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四天王寺式伽藍 |
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右(南)から仁王門、五重塔、金堂、講堂が南北一直線に並ぶ。 |
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聖徳太子
?〜622年(推古30年) |
6世紀末〜7世紀前半の政治家、仏教文化推進者。用明天皇の皇子で母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(欽明天皇皇女)。生年は確かでない。幼名は遠戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子。 |
初め上宮(うえのみや)に住み、後に斑鳩宮(いかるがのみや
今の法隆寺東院の地)に移ったというが、14、15歳のころ蘇我馬子(そがのうまこ)の軍に加わって物部守屋(もののべのもりや)を討ち、そのとき四天王に祈念して勝利を得たので、のちに難波(なにわ)に四天王寺を建立した。 |
日本書紀によれば、592年(崇峻5年)11月に馬子が崇峻天皇(すしゅんてんのう)を殺すと、翌月に日本初の女帝・推天皇(すいこてんのう)が即位し、翌年(推古1年)4月に太子を皇太子にして万機を摂政させたという。 |
大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり、特にその中の冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、天皇記・国記以下の史書の編纂などは、蘇我氏権力を否定し、律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化している。 |
日本書紀がすでにその事跡を神秘化している聖徳太子は、奈良時代には法隆寺や四天王寺に祀られていた。 |
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2002年1月14日(月)、大阪市天王寺区にある四天王寺(してんのうじ)で恒例の「どやどや」が行われた。 |
「どやどや」は、岡山県・西大寺会陽(さいだいじえよう)と岩手県・黒石寺蘇民祭(こくせきじそみんさい)とともに日本三大奇祭に数えられている注。今年は成人の日に重なり、日中に行われるというので見学に出かけた。 |
注 出典:岡山市西大寺支所 |
JR三宮駅から快速で25分、大阪駅に着くと徒歩10分で地下鉄東梅田駅に行き、谷町線で10数分、四天王寺前夕陽ヶ丘駅に到着。南に5分歩くと道路左側の四天王寺中之門に着く。 |
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四天王寺
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四天王寺は、日本最初の官寺で、荒陵山(あらはかさん)と号し、荒陵(あらはか)寺、天王寺ともいう。もとは天台宗で、第2次大戦後独立して和宗総本山となった。 |
587年物部守屋(もののべのもりや)討伐のとき聖徳太子が四天王に戦勝を祈願して寺院の建立を発願し、593年(推古1年)造営に着手したと伝えられる。 |
伽藍配置が中門(仁王門)、塔、金堂、講堂を南北中軸線上南向きに並べる四天王寺式として知られている。
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中之門
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623年新羅(しらぎ)大使献上の金塔、舎利、幡などが施入され、648年(大化4年)阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)は塔内に四天王像を安置し、霊鷲山像(りようじゆせんぞう)を造り、塔内四隅には斉明天皇のために天智天皇発願で造立した大四天王像が安置された。 |
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お寺さんの行列
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以後、交通の要衝であった難波(なにわ)の海に面し、四天王をまつることにより、京畿の西方を守護する存在とされ、律令国家と天皇の安寧を祈る官大寺として、尊崇と厚い保護をうけた。 |
四天王寺は、念仏聖(ねんぶつひじり)の集まる地として知られ、熊野、高野山、善光寺とともにその拠点となり、彼らによって念仏と太子信仰が各地に広められた。融通念仏をはじめた良忍(りょうにん)や法然、親鸞、一遍など鎌倉仏教の宗祖たちの参籠も伝えられ、四天王寺の信仰をさらに増幅させることとなった。
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四天王
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須弥山(しゆみせん 仏教の宇宙観に説かれる神話的な聖山)の中腹にある四天王天(又は四大王天、四王天)の四方に住んで仏法を守護する4体の護法神。四大天王、四王、護世四王ともいう。
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東方に持国天(提頭頼押(だいずらた)の訳)、南方に増長天(毘楼勒叉(びるろくしや))、西方に広目天(毘楼博叉(びるばくしや))、北方に多聞天(毘沙門)が位置する。経典には梵天や帝釈天とともに仏法の守護神として現れる。
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日本では飛鳥時代以来、四天王に対する信仰はあつく、四天王寺や東大寺が建立されるなど国家の平安が祈願され、多くの造像がなされ、堂内の四隅や須弥壇(しゆみだん
仏像などを安置する壇)上の四隅に安置された。
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中門(仁王門) 中門は主要伽藍の南端、南大門の北に位置し、脇の間に伽藍の守護神である金剛力士
(仁王像)をまつっていることから俗に仁王門
と呼ばれる。
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一般見学者立入禁止
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五重塔 聖徳太子創建の時、六道利救の悲願を込めて、塔の礎石心柱の中に仏舎利六粒と自らの髻髪(きっぱつ)六毛を納めたので、この塔を「六道利救の塔」という。正面に釈迦三尊の壁画と四天王の木像が祀られている。
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金堂 聖徳太子の本地仏(ほんじぶつ)(全ての根本となる仏)である救世観音(ぐぜかんのん)を祀り、四方を四天王が守護している。
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講堂 経典を講じたり法を説いたりする七堂伽藍の一つのお堂。
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亀の池・石舞台 講堂の北に亀の池がある。石舞台は、その池に架かる石橋に組まれた舞台で、毎年4月22日に聖徳太子を偲んで行われる大法要の際には、舞台上で舞楽(ぶがく)が舞われる。
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六時堂
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境内中央に位置する雄大なお堂で、亀の池の北にある。昼夜6回にわたって諸礼讃をするところで、六時礼讃堂が正式名。薬師如来と四天王等を祀っており、回向(えこう
供養)、納骨等の法要が行われる。
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どやどやは、六時堂で行われ、御札争奪戦が繰り広げられる。正面・特等席の石舞台は、報道陣が占領し、我々一般見学者は入れない。
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参 道
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最後の打ち合わせ
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どやどやの参加者が通る参道は、ロープが張り巡らされ、立ち入れない。一時間前に到着したにもかかわらず、既に前列の空きスペースはない。この日の参詣者(観客)は、寺側の発表で約5,000人だった。
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六時堂の北側には天王寺警察署の警備本部と救護テントが設営されていた。
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