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2006年4月1日(土)、靖國神社に参拝した。「戦艦大和の故郷」を編集していて、「鎮魂」の頁を完成させたとき、靖國神社に行かなければ、この感傷旅行は終わらないと思い、「靖國」の頁を加えた。 |
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「同期の桜」を熱唱する人たち |
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小泉総理の参拝問題で知られる靖國神社は、皇居の北西、千鳥ヶ淵のそばにある神社で、近代以降の国内外の事変や戦争で朝廷側か日本政府側で戦没した軍人・軍属などを慰霊・顕彰・崇敬などの目的で祭神として祀る神社である。 |
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明治2年6月29日(1869)に戊辰戦争の朝廷方戦死者を慰霊するため、大村益次郎の献策により「東京招魂社」(とうきょうしょうこんしゃ)として創建されたことに始まる。 |
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軍歌集を手に・・・ |
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戦没者を祀る神社なので、制服を着用した旧軍人の姿が目についた。境内では「同期の桜」など、往時の軍歌を熱唱する人たちが大勢いたため、拝殿に向かう参拝者がなかなか中に進めず、大変な混雑だった。 |
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大きな菊の御紋のある靖國神社 |
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靖國神社拝殿は、明治34年(1901)に建てられたもの。普通の日の拝殿には白色の幕が掛かっているが、団体参拝の時や祭日は紫色の幕となるという。 |
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靖國神社拝殿 |
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靖國神社は単一宗教法人で、神社本庁には加盟していない。東京の九段に鎮座することから、単に九段あるいは九段下などと通称されることも多い。 |
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参拝客で賑わう拝殿 |
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「同期の桜」は、作詞:西条八十、作曲:大村能章による軍歌である。原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、昭和13年(1938)1月号の少女倶楽部に発表された西条の歌詞を元とし、とある海軍士官が勇壮にアレンジしたもの。人の手を経るうちにさらに歌詞が追加されていき、一般に知られているもののほかにも様々なバリエーションが存在する。 |
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戦後、元潜水艦乗組員が「同期の桜は自分が作った『神雷部隊の歌』の複製である」として、レコード会社を訴えたが、前述の「戦友の唄」を収録したレコードが発見されて訴えは棄却された(同期の桜事件)。 |
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1.貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため |
2.貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
なぜか気が合うて 別れられぬ |
3.貴様と俺とは 同期の桜
同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
未だ還らぬ 一番機 |
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4.貴様と俺とは 同期の桜
同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
なぜに死んだか 散ったのか |
5.貴様と俺とは 同期の桜
離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖國神社
春の梢に 咲いて会おう |
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東京の桜の開花の標準木とされている靖國の桜 |
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靖國神社本殿に祀られている祭神は、日本政府のために命を捧げた戦没者である英霊で、246万6532柱(2004年10月17日現在)が祀られているという。国籍は日本国民と死亡時に日本国民であった人(戦前の台湾・朝鮮半島などの出身者)に限られる。 |
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神楽殿の桜 |
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幕末の吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作なども合祀されている。戊辰戦争で官軍に反抗した幕府軍、幕府側に立って戦った新選組や彰義隊、明治維新の立役者でありながら西南戦争を起こした西郷隆盛は、賊軍であるため祀られていない。また、明治期の軍人、乃木希典や東郷平八郎も戦死ではないため、祀られていない。 |
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外人の質問に答える旧日本軍の軍服を着た男たち |
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母の像 |
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境内には、銃後を守った母の像がある。戦争で夫を亡くした母が子供を育ててくれたことに感謝し、昭和49年(1974)に建てられた。 また、軍用馬や軍用犬、伝書鳩の像もあり、英霊ばかりでなく、それを支えたものの慰霊もされている。この母の像を見ると、「母よ貴方は強かった」と思わずにはいられない。 |
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戦没馬の慰霊碑 |
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境内の一角に、昭和21年(1946)から昭和23年(1948)にかけて東京・市ヶ谷で開廷された極東国際軍事裁判において、連合国側の判事でありながら、ただ一人、被告全員の無罪を唱えたインド代表判事・パール博士の顕彰碑が建立されていた。 |
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ラダ・ビノード・パール博士の顕彰碑 |
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桜と菊の御紋 |
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靖國神社付属の遊就館には、零戦や人間魚雷・回天、大砲や戦車など、主に第二次世界大戦で使われた兵器類のほか、新館にはC56蒸気機関車などが展示されている。また、戦艦「武蔵」のブロンズ像や、海底や沈没艦艇から回収された遺留品なども見られる。 |
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遊就館本館(左)と新館(右) |
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靖國神社の入口に大村益次郎の大きな像がある。彼は東京招魂社(現・靖國神社)の建立に奔走し、場所決定後に暗殺された。明治26年(1893)に造られた日本初の西洋式銅像で、戊辰戦争の際、司令官として彰義隊が立て籠る上野寛永寺を見つめていた姿を模したものという。 |
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大村益次郎の銅像をバックに記念撮影 |
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OLYMPUS E-330 E-500
11-22mm
14-54mm
SIGMA 55-200mm
800万画素
900枚 1,500MB
撮影 2006年10月7・8日
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母の米寿の祝いに呉の家内の実家を訪ねた機会を利用して、家内が生まれ育ち、そして二人の息子を生んだふるさとを改めて記録に残したいと思った。 |
私は昭和22年(1947)奈良市興福寺猿沢池の前で生まれた。戦後、海外から復員してきた元日本兵たちが荒廃した国土の中で復興を誓い、貧しいなかで次代を託して生み育てた戦争を知らない団塊の世代である。 |
来年から三年間で700万人の団塊の世代が退職する。父親たちとしゃにむに働き、世界の先進国の一員として平和国家の形成に尽力してきた世代である。 |
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戦後の民主主義教育を受けて育った我々団塊の世代は、日本の歴史を客観的に見ることを身につけてきた。国内旅行と全く変わらない感覚で海外を旅し、何事も世界の一員として世の中を見ることができるようになった。 |
極東の資源小国の日本は、明治維新ののち、日清戦争や日露戦争で大国を破り、列強にならって植民地政策や軍国主義を突き進め、最後は破局を迎えたが、日本海海戦で東郷平八郎がバルチック艦隊を撃破したとき、「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云へリ」と言った福沢諭吉でさえ、涙を流して歓喜したのである。 |
教育というものがどれほど大切なものであるかを我々は身をもって経験した。戦争の末期、神風特攻隊や人間魚雷・回天が片道の燃料で敵に突進して行った過ちを二度と繰り返してはならない。しかし、5年前に起こった9.11アメリカ同時多発テロ事件でイラクのアルカイダがそれを行った衝撃は生々しい。 |
アフガニスタンでもタリバンが前途有為な若者を洗脳し、国のためと称して自爆テロを続けているのを見ると、心が痛む。理由の如何を問わず、人命をおろそかにする政権や集団は、滅亡以外に未来はない。人間という愚かな動物は、どうして無益な殺戮(さつりく)を止めることができないのだろうか。 |
靖國神社の参拝は、日本の軍国主義化を助長するという見方があるが、私はそうは思わない。殆どの日本人は、平和の尊さを噛みしめながら、今日ある平和国家・日本の礎となって散っていった多くの戦争犠牲者を追悼し、「過ちは二度と繰り返しませぬから」と誓うためである。 2006.11.3 〈 完 〉 |
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