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和田義男

 旅紀行ジャパン

2007年7月9日改訂

♪箱根八里メドレー

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2005年11月27作成

甘酒茶屋で休憩

甘酒茶屋で休憩(秋の箱根路)

秋の箱根路

旧街道

 

東海道五十三次とうかいどうごじゅうさんつぎ

 

 東海道は五街道*のひとつで、江戸日本橋から西方沿海の諸国を経て京都三条大橋に至る約500kmの街道である。幕府はこの沿道を総て譜代大名の領地とし、53の宿駅(しゅくえき)を設けた。この街道筋の風物を描いた歌川(安藤)広重・葛飾北斎らの絵は有名である。 東海道五十三次 

*五街道:江戸時代、江戸日本橋を起点とした五つの街道で、東海道・中山道(なかせんどう)・日光街道・甲州街道・奥州街道をいう。

湯本〜畑宿〜甘酒茶屋

湯本〜畑宿〜甘酒茶屋

        資料
 

箱根八里はこねはちり

 

 箱根路は、箱根山中を通る道路である。小田原から箱根峠までの東坂(ひがしざか)が4里10町(17km)、箱根峠から三島までの西坂(にしざか)が3里20町(14km)、合せて約8里(31km)あるところから箱根八里と呼ばれる。

畑宿はたじゅく

箱根旧道入口
 畑宿は木工細工が盛んで、江戸後期に職人が寄木の技を開発して以来今日に至るまで箱根名物の寄木の里として知られる。バス停近くに工房を兼ねた店が軒を連ねている。

畑宿の箱根旧道入口

拡大写真(1400x1000)320KB

 

 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川・・・」と唄われたように、箱根八里は大井川と並ぶ東海道の二大難所であった。中でも畑宿(はたじゆく)から箱根峠に至る上りが最大の難所として知られた。

畑宿一里塚

畑宿一里塚

パノラマ写真(1600x550)307KB

   秋の山街道挟む一里塚  北舟
 

畑宿一里塚はたじゅくいちりづか

 

 古くから寄木細工(よせぎざいく)の里として知られる畑宿は、東坂の中で最も賑わった「間の村*(あいのむら)」である。集落の外れから石畳の道に入るが、その入口には江戸より二十三里(90km)を示す大きな一里塚がある。

   江戸時代、幕府は旅人の目印として街道の一里(約4km)ごとに一里塚をつくった。石畳の両側に残る畑宿の一里塚は、東海道中唯一その形態を留めている。
 直径30尺(9m)の円形に石を築き、礫(れき)を積み上げ、表層に土を盛って頂上に植樹している。右側に樅(もみ)が、左側に槻(けやき)が植えられている。この一里塚から西海子坂(さいかちざか)と呼ばれる難所に入る。
*間の村:宿場と宿場の間にある村。神奈川県内の東海道9宿の間に合計56ヵ村あり、旅人や人足、駕籠かきなどが休息したり、馬の付け替え・継ぎ立てをする場所として栄えた。

昼なお暗き杉の並木

昼なお暗き坂道

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   八千草や昼なほ暗き山街道  北舟
 

石畳の街道

   箱根路は、江戸時代の元和4年(1619)に、それまでの日当たりの良い尾根筋を通る湯坂道*1(ゆさかみち)(鎌倉古道)を廃し*2、湯本の三枚橋から須雲川(すくもがわ)に沿い、畑宿を通り二子山の南側を経て元箱根に至る古い山道を広げ、世に箱根の八里越えと伝えられる街道をつくった。  
   寛永12年(1635)に参勤交代の制度ができると、この街道は通交が盛んになったが、この道は急坂で須雲川(すくもがわ)の谷沿いにあり、多量の雨が降ると泥水で歩行困難となるため、延宝8年(1680)幕府は千四百両を投じて排水路の備わった石畳を整備した。この道は現在も所々に残されており、国の史跡に指定されている。  
   現在残っている石畳は、文久3年(1863)2月孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)内親王が十四代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)のもとに降嫁*3(こうか)されるにあたり、幕府が時の代官に命じ、文久2年(1862)に改修工事を完成させたものといわれる。平均3.6mの道幅の中央に1.8m幅に石が敷き詰められていたという。  
  *1 湯坂道:湯本-湯坂山-浅間山-鷹ノ巣山-芦ノ湯を経て元箱根に至る道(現ハイキングコース)。
*2 悪条件の「箱根八里」に変更したのは、三島までの最短距離であることと、箱根山が江戸防衛には欠かせない重要地点で、後々の箱根関所の建設を含め、戦略的な変更だったといわれている。
*3 皇女和宮の降嫁:和宮一行は中山道を通ったために工事は役に立たなかったが、旅人たちには喜ばれた。
 

石畳の構造

石畳の構造

滝廉太郎  

 

 

箱根八里はこねはちり

 BGMに流れる歌曲は、明治34年(1901)中学唱歌として発表されて以来、親しまれてきた歌曲「箱根八里」。作曲は滝廉太郎(たき・れんたろう 1879−1903)、作詞は鳥居忱(とりい・まこと 1853-1917)。箱根八里の難所を見事に歌いあげている。

滝廉太郎たきれんたろう

 1879.8.24 - 1903.6.29

 東京生まれで、明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人。明治34年(1901)二人目の日本人音楽家として渡欧し、ドイツのライプツィヒ王立音楽院に留学。ピアノや対位法などを学んだが、わずか二月後に肺結核を発病し、一年で帰国。父親の故郷である大分県で療養したが、明治36年(1903)23歳の若さで死去した。
 

鳥居忱とりいまこと

 1853 - 1917

 
   安政2年(1853)生まれ。作詞家・教育者。東京音楽学校(現、東京芸大)教授。唱歌教育の先駆者。代表作に「箱根八里」、「秋のあわれ」など。大正6年(1917)に死去。享年64歳。  
 

 
 
 

第一章 昔の箱根

 

箱根の山は 天下(てんか)の険*1(けん)
函谷関*2(かんこくかん)も物(もの)ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え後(しりえ)に支(さそ)
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
昼猶闇(ひるなおくら)き杉の並木(なみき)

|||||
 

羊腸(ようちょう)の小径*3(しょうけい)は苔(こけ)(なめら)
一夫関(いっぷかん)に当るや 万夫(ばんぷ)も開くなし*4
天下に旅(たび)する 剛毅(ごうき)の武士(もののふ)
大刀(だいとう)(こし)に足駄(あしだ)がけ*5
八里(はちり)の岩(いわ)ね 踏(ふ)み鳴らす
(か)くこそありしか 往事(おうじ)の武士(もののふ)

 
 
 

第二章 今の箱根

 

箱根の山は 天下(てんか)の阻*6(そ)
*7(しょく)の桟道*8(さんどう)(かず)ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え後(しりえ)に支(さそ)
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
昼猶闇(ひるなおくら)き杉の並木(なみき)

|||||
 

羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)は苔(こけ)(なめら)
一夫関(いっぷかん)に当るや 万夫(ばんぷ)も開くなし
山野に狩する 剛毅(ごうき)の壮士(ますらお)
猟銃肩に草鞋(わらじ)がけ
八里(はちり)の岩(いわ)ね 踏(ふ)み破る
(か)くこそありけれ 近時(きんじ)壮士(ますらお)

 
  *1 険:山がけわしいこと。けわしい所。
*2 函谷関:中国・河南省(かなんしょう)の北西部にある交通の要地。古関と新関の二つの関所が置かれた。東西
8kmにわたって深い谷がつづき、両岸は切り立ち、樹木は陽光をさえぎって昼なお暗く、ちょうど函(はこ)の中を進
むのに似ているところから、この名がつけられた。
*3 羊腸の小径:ヒツジの腸のように曲がりくねった小道
*4 一夫関に当るや万夫も開くなし:けわしい地勢の地にある関所は、一人の男が守備に当るだけで、万人の兵が
攻めても陥落することが無い。きわめて要害堅固な地形をいう。[李白、蜀道難詩]
*5 足駄掛け:足駄(雨天に用いる高い二枚歯のついた下駄。たかげた。)をはいて行くこと。泥道のためか。
*6 阻:山のけわしいこと。
*7 蜀:中国の地名。今の四川省の別称。古くから富饒の地として知られ、劉備が蜀漢を建国したのをはじめ、この
地に割拠した支配者は少なくない。
*8 桟道:
山のきりたった崖などに棚のように設けた道。絶壁から絶壁にかけ渡した橋の道。
 

羊腸の小径は苔滑らか

羊腸の小径は苔滑らか

拡大写真(1100x1200)360KB

 

立場茶屋たてばじゃや

 

 箱根八里には急坂を越えるため、「間の村(あいのむら)」にある茶屋以外にも坂の上下などに人馬が一服できる立場*茶屋が設置されていた。江戸時代後期の箱根東坂には、9ヵ所に13棟の立場小屋があったという。

  *立場(たてば):間の村(あいのむら)を中心に馬を継ぎ立てたり、人足や駕籠かきなどが休息する場所。神奈川県下の東海道には18の立場があった。

甘酒茶屋で休憩

甘酒茶屋で休憩

拡大写真(1400x890)337KB

 

甘酒茶屋 あまさけちゃや

 

 甘酒茶屋は江戸時代から13代続く立場(たてば)茶屋という。杉皮葺きの建物で、店内の椅子やテーブルは木の切り株をそのまま使用している。旧街道を散策したあと、名物の甘酒や力餅を味わい、江戸時代の旅人の気分を味わうことができる。

甘酒小屋といわれる箱根の立場茶屋(浮世絵)

甘酒小屋といわれる箱根の立場茶屋(浮世絵)

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現在の箱根路

   明治以降、箱根八里が利用されなくなり、箱根路は一時さびれたが、明治末に宮ノ下〜箱根間の国道1号線、第二次大戦後は箱根新道、芦ノ湖スカイライン、伊豆スカイライン(十国道路)が開通し、観光産業を支える交通網が整備されている。  
   また、旧街道については、それとほぼ平行に県道732号線が箱根湯本から畑宿を経て元箱根まで通じ、箱根湯本と箱根町を結ぶ路線バスが運行されている。  

茶屋で軽食をとる旅人たち

茶屋で軽食をとる旅人たち

 

箱根旧街道資料館

 

 甘酒茶屋の隣に財団法人・箱根町観光公社が運営する箱根旧街道資料館があり、江戸時代の庶民の旅の必需品などが展示されており、往時の旅の様子を偲ぶことができる。

藁葺き屋根の資料館

藁葺き屋根の資料館

馬つなぎ

馬つなぎ

藁葺き屋根の民家を利用した資料館

藁葺き屋根の民家を利用した資料館

パノラマ写真(1300x600)257KB

 

仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら

 
   甘茶茶屋は、「仮名手本忠臣蔵」の甘酒茶屋のくだりで赤穂浪士・神崎与五郎が馬子(まご)に言いがかりをつけられたが、吉良討ち入りの大事の前であったため侘び証文を書いたとされる*場所である。しかし、実際は大高源吾が関わった事件で三島宿でのことだという。 資料館にはその証文の写しが展示されている。  
  *真相:元禄14年(1701)赤穂浪士の一人大高源吾は、大石内蔵介の命を受け、仇討急進派を抑えるために江戸へ急いでいた。その途中の三島宿で馬子の国蔵から馬の荷をくずされたと因縁をつけられた。大高源吾は仇討という大事を控え、争い事は避けなければならず、屈辱に耐えて馬子の国蔵に酒代を払い謝った。
 いつしか時が流れ、この話の主人公は大高源吾から同志の神崎与五郎へ、舞台も三島宿から箱根山中の甘酒茶屋へと変化し、今に伝えられている。
 

馬方国蔵に書いた詫び証文

馬方国蔵に書いた詫び証文

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飛 脚ひきゃく

   江戸時代の通信は、人が走って手紙や品物・現金を運ぶ飛脚制度が発達していた。江戸から京都まで125里余(約500km)の東海道は、普通の旅人は歩いて十数日を要するが、飛脚だと普通便で90時間、急行・82時間、特急・60時間、継飛脚(つぎひきゃく)だと48時間で着いた。

ペアーで公文書を運ぶ最速の継飛脚

ペアーで公文書を運ぶ最速の継飛脚

                                                                                                 資料

 

継飛脚つぎひきゃく

   なかでも継飛脚は幕府の公文書を無料でリレー運送するもので、一人が黒漆塗りの御状箱(ごじょうばこ)をかつぎ、他の一人が肩代わりとして夜は高張提灯(たかはりじょうちん)を持って走る。500kmを二日で走るので時速10km以上になる。  

飛脚の持ち物1

 

飛脚の持ち物2

飛脚の持ち物1 飛脚の持ち物2

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東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ

   十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の東海道中膝栗毛の三島の宿場では、ゴマノハイ*1のために無一文となった弥次・喜多の二人がとぼとぼと歩いているところへ「エイさっさエイさっさ」と継飛脚が走ってくる。その御状箱の角(かど)が弥次郎兵衛(やじろべえ)の小びん*2に当たって「アイタタ・・・」と叫んでも、飛脚は一切かまわず走り去る。
  *1 ゴマノハイ(護摩の灰): 旅人らしく装って、旅人をだまし財物を掠(かす)める盗賊。胡麻の上の蠅は見分けがつきにくいことから「胡麻の蠅」ともいう。高野聖(こうやひじり)の扮装をし、弘法大師の護摩の灰と称して押売りした者の呼び名から転じ用いられたという。
*2
小びん: 小鬢。鬢付け油(びんづけあぶら)の鬢(びん)のことで、頭の左右側面の髪。
 

男の旅

                                                                          資料

   「アアいたいいたい。何の因果でこんな目にあうか、おらァ死にたくなった」と愚痴をこぼす弥次さん。お上の威光をかさにきた継飛脚は、万事こんな調子で、嫌われ者だったという。しかし、彼らは規定の時間に遅れると厳しい処分を受けるため、ひたすら走りとおすしかなかった。

小振りの道中差

小振りの道中差

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江戸時代の旅姿

   江戸時代の旅すがたは、身軽第一で荷物は少なく、侍も私用旅では、袴(はかま)なしで着物は短く着て、ぶっさき羽織、手甲、脚絆、菅笠、大小に柄袋(つかぶくろ) 、荷物は供の人足(にんそく)に持たせた。

男の旅の持物1

 

男の旅の持物2

男の旅の持物2 男の旅の持物3

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駕篭の旅

駕篭の旅

                                                                          資料

 

 町人、商人は着流し、裾をからげ、手甲、脚絆、草鞋(わらじ)、合羽、笠、ちり紙、手拭、財布、巾着(きんちゃく)、肩に振りわけ荷物、道中差(どうちゅうざし)一本。庶民は丸腰になれて、刀を差すものは少なかったという。

男の旅の持物3

 

男の旅の持物4

男の旅の持物4 男の旅の持物4

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