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日本の3分の1(約132,000km2)の国土面積に1,116万人が暮らすギリシャは、小さな国土とは対照的に大いなる古代文明を築き上げた国として知られる。正式名はギリシャ共和国で、ヨーロッパの南東、バルカン半島最南端部に位置する。ペロポネソス半島に加えエーゲ海を中心に存在するおよそ3,000もの島々によって構成される。北は西からアルバニア、マケドニア、ブルガリア、東はトルコと国境を接している。本土の周囲は、東にエーゲ海、西はイオニア海、南は地中海に囲まれている。 |
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古くから日本では「ギリシア/希臘」と表記してきたため、広辞苑や世界大百科辞典のデジタル版で「ギリシャ」を検索してもヒットしないが、近年は、国会の制定法や外務省とギリシャの在日大使館のサイトをはじめ、「ギリシャ」と表記する例が多い。 フリー百科事典「ギリシャ」 |
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ギリシャ全図
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ギリシャは古代地中海文明の起源となった国の一つであり、ヨーロッパ文明の曙の地として、また、複数の文明の接点に位置する国として、ヨーロッパ、アフリカ、アジアの歴史に大きな影響を与えてきた。 |
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現在のギリシャは、国連、EU、NATOに加盟しており、通貨はユーロ Euro で、旅行時は1ユーロが約130円だった。オリンピックの発祥地として知られ、1896年と2004年には首都アテネで近代オリンピックが開催された。 |
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アテネの中心地アクロポリスの丘に建つパルテノン神殿
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西面↓ |
南面↓ |
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写真:フリー百科事典 Wikipedia |
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約75万人が暮らすアテネ市は、アッティカ地方アッティカ県にあり、ギリシャ共和国の首都として政治・経済の中心地であり、首都圏人口は約370万人を数える。古名はアテナイ(アテーナイ)といい、古代ギリシャ時代に強力な都市国家として栄えたことで知られる。 フリー百科事典「アテネ」 |
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約1,000万人の国民がギリシャ正教会に属するキリスト教徒で、その首長であるアテネ大主教がアテネに座すため、精神的な中心地でもある。ギリシャ正教会は、クレタ島を除くギリシャ一国を管轄している。 |
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資料 |
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▼ ギリシャ古代遺跡といえば、世界的に有名なアテネのアクロポリスである。1987年に世界文化遺産に登録されたアクロポリスは、高い丘の上の都市という意味で、古代にアテネの守護神・「アテナ女神」を祀ったパルテノン神殿が建てられた聖域であり、ポリスと呼ばれる都市国家を護る要塞としての役割を演じてきた。 |
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アクロポリスの丘に建つパルテノン神殿(西面/裏面) / アテネ
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イロド・アティコス音楽堂 Odeon of Herodos Atticus
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▼ アクロポリスの入口は、丘の西側にある。入場券を買ってオリーブの木々の中の参道をのぼって行くと、右手にすり鉢状の野外劇場であるイロド・アティコス音楽堂が見えてくる。現地の日本語ガイドブックには、「ヘロデ・アッティコスのオディオン」と表記されている。 |
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6000人の観客を収容できるこの劇場は、161年にギリシャの大富豪ヘロデス・アッティコスが妻リギラの記念として建造したもので、建物は典型的なローマ建築である。かつては音楽や演劇のコンテストに用いられおり、現在も毎年夏に開催されるフェスティバルの主会場として、コンテストやコンサート、オペラ、ギリシャ古典劇などが上演されているという。 |
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丘に登る途中右(南)に見える円形劇場「イロド・アティコス音楽堂」
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▼ 更にのぼって行くと、ブーレの門 Beule Gate があり、そこを通過すると左手にアグリッパの像が建っていた大きな台座がある。これは古代アクロポリスとは関係がなく、2世紀のローマ時代に建てられた遺物である。 |
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ブーレの門↓ |
アグリッパの台座↓ |
ピナコテク(休憩所)↓ |
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アテナ・ニケ神殿 Temple of Athena Nike
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▼ 右手にはアテナ・ニケ神殿があるが、現在、本格的な修復中の最中だった。イオニア式列柱で造られたこの神殿は、紀元前424年に完成したもので、戦いの勝利を願うアテネ市民が勝利の女神が逃げ出さないように翼を切り落として祀ったもので、「翼なき勝利(ニキ)の女神の神殿」とも呼ばれていたという。 |
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サモトラケのニケ Νίκη της Σαμοθράκης Victoire de Samothrace Winged Victory
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▼ ニケといえば、「サモトラケのニケ」が有名。エーゲ海北部に浮かぶサモトラケ島(現在のサモトラキ島)で発掘され、現在はルーヴル美術館に所蔵されている勝利の女神ニケの彫像である。優美でダイナミックな姿や翼を広げた女性という特徴的なモチーフが印象的で、各地にレプリカが作られて親しまれている。大理石製で高さは328cmある。 |
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最初の発見は1863年で、フランス領事シャルル・シャンポワゾによって胴体部分が見つかった。続いて断片と化した翼が見つかった。断片は全部で118片あったという。その後復元された像は、1884年にルーヴル美術館の「ダリュの階段踊り場」に展示され、現在に至っている。なお、右腕が1950年に発見され、ルーヴル美術館に保管されているが、その手は大きく広げられているという。 |
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▼ 参道から西方を臨むと、アクロポリスの北西に広がるアゴラの緑地帯が見える。中央に小高い岩山のアレオパゴスの丘があり、その北(右)方が古代アゴラ Ancient Agora で、そこにヘファイストス神殿が建っている。 |
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世界史の最初を飾る古代ギリシャがアゴラで、ミケーネ文明の崩壊の後にポリスと共に成立し、紀元前8世紀頃のホメーロスの時代までには都市の一部として確立した。最も著名なアゴラはアテナイの古代アゴラである。 |
現在のギリシャ語では、「アゴラ」は市場という意味だが、古代では政治、宗教、文化施設が集中する場所という意味だったという。古代ギリシャの男性たちは、アゴラで男の役目だった買い物をしただけでなく、政治を論じたり、雄弁家の話に耳を傾け、情報交換する社交場として利用していたという。哲学者のソクラテスやプラトンもアゴラで弁舌をふるい、喜劇作家のアリストファネスや歴史家のヘロドトスもこの時代に活躍したという。 |
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アレオパゴスは、100坪 330m2 くらいの広さで、当時のアテナイで最も教養のある有名な評議員たちの集まるアレオパゴス評議所と呼ばれる法廷があった。彼らは保守的な貴族たちであり、政治、宗教、道徳、文化、教育の諸問題を研究し、検討し、さらに裁判官の役目も果たしていたという。 |
アレオパゴスは、ギリシャ語で「アレスの丘」という意味で、ギリシャの軍神アレスが海神ポセイドンの子ハリローティオスを殺害したため、ここで裁判を受けたのに始まるという。 |
また、聖パウロがこの丘でキリスト教の宣教演説を行ったと伝えられており、彼が演説に立った場所には、十字を刻んだ標柱が打ち込まれている。丘の上からは東にアクロポリスの丘が見え、四方にアテネの町が見渡せる。 |
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アレオパゴスの丘↓ |
ヘファイストス神殿↓ |
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ソクラテス Σωκράτης Sōkratēs |
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▼左 ソクラテス(紀元前469年頃 - 399年4月27日)は古代ギリシャの哲学者。 彼自身は著作活動を行わなかったため、その思想は弟子のプラトンや歴史家のクセノポン、アリストテレスなどの著作を通じて紹介されている。 |
紀元前399年、ソクラテスは、アテナイの民主派によって「神々に対する不敬と、青年たちに害毒を与えた罪」を理由に裁判にかけられて死刑を宣告され、毒杯を仰いで刑死した。この裁判の情景を描いたのがプラトンが著した「ソクラテスの弁明」と呼ばれる対話集である。 |
プラトン Πλάτων |
▼右 プラトン(紀元前427年 - 347年)は古代ギリシャの哲学者で、アテナイ最後の王コドロス Codrus の血を引く貴族の息子としてアテナイに生まれた。ソクラテスの弟子でアリストテレスの師である。祖父の名前にちなみ「アリストクレス」と名付けられたが、体格が立派で肩幅が広かったためレスリングの師匠であるアルゴスのアリストンにプラトンと呼ばれ、以降そのあだ名が定着した。 |
若い頃は政治家を志していたが、やがて政治に幻滅を覚え、ソクラテスの門人として哲学と対話術を学んだ。紀元前387年、アテナイ郊外に学園アカデメイアを設立した。アカデメイアでは天文学、生物学、数学、政治学、哲学などが教えられた。そこでは対話が重んじられ、教師と生徒の問答によって教育が行われた。弟子にあたるアリストテレスは17歳のときにアカデメイアに入門し、そこで20年間学生として、その後は教師として在籍した。 |
下のプラトンの絵は、盛期ルネサンス期を代表する画家ラファエロ・サンティ Raffaello Santi (1483 - 1520)が描いた「アテナイの学堂 Scuola d'Atene (1511)」の中央に描かれたもので、ヴァチカン教皇庁のラファエロの間の壁を飾るフレスコ画である。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452 - 1519) の自画像がモデルとされている。 |
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ヘファイストス神殿 Temple of Hephaistos
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▼ 古代アゴラにあるヘファイストス神殿は、ギリシャで最も原形をとどめる神殿である。パルテノン神殿と同時期の紀元前6世紀初頭に建設された。ヘファイストスは、オリンポス12神の一人、鍛冶を司る神で、ゼウスとヘラの息子とされる。他の神と異なり、容色優れず、足が不自由である。美の女神アフロディーテの夫で、オリンポスの神々の使う武器や鎧を一手に引き受ける。シチリア島のエトナ山(火山)を仕事場とし、ローマ神話ではヴァルカン(ウルカヌス)として登場する。 |
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▼ 参道を更に上がると、最後の関門であるプロピライア(前門)の中央楼に至る。左に北翼、右に南翼の建物と組み合わさっており、通過する中央楼はドリア式の柱、両翼にはイオニア式の柱が立つ。ドリア式は、柱に溝があるだけの簡素なもので、重量感に溢れている。 |
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▼ プロピライアを通過すると、眼前に古代アテネの栄光を象徴するパルテノン神殿が現れる。ドリア式の列柱に囲まれ、横31m、縦70m、柱高10mの堂々たる建物で、15年の歳月を費やして、紀元前432年に完成した。2500年の風雪に耐えてきた神殿は、アテネの守護神アテナ女神を祀ったもので、市内の至る所から見え、アテネ最大のシンボルとなっており、1987年にUNESCOの世界文化遺産に登録された。 |
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Photo by my wife |
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かるかぜや あてねのおかの えんたしす |
Spring wind, the entasis at the hill of Athens. |
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シンプルなドリア(ドリス)式のエンタシス(ギリシャ装飾円柱)と梁のレリーフ(透彫)
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写真:フリー百科事典 Wikipedia |
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▼ パルテノン神殿の北側に建つエレクティオン神殿は、パルテノン神殿と同時期の紀元前5世紀に建てられたもので、アテナとポセイドンを祀っている。この神殿は、6人の少女像を柱とした柱廊が張り出しており、男性的なパルテノン神殿に比べ、上品さが漂うデザインが魅力的である。 |
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▼ この乙女の像は、カリアティデス aryastides と呼ばれるイオニア風の像だが、実はレプリカ(模作)で、オリジナルはアクロポリス博物館に保管されている。残念ながら博物館は休館中で、本物を見ることはできなかった。 |
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アテネの栄枯盛衰 |
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アテネは古名をアテナイという。古くから栄えた商業都市であり、古代ギリシャ時代には都市国家(ポリス)を形成した。紀元前6世紀頃のアテナイは、世界初の民主主義を取り入れた民主政の下で発展し、アッティカ地方全域を支配し、スパルタと並ぶ強国だったという。 |
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紀元前492年〜紀元前449年の三度にわたるペルシャ戦争では、ギリシャの都市国家連合の雄としてペルシャ帝国軍の撃退に大きく貢献し、戦後結成されたデロス同盟の盟主となって、古代ギリシャの中心都市として、また、学芸と文化の都として栄えた。 |
しかし、紀元前431年〜紀元前404年のペロポネソス戦争でスパルタに敗れて以降、国力は次第に衰退し、紀元前4世紀にマケドニア王国に屈服して政治的な独立を失った。その後、古代ローマの属領となり、ギリシャ世界の学芸の都として栄えた。ローマ帝国以降は、政治的・文化的な重要性は失われ、東ローマ帝国やオスマン帝国の時代を通じて、寒村といってよい状態にあった。 |
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18世紀後半に入ると、ヨーロッパでのロマン主義の盛り上がりに伴って、古代ギリシャ文明の中心地として注目を浴びるようになった。これに刺激されておこったギリシャ人のナショナリズムにより、精神的な中心地として地位を高めた。 |
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1830年にオスマン帝国から独立したギリシャ王国は、ギリシャ・ナショナリズムによる古代ギリシャ復興の風潮に合わせて、1834年にアテネを首都に定めた。以後、アテネはギリシャ国家の中心として次第に発展していった。 |
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ギリシャ王国の初代国王オソン1世が登用したドイツ出身の官僚たちは、西欧風の都市計画を導入し、アテネは近代国家ギリシャの首都にふさわしい都市として建設されていった。現在の町並みは、この時代に建設された市街や建築物が原型となっている。また、古代遺跡の保護活動も進められ、アクロポリスの丘が町のシンボルとして整備された。 |
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第二次世界大戦ではナチス・ドイツに占領されたが、戦後は急速に復興し、ギリシャの経済成長の中心として人口が爆発的に増加し、大都市となった。 |
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はるのそら あくろぽりすの いくせいそう |
The spring sky, how old the acropolis. |
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アクロポリスの北東に広がる旧市街・プラカ地区とリカヴィトスの丘(273m)
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▼ アクロポリスの北東方に標高273mの三角形の岩山が見える。リカヴィトスの丘と呼ばれ、アクロポリスと共にアテネのランドマークとして親しまれている。頂上からはアテネ市内だけでなく、天気が良ければピレウスの海まで見渡せる。 |
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頂上へはケーブルカーが通じており、手軽に登って眺望を楽しむことができる。夏の夜長には、頂上にあるタベルナ(レストラン)でゆっくりと食事を取りながら、ライトアップされたパルテノン神殿を楽しむのも一興という。 |
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リカヴィトスの丘の頂上に建つ聖ジョージ教会とレストラン
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▼ アクロポリスの丘の東端にある展望台に立つと、アテネ旧市街のプラカ地区はその麓の北側から東側にかけて広がっているのがよく分かる。ここは19世紀頃の家並みがそのまま保存されているため、道は狭く入り組んでいて、迷路に入った気がするが、タベルナ(食堂)や土産物屋が軒を連ねており、一度は散策したい場所である。 |
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