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旅行4日目の起床も5時起きで早かった。ホテルの庭のテーブルでビュッフェスタイルの朝食をとったのが朝6時。バガン空港でマンダレー行きの旅客に乗り込んだのが朝8時だった。軍事政権ということで、空港などの撮影は難しいと思っていたが、一切規制がなかったので拍子抜けした感じだった。 |
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バガンから空路マンダレーに向かう 2012.02.14 08:00 |
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▼ 93万人を擁するマンダレー
は、ヤンゴンに次ぐミャンマー第2の都市で、国土のほぼ中央部を流れるエーヤワディー川の東岸、ヤンゴンの北方約700kmの乾燥地帯にある。イギリスにより併合されるまで、ビルマで独立を保った最後のコンバウン王朝の首都(1860-1885)だった。 |
約25年という短い期間ではあったが、ミンドン王が君臨していた時代に標高236mのマンダレーの丘のふもとに建設された都市で、敬虔な仏教徒であった王の命を受けて、仏塔や寺院が集中的に建てられた。現在残っている建物の殆どがこの時代に建設されたものという。 |
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マハーガンダーヨン僧院の食事風景/アマラプラ 10:20 |
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▼ マンダレー周辺では、18〜19世紀にかけて何度も遷都が繰り返された。都になった町は4箇所ほどあり、そのひとつがアマラプラである。エヤワディー川とタウンタマン湖にはさまれたアマラプラは織物の街で、マンダレーの南方約11kmにある。1783年〜1823年と1841年〜1857年の二度にわたって都が置かれたが、マンダレーに都が移された際に宝物などが運ばれてしまい、また、地震による被害などもあって、古都を偲ばせるものは少ない。 |
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白い法衣の子供たち 10:22 |
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▲▼ マンダレー空港から真っ先に行ったところは、アマラプラのマハーガンダヨン僧院である。ここは、ミャンマー最大級・最高位の僧院のひとつで、全国から集まった1000人
を超える僧侶が修行生活を送っている。バゴーのチャッカワイン僧院と同じように、宿坊から集まってきた修行僧が広い食堂で一斉に食事する光景を見学することができる。 |
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炊き出しを受ける修行僧たち 10:28 |
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▲▼ 働いているのは、ボランティアの信者たち。あっという間に炊き出しの大きな釜が空になってゆく。白い法衣の少年僧は、6〜7歳の見習僧である。
今や観光スポットのひとつとして、観光客が大勢押しかける。 |
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食堂で食事を取る僧侶たち 10:37 |
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ウー・ペインとは「ペイン氏」ということで、インワからアマラプラへの遷都の際に市長をしていた彼がアマラプラの東に広がるタウンタマン湖を渡るために全長約1.2kmの歩道橋を架けた。 |
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タウンタマン湖に行く/アマラプラ 10:45 |
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▼ ウー・ペイン橋の入口付近で大きなスピーカーを据えて土産物を売っている屋台があり、アウンサン将軍とアウンサン・スーチー女史の写真が飾られていた。これは少し前なら考えられなかったことかも知れない。軟禁を解かれた彼女は、このとき、選挙のために全国遊説をしている最中だった。スローペースではあるが、着実に民主化が進んでいるように思えた。 |
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アウンサン将軍とアウンサン・スーチー女史の写真 |
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日本でも有名なアウンサン・スーチー女史。世界中の人々は、彼女によってミャンマーが民主化されることを願っている。子供たちはミャンマーの小僧たち。
私は子供たちの無垢な微笑みが大好きだ。幸多かれと祈る。 |
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All the people of the world are hoping for the democratization of Myanmar by Aung San Suu Kyi. She is very famous in Japan, too. These children are monks of Myanmar. I like their innocent smile. I hope their happiness in the coming future. |
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出家した小僧に手を合わすアウンサン・スーチー女史 |
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Photo by Mr. Min Min Aung /
Myanmar |
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▲ 父親のアウンサウン将軍に根強い人気があり、娘のアウンサン・スーチーには有利に作用するだろう。しかし、夫がミャンマーを植民地化した英国人(故人)だったので、ミャンマー人には複雑な気持ちがあると思われる。 |
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タウンタマン湖を横断するウー・ペイン橋 |
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このウー・ペイン橋の最大の特徴はチーク材で作られているということ。今はどこでも貴重な木材となったチーク材なので、管理の札が取り付けられている。板の間からは下が見え、欄干がないので、橋の上の歩行には注意がいる。マンダレーにやってきた観光客の殆どが訪れる定番のコースである。 |
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ウー・ペイン橋に入る |
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木道橋を歩く |
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湖上を行く手漕ぎ舟 10:55 |
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タウンタマン湖には、渡し舟として使われている独特の形をした手漕ぎ舟がある。水鳥を模したと思われる舟形で、舟首と舟尾がカラフルに塗装され、目玉が描かれている。長い二本の櫂(かい)を器用に操って進む。
舟頭は立ったまま漕ぎ、乗客は座席に座る。 |
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二本の櫂で進む渡し舟 |
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写真:日本アセアンセンター |
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ふゆひさす たうんたまんこや てこぎぶね |
Winter
sunshine, rowing boats of Toungthaman Lake. |
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客を待つ渡し舟/タウンタマン湖 11:06 |
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アマラプラは織物で有名な町である。その内の一軒に案内されて見物した。木製の手織り機で女工たちが実に根気の要る作業をしていた。そこにはHIRANOと表示された日本の機織り機
(動力織機)があり、歴史博物館に保存されているような器械がまだミャンマーで使われていることに驚いた。 |
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織物工場の見学/マンダレー 11:14 |
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人力による小規模な生産は、大規模な外国資本がミャンマーに導入されれば、壊滅的な打撃を受けるだろう。そのため、ミャンマー政府は、地元零細企業を護るためにさまざまな規制を設け、保護政策を取っている。 |
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しかし、それによって旧態依然とした家内制手工業に毛が生えた程度の小規模な産業構造が温存され、成長を阻むことにもなる。かつて遠い昔、明治維新の頃に日本が経験したことが、今ミャンマーが直面している大きな課題のように思えた。 |
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女性の繊細な技術 |
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▼ 移動途中で仏像を造っている界隈を通過した。マンダレー近くにサガインという採石場があり、そこの雪花石膏の彫刻の評判がすこぶる高い。仏陀の衣は、柔らかなシルクでできているかのように見えるという。 |
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仏像製造販売街/マンダレー 11:46 |
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▼ 幸運にも得度式(シンビュウ)を受ける子供たちの一団に出会ったので、車を止めてもらって撮影した。地元の資料によると、得度式は、幼い男児が僧になる前に皇子の恰好をして町中を回るもので、シッタ皇子が出家した姿をシンボルにした習慣だという。「シッタ皇子」ということは、釈尊・ゴータマ・シッダールタの出家時の姿を真似たものと思われるが、一般庶民のかなり思い上がった習慣のように見える。日本では恐れ多いことではないだろうか。 |
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得度式一行/マンダレー 11:51 |
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▲▼ ミャンマーでは、ほとんどの仏教徒が子供の頃に一度出家して仏門に入るという。男子は剃髪され、見習い僧として数週間あるいは数ヶ月僧院に預けられた後、再び俗世に戻る。本格的な出家というよりは通過儀礼的な意味合いが強いが、中には見習い僧として大人になるまで寺で修行する子供もいるという。 |
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シッタ皇子の衣装を着た子供たち 11:55 |
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▼ ヤンゴンのシュエダグォン・パヤーに次ぐミャンマー第二の聖地がマンダレー最大の寺院マハムニ・パヤーである。ここの本尊は、創建者のボードパヤー王(在位1782-1819)の手によってヤカイン地方から運ばれてきたという伝承があるため、ヤカイン・パヤーとも呼ばれている。 |
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マハムニ・パヤー/マンダレー 12:00 |
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マハムニ・パヤーの黄金の仏塔 |
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写真:日本アセアンセンター |
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黄金に輝く寺院の内部。創建100年後の1884年の大火災で建物は焼失してしまい、この建物は再建されたもので比較的新しい。本尊のマハムニ仏は青銅の鋳造であったため、難を逃れ、現在では再び信者の寄進による金箔で覆われている。 |
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信者で賑わうマハムニ・パヤー |
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▼ 御本尊は、長年にわたって信者が胴のいたるところに金箔を張り付けるので原型が失われている。体は膨れあがった状態だが、顔にだけは貼らさなかったため、奇跡的にオリジナルの御尊顔を拝することができる。 |
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黄金の仏陀 |
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ミャンマー人は、どうしてこうも金が好きなのか。日本では、金ピカ趣味の人は成金のようで余り尊敬されないが、こちらでは金ピカであればあるほど尊いと思われるらしい。この寺院の金箔は、いつも見るような薄いものでなく、厚さのある重厚な感じがする。ありとあらゆる場所に金箔が貼られている様は、すごいの一言に尽きる。 |
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仏陀に金箔を貼る信者たち |
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近づいて御本尊をよく観察してみると、胴体部分は金箔が餅のように盛り上がり、ボコボコになっている。こんなに金を貼り付けて、仏様を醜い姿にしてしまってどうするのかと驚くのが日本人だが、ミャンマー人は益々尊いと思うのだろう。価値観や審美感の違いはどうしようもなく、日本では、このような光景は絶対にあり得ない。 |
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仏陀の横顔 12:07 |
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今に残る壁画 |
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続いて、キング・ガロンという金箔工房を見学した。金箔は、巡礼の必需品。ミャンマーではいまだに人力による昔ながらの重労働が続いている。工房では、まず竹の皮を3年間水に漬け、柔らかくなったものを乾燥させてから叩いて薄く延ばす。その皮に金粉を包み、日本の江戸時代の褌一丁の職人のように、ロンジー一丁の裸の職工たちが大きなハンマーを振り下ろし、ひたすら叩きあげて金箔を広げて行く。工房では、ハンマーの金属音が響き続ける。金の延展性により、叩けば叩くほど薄く大きく広がって行く。 |
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キング・ガロン金箔工房 12:54 |
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こうして金箔ができあがると、女性たちが紙に包んで完成品にする。紙や金箔が風で飛ばないように、暑くても窓は閉め切ったまま作業が続けられる。長い時間と手間をかけてできあがった金箔が仏像に貼られてゆく。来世の幸福を願う信者たちは、その行為によって御仏のために功徳を積んだという自負と確信が得られる。 |
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金箔を使った土産物 |
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▼ 旧王宮は、ミャンマー最後の王朝となったコンバウン朝の王宮である。敷地は一辺が約3kmの正方形で、高さ8mの城壁に囲まれている。要所に物見の塔がある。城壁は、幅70mほどの濠に囲まれており、東西南北4本の橋で市街と結ばれている。 |
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再建された旧王宮/マンダレー 14:28 |
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マンダレーへの遷都を決めたミンドン王が1857年に建設を開始してから4年後に完成した。しかし、1885年、この地を占領したイギリスは、当時のティーボー王をインドに追放し、ここをイギリス軍の施設とした。 |
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第二次世界大戦がはじまると、1942年に日本軍に占領され、1945年3月、劣勢の日本軍と反攻に転じた英印連合軍との戦闘で、王宮は焼失してしまった。当時のまま残っているのは、城壁だけである。 |
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ミンドン王の「勝利のホール」 |
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戦後はミャンマー軍の施設として利用され、民間人が自由に出入りすることはできなかった。しかし、90年代の末に旧王宮が再建され、その部分に限って
一般公開されるようになったが、我々外国人が入れるのは、東口だけとなっている。 |
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螺旋階段の物見の塔 |
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旧王宮に行けば、必ず螺旋階段の物見の塔に上らなければならないというので、強行軍で疲れた身体に鞭打って展望台まで上り、王宮内だけでなく、マンダレーの街並みやマンダレー・ヒルを遠望した。 |
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物見の塔からの眺望 |
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