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和田義男

 旅紀行ジャパン

2007年1月3日改訂

今 日

昨 日

♪「我は海の子」メドレー

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菊日和白き端艇銀の波   北 舟

2006年11月2日作成

海保大カッター部のクルーたち

海保大カッター部のクルーたち(大和のふるさと/広島県呉市)

戦艦大和の故郷

保大

 

海上保安大学校正門

海上保安大学校正門

資料

海上保安大学校かいじょうほあんだいがっこう

 呉港の北西側に突き出たエリアは、呉海軍工廠の火薬工場があったところで、昭和27年(1952)4月、東京都江東区深川越中島の仮校舎から移転してきた海上保安大学校のキャンパスである。「保安大」「保大」と略称され、海上保安庁の幹部職員を養成している。 「海上保安大学校」(フリー百科事典)
 現在56期生を数える保大生は、毎年4月に入学すると、全寮制のもとで1年次と2年次は基礎教育科目を学び、2年次後期から専門基礎科目(群別科目)が入り、3年次と4年次になると練習船「こじま」による国内航海実習が行われる。
 

呉港から見た海上保安大学校

呉港から見た海上保安大学校

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   そのほか、4年間を通して訓練科目や実習科目を学ぶ。本科卒業時に、大学評価・学位授与機構から卒業生に学士(海上保安)の学位が授与されるとともに、三等海上保安正(三尉相当)に任命され、晴れて海上保安官となる。その後専攻科(6ヵ月)に進み、実務教育の中で、世界を一周する遠洋航海実習が行われる。

海上保安大学校の航空写真

マウスカーソルで画面のどこかをポイントすると説明が現れます。

海上保安大学校の航空写真

資料

 

海軍兵学校と海上保安大学校

 
 

 海上保安大学校が発足したとき、海軍兵学校(海兵)OBが教官に採用され、海兵の流儀が保大学生の訓練や寮生活に導入された。巡視船には大砲や小銃などの備砲が搭載されているが、その操作や号令は旧日本海軍のものが基本になっており、のちに海上警察機関の巡視船に相応しい内容に改訂されていった。

練習船こじま

練習船こじま

写真提供:海上保安大学校

 

操舵号令

 
 

 海上保安庁に所属する巡視船艇の操船は、イギリス海軍に習った旧日本海軍の伝統をベースに商船流を取り入れながら独自に発展させたものである。現在、日本商船の操船は英語であるが、面舵(おもかじ starboard)
ようそろ(steady)などの操舵号令は、
かつての水軍が使っていた言葉が江戸時代の北前船などに受け継がれ、日本海軍が発展させて、現在は海上保安庁の巡視船艇と海上自衛隊の護衛艦がその伝統を受け継いでいる。

世界一周航海に出港する練習船こじま / こじま専用桟橋 2006.5.12

世界一周航海に出港する練習船こじま / こじま専用桟橋 2006.5.12

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写真提供:海上保安大学校

 

遠洋航海実習

 
   専攻科生による練習船こじまの遠洋航海実習は、保大教育の総仕上げである。無事に実習を完了すると、国家試験を受けて3級海技士免状を取得し、全国の巡視船艇や海上保安部署に赴任して行く。  
   例年、遠洋航海の出港式には呉市民や幼稚園児などが多数見送りに訪れ、華やかなムードに包まれる。  
 

練習船「こじま」の要目 総トン数:約3,000ton 長さ:約115m 幅:約14m 主機関:4,000PS x 2基 速力:約20kt

総員帽振れ!/ こじま専用桟橋 2006.5.12

総員帽振れ!/ こじま専用桟橋 2006.5.12

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写真提供:海上保安大学校

 

海 猿うみざる

 
   海が好きという思いで転職してまで海上保安庁に入った仙崎。しかし、地上や水上勤務を退屈と感じ、エリート集団である潜水士を目指し、海上保安大学校の潜水士課程に入校するところから物語が始まる。
 当初NHKで2度ドラマ化されたあと、平成16年(2004)にフジテレビが映画化し、平成17年(2005)7月から映画と同じ主要キャストによる連続テレビドラマが放映された。2006年5月同じ主要キャストによる完結編の映画「LIMIT OF LOVE 海猿」が全国で封切られ、好評を博している。「海猿」(フリー百科事典) 映画「LIMIT OF LOVE 海猿」

「海猿」のポスター(フジテレビ)

「海猿」のポスター(フジテレビ)

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資料

   保大構内でもロケが行われ、教官や学生たちがエキストラで出演している。「海猿」の大ヒットで、海上保安官という言葉が普通名詞化し、海上保安庁が知られるようになった。以前は自衛隊と間違えられて、悔しい思いをした筆者としては、誇らしい思いがする。 海上保安庁撮影協力:映画・ドラマ「海猿」

唯一残る煉瓦造の旧艇庫・煉瓦ホール

唯一残る煉瓦造の旧艇庫・煉瓦ホール

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   「うみざる」という言葉は、この作品で初めて登場した言葉であるが、海上保安庁OBや現役の海上保安官たちは、初めて耳にする言葉である。今後、危険な作業に身命を賭して猿のように身軽に活躍する海上保安官の愛称として使われるようになれば喜ばしい。  
 

冬季早朝の耐寒訓練

冬季早朝の耐寒訓練

写真提供:海上保安大学校

 
 

海上保安資料館

 
   海上保安大学校の正門を入った直ぐ右側に、昭和55年(1980)海上保安庁創設30周年を記念して建設された海上保安資料館がある。館内には退役した巡視船やヘリコプターなどの写真、現役の巡視船の模型、海上保安庁の仕事を紹介する写真パネルなど約1000点の展示物が並んでいる。  海上保安資料館 
   また、平成13年(2001)12月九州南西海域不審船事案で北朝鮮の工作船から銃撃を受けて被弾した巡視船「あまみ」の船橋前面が切り取られて展示されており、一見の価値がある。  

海保大カッター(端艇)部のクルーたち

海保大カッター(端艇)部のクルーたち

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 菊日和白き端艇銀の波  北 舟 
 

きのえ温泉

 
   10月7日(土)午後、呉港の撮影を終えたあと、家内の親族と合流し、呉から電車で安芸津(あきつ)に行き、フェリーで大崎上島(おおさきかみじま)に渡り、木江(きのえ)にある「きのえ温泉・ホテル清風館」に一泊して、母の長寿を祝った。

JR呉線の観光マップ

JR呉線の観光マップ

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資料

   普段の親不孝の穴埋めに、手作りのパネル写真を母にプレゼントした。ちばあきおさんの 坂越の船祭り の写真をお借りし、お祝いの気持ちを詠んだ俳句と共にA4に印刷してパネルに入れたものである。

母にプレゼントしたパネル写真

母にプレゼントしたパネル写真

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撮影:ちばあきお

  浦祭母が米壽の祝島   北舟 

うらまつり ははがべいじゅの いわいしま

   「浦祭」は秋の季語で漁村の祭りのこと。丁度10月のこの日、兵庫県(播州)赤穂市で江戸時代から続く坂越(さこし)の船祭り(国指定無形民俗文化財)が催され、その祭りを撮影した写真を背景に使用した。男性が化粧して女性の姿で漕ぎ手を鼓舞する華やかで楽しい祭は、漕ぎ手の赤い衣装がめでたさをあらわしている。  
   この拙句は、母の子や孫が大崎上島に集まったこのたびの祝いを「浦祭」にみたてたもの。「祝島」は瀬戸内海に実在する島であるが、ここでは「祝い」とのかけことばで、祝いをする島「大崎上島」のことである。  

木江の櫂伝馬競争

木江の櫂伝馬競争

撮影:黄旗組
 

大崎上島の櫂伝馬競争

 
   大崎上島も水軍の島で、坂越と同じ櫂伝馬船(かいでんません)がある。坂越は片舷5つの櫂が出ているが、この島で使われている櫂伝馬は7組の櫂を持ち、船体はもっと長くてスピードが出る。
 大崎上島町では、木江(きのえ)地区の厳島神社十七夜祭(7月22日)と、東野(ひがしの)地区の住吉祭り(8月13日)に櫂伝馬競争が行われる。帰郷した若者たちとまだまだ元気な親の世代が力を合わせて舟をこぎ、それぞれの地区の沖合で先頭を争う。 木江の十七夜祭

瀬戸内海を見渡す露天風呂の朝 / 2006.10.8 0700

瀬戸内海を見渡す露天風呂の朝 / 2006.10.8 0700

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   ホテル清風館は高台に建ち、見晴らしが素晴らしい。我々の泊まった部屋は大浴場と同様に海が見える。露天風呂も気持ちよく、写真は朝7時の朝風呂の様子。無色透明無臭の温泉だが、実は海水風呂。風呂からあがるときはシャワーで塩抜きしなくてはならないが、これも一つの話題になる。記憶に残る米寿祝であった。

露天風呂から見た瀬戸内海

露天風呂から見た瀬戸内海

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我は海の子
 

我は海の子切手/水褌の少年

我は海の子切手/水褌の少年

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 BGMに流れる曲は懐かしい小学校唱歌である。誰でも知っている曲であるが、これが軍歌であると知る人は少ないだろう。

★☆★彡

1 われは海の子白浪の さわぐいそべの松原に 煙たなびくとまやこそ 我がなつかしき住家(すみか)なれ 
2 生れて潮に浴(ゆあみ)して 浪(なみ)を子守の歌と聞き 千里(せんり)寄せくる海の氣(き)を 吸(す)ひて童(わらべ)となりにけり
3 高く鼻つくいその香(か)に 不斷(ふだん)の花のかをりあり なぎさの松に吹く風を いみじき樂(がく)と我は聞く

(今の教科書では、以下は載せていないという)

4 丈餘(じょうよ)のろかい操(あやつ)りて ゆくて定めぬ波まくら 百尋(ももひろ)千尋(ちひろ)の海の底 遊びなれたる庭廣し
5 幾年(いくとせ)ここにきたへたる 鐵より堅(かた)きかひなあり 吹く潮風(しおかぜ)に黒みたる はだは赤銅(しゃくどう)さながらに
6 浪にただよふ氷山(ひょうざん)も 來(きた)らば來(きた)れ恐れんや 海まき上(あ)ぐる龍巻も 起(おこ)らば起れ驚(おどろ)かじ
7 いで大船(おおふね)に乗出して 我は拾はん海の富 いで軍艦に乗り組みて われは護(まも)らん海の國

★☆★彡

 「我は海の子」は、作曲・作詞不詳の文科省唱歌といわれていたが、作詞者は児童文学者の故宮原晃一郎(本名:知久)(1882〜1945)が10歳まで住んでいた鹿児島の天保山公園の海岸から見た桜島を思い浮かべて作詞したという。
黒  猫くろねこ

ふんどし

「いどくい」と「きんつり」

 私は、小学一年生から高校三年生まで黒潮が岸辺を洗う土佐湾の中央に位置する須崎(すさき)という漁村で育った。
 小学時代は、夏休みになると、「いどくいおおぜ(黒猫褌下さい)」と駄菓子屋にぶら下がっているふんどしを買って、一日中、真っ黒になって新庄川(しんじょうがわ)の川の口と富士ヶ浜で泳いで遊んだ。黒猫をなぜ「いどくい」というのか分からないが、「おいど」(お尻)に食い込むから「いどくい」というのだと、勝手に理解している。
 我は海の子切手の水褌(すいこん 前袋式六尺褌)の子は上級生で、幼児や貧乏人は黒猫褌かフリチンだった。

黒猫褌の少年

「黒猫褌の少年」拡大写真(600x400)68KB

新潟街角今昔  撮影:渡邊馨一郎

当時市販の黒猫褌

当時市販の黒猫褌
 先日、広島・修道高校出身の先輩とふんどし談義になったとき、広島では黒猫褌のことを「きんつり」と呼ぶそうで、子供の頃はもっぱらお世話になったという。
「近畿ツーリスト」を略して「キンツリ」と呼ぶが、バス旅行で旅友となった女性が「キンツリ」を盛んに連発するので恥ずかしかったという。ご想像のとおり、玉ゝを吊るのでズバリ「きんつり」なのだそうである。広島旅行中は、「キンツリ」はタブーである。

夏の遠泳

 18歳になった昭和40年(1965)に呉の海上保安大学校に15期生として入学し、4年半を過ごした。泳ぎはまったくの自己流だったが、須崎で河童のように真っ黒になって泳いでいたのが良かったのか、毎年夏の遠泳では1年生のときから5マイル(9.3km)を完泳し、競泳の背泳に優勝して水泳の指導学生を務めた。
 海を見たことのない子や泳げない子が毎年入学してくるので、彼らは特訓を受けてから遠泳に挑戦する。そばには指導学生が一緒に泳ぐし、警戒艇やカッターが伴走するので心配はない。遠泳は、5マイル離れた広島の近くから海に入り、保大の学生寮の裏の砂浜目指して二列縦隊で泳いで帰ってくる。潮や風の影響を受け、4〜5時間休みなしで泳ぐので、もよおしてくるとカッターにつかまって小用を足す。口の中が塩辛くなるため、氷砂糖が配給されるので、泳ぎながらしゃぶる。
 筆者が練習船こじまの教官をしていたとき、夏の遠泳で力尽きた学生が急に沈み、近くで一緒に泳いでいた学生が直ぐに引き揚げ、人工呼吸などを施してことなきを得たが、そのまま沈(ちん)すればお陀仏であった。水褌はこのようなとき、直ぐにつかまえることができるので、大変重宝するが、海水パンツはその点つかまえにくいので気をつけないといけない。
 私のような血液型がO型の人間は、疲れたら手を挙げると直ぐに引き上げでくれるので、遠泳で死ぬまで頑張り抜くことはしないが、A型のような真面目な子はギリギリまで頑張るのが逆に怖い。何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」で、無理は禁物である。
 当時保大では3マイルを泳げば3級に、5マイルを泳げば2級になり、競泳で優勝すれば1級となって、その都度水泳帽の筋が増えてゆく。これは、当時、海軍兵学校(海兵)出身者が教官に採用され、江田島の海軍兵学校を範にとったもので、水泳帽もそれにならっている。
 それだけのことに命をかけることはないはずだが、夢中になるととんだことが起こる。死にそうになった子もまだ泳げると思っていたのだろうが、一瞬のうちに力尽きると身体が動かなくなる。べた凪でも海は怖いところだと思ったことが、私の原点になっている。

★☆★彡

 卒業後間もなく、練習船こじまの教官となり、そこで家内と結婚。その後、4年前に退職するまで、海上保安官として北海道から九州まで巡視船艇と保安部署に転勤を重ねて海のまもりについてきた。今思うと、保大での生活が如何に貴重なものであったか、しみじみと噛みしめている。

関西ヨットクラブにて / 2003年1月25日

堀江健一さんと

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陸に上がった河童

 学生時代の4年間、ヨット部に所属し、三年生の夏、中国水域予選で勝ち、琵琶湖で開かれた第33回全日本学生ヨット選手権大会(インカレ)に主将で出場。決勝戦に残れなかったが、高校球児が甲子園に出場したようなことなので、青春時代の最大の勲章となった。そのお陰で、神戸に単身赴任中、堀江健一さんと知り合い、同じヨットマンとして心を通わせることができたのが嬉しかった。 著者近影
 海で育ち、海で暮らしてきた根っからのシーマンである私は、海が好きで、下手な俳句も北海道の稚内(わっかない)に単身赴任中に始めたので、北舟(ほくしゅう)と名乗り、間もなく500句になる拙句集も「海の風景」と名付けた。
 私のふるさとは土佐であるが、大学生と練習船こじま教官の6年半の青春時代を過ごした呉は、第二のふるさとである。須崎と呉は土佐と安芸の天然の良港という点で共通点があり、かつて須崎の野見(のみ)湾に連合艦隊が集結し、真珠湾攻撃に向かったことを知ってからは、因縁浅からぬものを感じている。
 四年前、私の海の経歴を買って貰って現在の建設会社に再就職し、青梅の我が家と新宿センタービルを毎日往復する生活になり、陸(おか)にあがった河童状態になっているが、こうして時々海に出ると、視界が広がり、開放感に浸ることができる。日本は周囲を海に囲まれた素晴らしい海洋国であり、日本人に生まれて本当によかったと思う昨今である。
 
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