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はじめに |
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平成20年(2008)5月22日(木)〜6月1日(日)の間、ルックJTB 「大西洋の楽園マデイラ島と世界遺産の宝庫ポルトガルハイライト11日間」の旅(参加者18名)に出掛けた。以下、この旅のハイライトを紹介したい。 |
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■ 旅の概要 ■
1日目 2008年05月22日(木) 関西国際空港〜LJ421便〜ロンドン・ヒースロー空港〜TP387便〜 ポルト(泊)
2日目 2008年05月23日(金) ポルト 観光(泊)
3日目 2008年05月24日(土) ポルト〜アヴェイロ観光〜コインブラ観光〜トマール(泊)
4日目 2008年05月25日(日) トマール〜バターリャ観光〜 ナザレ観光〜アルコバサ観光〜トマール(泊)
5日目 2008年05月26日(月) トマール観光〜オビドス観光〜ロカ岬観光〜シントラ(泊)
6日目 2008年05月27日(火) シントラ観光〜リスボン〜空路〜マデイラ島・フンシャル(泊)
7日目 2008年05月28日(水) マデイラ島観光( フンシャル泊)
8日目 2008年05月29日(木) フンシャル観光〜 空路〜リスボン(泊)
9日目 2008年05月30日(金) リスボン観光(泊)
10日目 2008年05月31日(土) リスボン空港〜TP35便〜ロンドン・ヒースロー空港〜JL422便〜(機中泊)
11日目 2008年06月01日(日) 〜 関西国際空港(解散) |
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ポルトガルの位置 |
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Google Earth |
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ポルトガル共和国 República
Portuguesa |
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▼ 91,985km2(日本の約1/4)の国土に1,064万人を擁するポルトガルは、西ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和国で、北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。モロッコとの間には陸上国境がなく、大西洋を挟んで南東に200km離れている。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。 |
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ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国で、かつてはヨーロッパ主導の大航海時代の先駆者となり、ヨーロッパで最初に日本や中国など東アジア諸国との接触を持った。2009年のGDPは約2278億ドル(約20兆円)で、ほぼ埼玉県と同じ経済規模を有する。 |
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ポルトガル11日間のルートマップ |
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資料 |
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■ 一日目/5月22日(木):関西国際空港〜JL421便〜ロンドン・ヒースロー空港〜TP387便〜
ポルト(泊) |
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ツアー初日は、午前8時に関西国際空港に集合し、日本航空JL421便で出発し、12時間の空の旅でロンドン・ヒースロー空港に到着。乗り継ぎのポルトガル航空が機材整備のため4時間遅れとなり、食事券が出たものの、長い待ち時間となった。夜半にポルトガル航空TP387便に乗り、2時間後にポルトに到着。入国手続きののちツアーバスに乗り、午前3時過ぎにホテルに到着。長い長い一日となった。 |
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■ 二日目/5月23日(金):ポルト観光(泊) |
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▼ ツアー
二日目は、
午前中、自由散策となり、正午に専用のツアーバスにてホテルを出発し、ポルト市内の観光を楽しみ、ポルトに連泊した。 |
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ドウロ川に架かるドン・ルイス I 世橋 / ポルト |
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ポルト Porto |
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▲▼ ポルトはポルトガル北部の港湾都市で、人口は約263,000人。リスボンに次ぐポルトガル第二の都市で、ポルト都市圏では、160万人を数える。大西洋に流入するドウロ川北岸の丘陵地帯に築かれ、河口に近い。ドウロ川にはドン・ルイス I 世橋など4本の橋がかかる。古い街並みを残す旧市街は、ポルト歴史地区として1996年に世界文化遺産に登録された。 |
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ドン・ルイス I 世橋より臨むドウロ川 |
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ポルトガル発祥の地 |
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ポルトの創設は、5世紀より更に古く、ローマ帝国時代からの港町ポルトゥス・カレ(ラテン語でPortus Cale、「カレの港」の意)に起源をもつ。ローマ時代にはコンダドゥス・ポルトカレンシスといい、ここに成立した王国がポルトガル王国となり、ポルトガルの起源となった。 |
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ポルト旧市街歴史地区(世界文化遺産) |
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ローマ帝国の衰退後、西ゴートの支配を経て、8世紀にはイスラム教徒の支配となったが、レコンキスタ(国土回復運動)の成功により、11世紀に領土を奪還したフランス貴族がこの地を与えられ、その地名からポルトカリア伯爵と呼ばれた。 |
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伝統の建物に入居したマックの店 |
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古きカフェの雰囲気を残した美しい内装 |
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高台よりサン・ベント駅を臨む |
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サン・ベント駅 |
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ポルトガルの国土は、ポルトカリア伯爵の息子アフォンソ
I 世の進軍によって南に広がり、現在の大きさとなった。
14〜15世紀には、ポルトは、天然の良港であることを生かし、ポルトガルの海外進出の拠点として栄えた。 |
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アズレージョ(装飾タイル)で飾られたサン・ベント駅 |
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大航海時代の幕開けとなったエンリケ航海王子によるモロッコのセウタへの攻撃もポルトが出発点となった。 |
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大屋根のプラットフォーム |
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1916年にポルト旧市街の中心地にあった修道院の跡地に完成したサン・ベント São Bento 駅は、駅舎の壁にジョルジェ・コラコが描いた美しいアズレージョ azulejo(装飾タイル)が有名で、2万枚を超えるアズレージョを用いてポルトの歴史にまつわる情景が描かれている。写真下・上段の青いタイル画は、エンリケ航海王子によるモロッコのセウタへの攻撃を描いた大作である。 |
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エンリケ航海王子 Infante Dom Henrique |
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エンリケ航海王子(1394 - 1460)は、ポルトガルの王子で、自らは航海しなかったが、大航海時代の初期における重要人物のひとりである。アヴィシュ王朝を開いたジョアン I 世の子で、後に初代のヴィゼウ公となる。 |
その生涯において、探検事業家、パトロンとして航海者たちを援助・指導し、それまで未知の領域だったアフリカ西岸を踏破させるなどしたことで、大航海時代の幕を開いた。 |
1414年、21歳となったエンリケは、父ジョアン
I
世とともに、ジブラルタル海峡に面したアフリカ北岸にあるセウタの攻略戦に参加し、イスラム勢力と戦った。翌年8月にはセウタの攻略が完了し、ポルトガルはアフリカ一帯への進出を始める準備が整うこととなった。この出征において武功を立てたエンリケは騎士に叙され、ジョアン
I
世によって新たに設けられたヴィゼウ公の位に就いた。 |
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駅構内の素晴らしいタイル画 |
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▼▲ 下段のアズレージョは、「レオン国王の前でひざまずくエーガス・モニス Egas Monis」である。話はさかのぼるが、12世紀初期、ポルトガルは、スペインのレオン国の領土で、ポルトカーレと呼ばれていた。ポルトガル初代国王となるアフォンソ・エンリケスがまだ王子の頃、スペインからの独立を望み、レオン国と交戦したが、逆にレオン国王にポルトカーレのギマラインス城が包囲されてしまった。 |
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アズレージョの名作「レオン国王の前でひざまずくエーガス・モニス Egas Monis」 / ジョルジェ・コラコ作 |
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▲ 落城が目前に迫ったとき、王子の教育係であった貴族「エーガス・モニス」は城を出てレオン国王のもとへ出向き、身命を賭して包囲を解くよう説得した。このアズレージョはそのときの情景を描いたものである。 |
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忠臣エーガス・モニスの機智により、レオン軍が撤退してから10年後の1143年、ポルトカレンスの独立がローマ法王から承認され、アフォンソ・エンリケス王子はポルトガルの初代国王となった。 |
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カラーのアズレージョ
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大航海時代は、15世紀中ごろから17世紀中ごろまで続いたヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいい、主に西南ヨーロッパ人によって開始された。 |
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その魁(さきがけ)となったポルトガルは、マデイラ島を含む大西洋諸島でのサトウキビ栽培、アフリカのギニア湾への進出、ヴァスコ・ダ・ガマによる喜望峰を経由したインド航路の開拓、アジアの香辛料獲得、ブラジルの領有と、ポルトガルの黄金時代を築いた。このときのポルトガルの栄光と富の全ては、ポルトから始まった。 |
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日本を訪れた南蛮船(16-17世紀、狩野内膳画「南蛮屏風」)
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▲ 南蛮貿易は、大航海時代、日本の商人と南蛮人(スペイン、ポルトガルの商人)との間で16世紀半ばから17世紀初期にかけて行われていた貿易である。 |
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1543年に種子島にポルトガル人が到来した。ポルトガル船はその前年すでに琉球に到達していたが、琉球人はポルトガル船がマラッカを攻撃して占拠したことを知っていて、交易を拒否した。一方、日本の商人はポルトガル商船との交易を歓迎したため、ポルトガル船はマラッカから日本に訪れるようになった。 |
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1557年にポルトガルがマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点として、日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。織田信長・豊臣秀吉は基本的に南蛮貿易を推奨した。スペインはポルトガルに遅れてアメリカ大陸を経由した太平洋航路を開拓し、ルソン島のマニラを本拠として日本を訪れるようになった。 |
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徳川家康はスペインとの貿易に積極的姿勢を見せた。生糸の独占的利益を得ていたポルトガル商人に対しては、これを削ぐことを目的として、京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間を結成させた。 |
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家康の頃はキリスト教は禁止されてはいたものの貿易は推奨されていた。しかし、その後の江戸幕府は、禁教政策に加え、西国大名が勢力を伸ばすことを警戒し、長崎・出島でのオランダ人との交易を特例として認める以外は、海外との貿易を一切禁止する鎖国政策をとった。 |
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▼ 日本の火縄銃がポルトガルの銃を模倣したものであることはよく知られている。1543年、ポルトガル人 Fernão Mendes Pinto が鹿児島県の種子島に漂着し、最初の3丁が日本に輸入された。その際の地名を取って火縄銃のことを種子島とも呼ばれた。その270年ほど前に、中国から火薬が日本に輸入され、原始的な鉄砲と呼ばれる銃は日本国内に存在していたが、使い勝手が悪く、農民が害獣を追い払うのに使用する程度だった。 |
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しかし、伝来した火縄銃は、マッチロック式で容易に点火でき、従来の物とは比べ物にならないほどの速射が可能で、合戦でその効果が証明されると、戦国大名たちはこぞって買い求め、自国での量産化に奔走した。火縄銃は、世界的に見ても異常な速度で日本全土に普及し、戦国時代の戦闘の形態を一新させた。一説によれば、当時の日本の銃の保有量は、オスマン帝国と並んで世界最大規模だったと推定されるという。 |
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ポルトガルの銃を模した日本の火縄銃
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カテドラル Sé |
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▼ 街を見渡す丘の上に建つカテドラルは、もとは要塞として12世紀に建造されたもので、17〜18世紀にかなりの改修がなされた。地元で「セ」と呼ばれるカテドラルは、ポルト教区の司教本部であり、ポルトの最も古いモニュメントの一つである。 |
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ポルトのカテドラル(ファサード)
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▲▼
ロマネスク様式の建物は、何度もの変更に見舞われた。ロマネスク時代には、ファサード(正面の姿)に2つの塔と薔薇の装飾をもち、教会は3つの身廊*(しんろう)があり、天井は半円筒穹窿**(きゅうりゅう)だった。丸天井はフライング・バットレスという飛梁(とびばり)で支えられており、この建築様式を踏襲している建物の代表である。 |
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*身廊(しんろう):教会堂の入口から内陣に至る中央の主要な部分。
**穹窿(きゅうりゅう):半球状の屋根・天井。ドーム。 |
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カテドラルの豪華な祭壇 |
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バンドームのマリア |
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サン・フランシスコ教会 Igreja
de São Francisco |
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▼ サン・フランシスコ教会は、14世紀初めに建てられた修道院付属の教会である。当初はゴシック様式だったが、17世紀にバロック様式に改修されている。中に入ると、教会内部を覆う金泥細工のバロック装飾に圧倒される。なかでも左側二番目の礼拝堂にある「ジェッセ Jessé の樹」と呼ばれるキリストの系図は有名。 |
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サン・フランシスコ教会 |
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キリストの系図
「ジェッセの樹」 |
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▼ ドン・ルイス I
世橋を渡ってドウロ川の対岸ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアへ行くと、ラベーロ Rabelo (帆船)が浮かぶ川岸に、30を越すワイン蔵が並んでいる。サンデマン Sandeman など英語の名前が多いのは、スペインに対抗する手段として17世紀に関税特権を与えられたイギリスの企業が進出してきたためで、以後ポルトでのワイン醸造が盛んになった。 |
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ポートワイン醸造社「サンデマン」
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ポートワイン vinho
do Porto / Port Wine |
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▲▼ ポートワインは、ポルト港から出荷されるポルト特産の酒精強化ワイン。日本の酒税法上では甘味果実酒に分類される。ポルト・ワインともいう。14世紀中頃からポルトガル北部で生産が始まり、18世紀にはポルト港からイングランドに大量に輸出された。ポルトガル語のポルトPorto は「港」の意味で、英語のポート Port と同源であることから、イングランドではポートワインと呼ばれて有名になった。 |
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ポートワインは、まだ糖分が残っている発酵途中にアルコール度数77度のブランデーを加えて酵母の働きを止めるのが特徴。この製法によって独特の甘みとコクが生まれる。また、アルコール度数は20度前後と通常のワインの10〜15度に対し5〜10度程も高く、保存性が非常に優れている。 |
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ベースとなるワインは各地で作られているが、最終的に熟成する地域が指定されており、そこで最低3年間樽の中で熟成されたものだけがポートもしくはポルトと呼ばれる。長いものは樽の中で40〜50年熟成させ、徐々に香りを芳醇にして味わいをまろやかにしていく。 |
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長時間オーク(樫)樽で熟成させるポートワイン |
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赤と白があり、赤は輝くルビー色で「ポルトガルの宝石」と称されている。一般に、白は食前酒(アペリティフ)としてオードブルなどと一緒に、赤は食後酒(アフター・ディナー・ワイン)としてチョコレートなどと一緒に飲まれる。 |
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ちなみに、ポルト、マデイラ、シェリーが世界三大酒精強化ワインとして知られ、アペリティフの定番となっている。 |
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「ポルトガルの宝石」と呼ばれるポートワインの赤(タウニー・ポート) |
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かつては樽に詰められたワインは、ラベーロと呼ばれる帆船が運んでいたが、1964年以降はトラックや鉄道に取って代わられた。現在、ラベーロは、浮かぶ広告塔としてドウロ川に係留されている。 |
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らべーろの ぽーとわいんや しょかのかわ |
The river of early summer, port wine on the rabelos. |
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1960年代まで実際に使われたワインを運ぶ帆船ラベ
ーロ |
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ドン・ルイス I 世橋 Ponte
de Dom Luis I
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▼ ドウロ川 Rio Douoro
に架かるドン・ルイス I 世橋は、エッフェルの弟子によって1886年に完成した幅8mの二階建の鉄骨アーチ橋で、ポルトのヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア Vila Nova de Gaia
の丘の上の街とポルトの中心部を結ぶ道路・鉄道併用橋である。 |
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上層の長さは395mで、下層の長さは174m。現在上層は歩行者とメトロ
(地下鉄)用に、下層は自動車と歩行者用になっている。メトロは橋を挟んでポルトで最も大きい病院の一つ、サン・ジョアン病院 Hospital
de São João
とヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアの役所を結んでいる。 |
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ドン・ルイス I 世橋
のライトアップ
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■ 三日目/5月24日(土):ポルト〜アヴェイロ観光〜コインブラ観光〜トマール(泊) |
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午前9時にホテルを出発し、アヴェイロへ。モリセイロという小舟で運河めぐりを楽しんだあと、
アヴェイロ駅を見学。ブサコで昼食後、コインブラに行き、ポルトガル最古のコインブラ大学を見学。トマールに宿泊。 |
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観光ボート「モリセイロ」で運河めぐり /
アヴェイロ
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▲▼
アヴェイロは、ポルトガル中部地方にある都市で、アヴェイロ県の県都である。大西洋岸に位置し、ポルトガルにおける重要な漁港がある。イタリアの海港都市ヴェネツィアと同様に、海を克服してきた「潟」の街でもあることから、しばしば、「ポルトガルのヴェネツィア」とも呼ばれる。 |
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ヴェネティアのゴンドラのような「モリセイロ」 |
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▲
アヴェイロの中央部を流れる中央運河には、肥料用の海藻を集めるモリセイロと呼ばれる極彩色の絵で美しく飾られた舟が浮かぶ。現在は、ヴェネツィアのゴンドラのように観光ボートとして利用されている。 |
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アズレ-ジョがすばらしいアヴェイロ旧駅舎 |
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▲▼
アヴェイロ駅の旧駅舎は、壁面が美しいアズレージョ(彩色タイル)で飾られている。列車は横に新設された新駅舎に停車する。ポートワイン用の葡萄畑で働く裸足の女性たちを描いたアズレージョは、当時の様子を知る貴重な資料ともなっている。 |
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葡萄畑で働く人々を描いたアズレ-ジョ |
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