会館、松本清張記念館、リバーウォーク、水環境館などの施設と共に勝山公園(かつやま・こうえん)の一角にある小倉城は、文永年間(1264〜1274)に土豪の緒方惟重が勝山城・勝野城と呼ばれた小城を作ったのが始まりという。関ヶ原の戦いのあと、細川忠興(ほそかわ・ただおき)が32万石で入城し、慶長7年(1602)に名城といわれた小倉城を築城した。この城は海のそばに建つ海城とでもいうべき縄張りで、本丸を中心にいくつもの曲輪(くるわ)が渦巻き状に配置されていた。天守閣の外観は五層六階で破風(はふ)がなく、五層目が四層目よりも大きく黒塗りで、当時は「唐作り」と呼ばれて全国一の珍しい城であった。  
 

小倉城庭園から見た天守閣

 

小倉城の雄姿

小倉城庭園から見た天守閣   小倉城の雄姿

拡大写真(1400x1050)392KB

 

拡大写真(1400x1050)274KB

 
   細川藩は、細川忠利のときに肥後(熊本)に転封となったため、代わって小笠原忠真(おがさわら・ただざね)(当時は忠政)が播州播磨より15万石で入封し、譜代大名として九州探題の威容を誇った。幕末に至り、慶応2年(1866)豊長戦争の際、小笠原藩は自ら城に火を放ち焼失した。現在の城は昭和34年(1959)に再建されたもの。かつての名城の外観に破風を加えて見栄えを良くしたものだが、この変更は意見の分かれる所である。再建された小倉城は外観四重、内部五階建ての全館冷暖房完備の鉄筋コンクリート製だが、エレベーターはない。天守閣は高さ28.7m、堀から石垣の高さ18.1mを加えると47.5mとなる。  
   小倉城の石垣の石は切石を使わず、主として城の東に聳える足立山から切り出した自然石が大部分で、堂々たる風格を備え、細川忠興自慢の逸品であったという。隣接する小倉城庭園からの眺めはまた趣があり、小倉っ子の誇りになっている。後日、「初夏の小倉城」と題して、作品に纏めたい。  

 

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