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▼ 西ゲートの近くに、「白藤の滝」があった。藤棚を縦に造り、空に延びるようにしている。滝のように見えることからそのように名付けられたものと思われるが、せっかくの花房が蔓と平行に垂れ下がっているので、立体感に乏しく、果たして成功しているかどうか、微妙なところ。 |
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しらふじの かすかにゆるる かぜのいき |
The breath of wind,
white wisteria blossoms trembling slightly. |
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▲▼
「白藤の滝」の南側に花房が最長1.8mに達する巨大な大長藤(おおながふじ)があった。「足利(あしかが)のフジ ノダナガフジbR」と名付けられている。樹齢約140年、南北34.5m、東西30m、幹廻り3.95m、花房 最長1.8m あり、4月下旬から5月下旬にかけて開花する。 |
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ふじいろの ふじにであいし あしかがじ |
Ashikaga country,
encountering wisteria blossoms of light purple. |
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▲▼
260tonという炭素埋設世界一を誇る大藤は、4本あるが、いずれも当初開園した足利市堀込町の早川農園から日本の女性樹木医第1号の塚本こなみさんによって移植された。この大藤の移植は、日本で初めての成功例といわれ、過日、テレビで報道された。
炭素埋設(炭埋) |
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あしかがや ふさろくしゃくの ふじのはな |
Ashikaga country,
a bunch of wisteria blossoms is six feet long. |
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大長藤の東側の「古代蓮の池」にピラミッド型の水上花壇があり、色とりどりのペチュニアが綺麗だった。その南側には「クルメツツジと藤の路」があり、色とりどりに咲き乱れており、フラワーパークにふさわしい春爛漫の光景が広がっていた。 |
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あさがおの みずにうきたる ぴらみっど |
Floating pyramids on the
water, full of Petunia. |
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ペチュニアの「水上花壇」と「クルメツツジと藤の路」
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▲▼ ペチュニアは、ナス目ナス科ペチュニア属の半耐寒性多年草で、別名をツクバネアサガオ(衝羽根朝顔)といい、朝顔に似た花を一年中咲かせる。
原産地は、ブラジル、アルゼンチンなどの南米で、草丈は30cm〜50cm、花色は桃、赤、白、赤紫、紫、薄黄
など多彩。花弁は一重や八重、小中大輪のものがある。 |
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日本では、花壇やベランダの代表的な花の一つとなっており、丈夫で育て易く、花の感じが穏やかで、花色も豊富。しぼんだ後に花柄(かへい)を摘めば、次々に新しい花を咲かせるので、経済的な花として人気があるという。 |
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パステルカラーのペチュニア サクラサクラ |
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園内で遅い昼食を取ったあと、シャトルバスで足利市駅に向かった。バスは、途中で市内にある足利学校のそばでおろしてくれるというので、一時下車して校内を見学した。 |
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足利学校 |
正門の |
入徳門 |
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足利学校は、平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関。室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった。 |
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▲▼ 下野国(しもつけのくに)足利庄(あしかがのしょう)五箇郷村(ごかごうむら)(現栃木県足利市)にあり、明治初期には殆ど建物があるだけになっており、明5年(1872)に廃校になった。以来、孔子廟(こうしびょう)などわずかな建物を残すのみであったが、平成2年(1990)に方丈や庭園が復元され、公開された。今日では足利市民の心のよりどころであり、生涯学習の拠点として利用されており、足利市教育委員会によって管理されている。 |
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▲▼
足利学校の創建がいつなのかわからないが、その歴史が明らかになるのは室町時代からで、上杉憲実(うえすぎ・のりざね)が現在国宝に指定されている書籍を寄進し、学長に当たる庠主(しょうしゅ)の制度を設けるなどして学校を再興した。 |
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第三の門「 |
杏檀門 |
」の奥にある |
孔子廟 |
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▲▼ 鎌倉建長寺住持の玉隠永興(ぎょくいん・えいよ)は、長享(ちょうきょう)元年(1487)の詩文に「足利の學校には諸國から学徒が集まり、學問に励み、それに感化されて、野山に働く人々も漢詩を口ずさみつつ仕事にいそしみ、足利はまことに風雅の一都会である。」と賛美している。 |
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▲▼
教育の中心は儒学であったが、易学においても非常に高名であり、また兵学、医学も教えた。戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあったという。学費は無料で、学生は入学すると同時に僧籍に入った。学寮はなく、近在の民家に寄宿し、学校の敷地内で自分たちが食べるための菜園を営んでいた。構内には、菜園の他に薬草園も作られていた。 |
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天文18年(1549)には、フランシスコ・ザビエルにより、「日本国中最も大にして、最も有名な板東(ばんどう)(関東地方)の大学」と世界に紹介され、「学徒三千」といわれるほどになった。 |
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杏檀門 |
孔子廟 |
方丈 |
庫裡 |
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フランシスコ・ザビエル Francisco
de Xavier
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フランシスコ・デ・ザビエル(1506
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1552)は、スペイン・ナバラ生まれのカトリック教会の司祭で宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。 |
ポルトガル王ジョアンIII世の依頼でインドのゴアに派遣され、その後1549年
(天文18年)に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。 |
来日中、足利学校の存在を知ったザビエルは、「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、足利学校は海外にまでその名が伝えられた。 |
ザビエルは、「国内に11ある大学及びアカデミーの中で、最大のものが足利学校アカデミーである。学校自体は、寺院の建物を利用し、本堂には千手観音の像があり、その他に別途、孔子廟が設けられている」と説明している。 |
日本人の資質を高く評価し、「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」であり、特に「名誉心や貧困を恥としない」ことを褒め、「優れたキリスト教徒になりうる資質が十分ある人々である」と伝えた。これは当時のヨーロッパ人の日本観から考えると驚くべき高評価であった。 |
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同時にザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた男色(同性愛)が日本において公然と行われていたことであったという。 |
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ザビエルは、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いた。 |
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インド東方図 |
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写真下のインド東方図は、方丈に展示されていたもので、この頃の日本
IAPAN
がいびつな形で示されていて興味深い。当時の西洋帆船がこの程度の地図で国際航海を行い、直感と試行錯誤による経験則に基づく航法だったにもかかわらず、日本にたどり着くことができたことに驚く。 |
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インド東方図 |
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撮 影
2011年5月9日
OLYMPUS E-5
12-60mm 9-18mm
1230万画素 580枚 1,350MB
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5月20日(金)、本年第15作(通算464作)が完成した。
「旅紀行日本の花」 シリーズは、「尾瀬の水芭蕉」以来、1年半ぶりの作品で、休眠状態にあったため、前作の「秩父の芝桜」のに続き、花シリーズを連続してアップした。前回同様、精力的に編集し、今回も撮影後8日目というスピード発表となった。 |
「大藤」を見に行ったのだが、他にも違った花があり、また、話題も豊富で、バラエティ豊かな作品になった。帰りにバスを途中下車して見学した足利学校は、おまけのようなものだが、こんなところにザビエルが絶賛した大学があったのかと、感動した。 |
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野田九尺藤や八重黒龍藤をinternetで検索すると、あちこちで栽培され、一般公開されている。しかし、その規模においては、「あしかがフラワーパーク」を越えるところはなさそうで、日本一の大藤だと宣伝しても良いのではないかと思われる。 |
「あしかがフラワーパーク」の入園料は、花の咲き具合により変動しており、1年で一番の大藤の見頃を迎えたときは、大人:1700円 / 子供:800円だった。今日、サイトをのぞいてみると、大人:1200円 / 子供:600円になっていた。来訪客の満足度に連動した価格設定はとても良心的で、好感を持った。 |
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旅紀行日本の花第35集/旅紀行ジャパン第125集「足利・大藤まつり」 |
撮影・制作 : 和田義男 |
平成23年(2011)5月20日 作品:第15作 画像:(大57+小14) 頁数:3 ファイル数:156 ファイル容量:90.3MB
平成12年(2000)〜平成23年(2011) 作品数:404 頁数:1,567 ファイル数:65,692 ファイル容量:10,302MB |
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さんしょくの いまをさかりに ふじのはな |
Wisteria blossoms of
three colors, in full broom today. |
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編集子の選ぶ傑作 |
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日本原産の藤の花は万葉集にも詠まれていて、古来から親しまれた花だといわれているが、余り身近に見ることもなく、また、民謡や唱歌などにも唄われていない。唯一、人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)しているのが「藤娘」で、歌舞伎や日本舞踊の演目として知られているほか、日本人形や羽子板の押絵にも用いられている。 |
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日本女性の美しさの象徴とも思える藤娘は、調べてみると、大津絵(おおつえ)から発していた。 |
大津絵は、滋賀県大津市で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画で、さまざまな画題を扱っていた。 |
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東海道を旅する旅人たちの間の土産物や護符として人気があり、その中に藤娘の絵があった。大津絵は、江戸時代を通じ、東海道大津宿の名物となり、文化・文政期(1804-1829)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題が確定し、一方で護符としての効能も唱えられるようになった。「藤娘」は良縁、「鬼の寒念仏」は子供の夜泣き、「雷公」は雷除けなどに御利益があるとされ、全国的に広まっていった。 |
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「藤娘」は、織田信長の時代、摂津の守・荒木村重という武将の孫・又兵衛が発案した戯れ絵で、大津絵の画題の一つとして知られるようになり、「かつぎ娘」、「藤かつぎ娘」ともいわれるようになった。娘が黒の塗り笠に藤づくしの衣装で藤の花枝をかたげている姿が典型的な「藤娘」といわれるものである。 |
又兵衛は京都で名高い画工の弟子となったが、師匠に勘当され、落ちぶれて極貧を極めた。みかねた妹の「藤波」が白拍子(舞の遊女)となり、兄を助けた。しかし、はからずも「藤波」は人手にかかり死亡。又兵衛は悲しみの末、京都を去り、大津の追分(おいわけ)で妹・藤波の菩提のため仏画を売り初め、これが名物となり、「大津絵」となった。大津絵「藤娘」の絵は、又兵衛の妹「藤波」の舞の姿である。(「大津絵の由来」明治27年(1894)杉本善郎著) |
やがて、大津絵の「かつぎ娘」に題材をとった長唄や日本舞踊の演目として「藤娘」が生まれ、文政9年(1826)江戸中村座で二代目関三十郎により初演された。 |
歌舞伎の「藤娘」は、昭和12年(1937)に六代目尾上菊五郎(おのえ・きくごろう)が五変化舞踊の一つだった藤娘を独立させ、長唄の間に「藤音頭」を挿入し、舞台演出を一新して上演したのがはじまり。藤の絡んだ松の大木は松が男を藤が女を象徴している。筋は、藤の絡んだ松の大木の前で、藤の枝を手にした藤の精が意のままにならぬ男心を切々と嘆きつつ踊る。やがて酒に酔い、興にのって踊るうちに、遠くで寺の鐘が鳴って夕暮れを告げると、娘は夕暮れとともに姿を消す。 |
藤音頭
( 岡鬼太郎作
)
藤の花房色よく長く 可愛いがろとて酒買うて 飲ませたら うちの男松に からんでしめて てもさても 十返りという名のにくや かへるという忌み言葉 はなものいわぬ ためしでも しらぬそぶりは ならのきょう 松にすがるも すきずき 松をまとうも すきずき 好いて好かれて はなれぬ仲は ときわぎの たち帰えらで きみとわれとか おゝ嬉し おゝうれし |
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歌舞伎の「藤娘」で初めて「藤音頭」という歌謡が生まれているが、一般に広まって後世に伝えられることはなかった。藤の花は、とても美しく、日本人の感性にふさわしい伝統の花であるので、今後、更にポピュラーな花として一般に知られるようになることを願いたい。〈 完 〉 2011.5.20 和田義男 |
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おおふじの ろっぴゃくじょうも ありという |
Huge wisteria blossoms,
they say over 1,000 square meters. |
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編集子の選ぶ傑作 |
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パノラマ写真(2000X1830)1.69MB |
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